
『鳳凰飛び立つ』
人を見かけで判断していませんか?
今回は、三国志の中でも謎の多い人物、龐統(字 士元)について話します。

【孔明の慟哭】
呉では、大都督周瑜を失くして悲しみに包まれていました。
孫権の命で国葬と呼べるほどの盛大な葬儀が催されていました。
そこへ弔問に訪れたのが劉備の代理として来た諸葛亮でした。
居並ぶ呉の武将たちは孔明に憎しみと怒りの感情を隠しもせずにぶつけます。
なかには剣に手をかける者までいます。
そんな武将たちには目もくれず孔明は、周瑜の霊前で慟哭してみせるのです。
それを見た呉の武将たちは、白々しいと思うのですが、孔明が涙を流して死を悼む姿に敵愾心を失っていくのです。
正史「三国志」にも、孔明が周瑜の弔問に訪れたことが書かれているので、このエピソードは事実に近いと思われます。
このとき、孫家と劉家は縁戚となっていますから、弔問にくるのも当然です。
孔明とすれば、宿敵ともいえる周瑜でしたが、周瑜が孔明の実力を認めていたように、孔明も周瑜の才能を認めていたのです。
つまり、お互い良きライバルという認識があったのです。
もちろん生前は憎しみなどの負の感情が大なり小なりあったでしょうが、相手がこの世を去るとなれば話は別です。
よく、格闘技などの試合などで見られる光景ですが、試合前はお互いに「ぶっ倒してやる」などと相手を平気で罵りますが、いざ死力を尽くして戦ったあとは握手をし、お互いの健闘を称えあったりします。
このときの孔明の心境も同じようなものだったのでしょう。
【謎多き人物、龐統士元】
ここからは三国志で謎の多い部分となります。
一般に知られている三国志のエピソードとは違う話となると思います。
おそらく弔問に訪れた孔明はこのとき龐統にあったはずです。
なぜなら、龐統は周瑜に仕えていたからです。
(この事実はほとんど三国志では語られない部分です)
龐統はもともと荊州に住んでいましたが、曹操が荊州を支配したため、江南に逃れていたのです。
そこで周瑜と巡り合い、意気投合し周瑜の元で働いていたのです。
ですから、赤壁の戦いで「連環の計」で曹操を騙す役割をかってでたのです。
記録には残っていませんが、周瑜の戦略、戦術(作戦)などに相当影響を与えていたはずです。
周瑜と龐統は仲が良く、周瑜の柩を呉の柴桑に運ぶ際に護送役を務めています。
それほど周瑜との繋がりは深かったのです。
209年に孫権が南群に侵攻して制圧した際に、龐統が南群の功曹(人事の任免、賞罰を司る要職)に任じられていました。
その後南群は劉備が占領することになりましたので、自然と劉備の支配下に入る形となりました。
その後、龐統は桂陽郡のライ陽の県令という役職につきます。
ですが龐統は毎日酒ばかり飲んで職務を果たしません。
ですから、民が訴える訴状が山のように積み重なってしまったといいます。
それことが原因で龐統は役職を任免されてしまったのです。
ところが龐統の処遇を知ったある人物が劉備に忠告をします。
その人物は魯粛です。
「龐士元は百里の才(県令程度の役職)ではありません。治中や別駕(州郡の長官)に任じて初めて駿足を伸ばすことができるのです」
と、龐統を高く評価する書状をだして劉備を諫めたのです。
さらに孔明の取り成しも加わって劉備は龐統を引見してその才覚を認識し、治中従事、さらに軍師中郎将という高いポジションを与えたのです。
これは孔明と同等クラスに扱ったということになります。
もちろん龐統が劉備に仕えるように、龐統がその実力が正当に認められるように裏で働いていたのは孔明でしょう。
孔明と士元(龐統)はかつて同じ司馬徽門下の同門であり友人だったのですから。
こうして龐統は劉備という主を得て天下にその大きな翼を広げたのです。

しかし、世間で広く知られている龐統のエピソードは以下のようなものです。
レイ陽の県令になった龐統は毎日酒ばかり飲んで政務を怠ります。
そのことを耳にした劉備は、田舎の町の治世だからと野放しにすることが出来ず張飛を派遣して調べさせます。
張飛がライ陽の役所に着くと役人たちが政務を怠る県令を非難します。
そこで県令(龐統)を呼び出して叱責します。
すると、龐統は「四方が百里ばかりの小県の政務など手間暇かけて裁くまでもない」と言って、溜まっていた訴状を持ってこさせると、わずか半日ですべて決済してしまいます。
その才能を見て驚いた張飛が劉備のもとへ龐統を連れていく。
こうした話で知られていると思います。
他にも劉備が龐統を接見したときに、その風貌が醜いので龐統を軽く扱った(それで県令の職を与えた)というエピソードになっていると思います。
ですが、風貌が醜いから龐統の実力を軽く見たというエピソードには疑問を持ちます。
この乱世の時代に、人材が欲しくて仕方がない劉備が見た目で人物を判断したとは思えません。
しかも、初めから龐統は自分の名を名乗ったという説もあります。
劉備が「龐統」という名を聞いて、見た目が醜いからと言って処遇を軽く扱うとはとても思えません。
これは孔明を人一倍輝く存在とするための物語の演出です。
劉備は司馬徽から「臥龍か鳳雛のいずれかを得れば天下を取れる」と言われていたのですから、見た目が醜いからと言って鳳雛(龐統)を手元から放すわけがありません。
あるとすれば、龐統が周瑜に仕えていたことで呉のスパイではないかと疑ったとすれば辻褄は合います。
周瑜との仲を考えて初めは距離を取っていたとするなら、十分あり得ます。
劉備は見た目だけで人物を鑑定しません。
たしかに龐統という人物は醜い身なり(特に顔つき)だったようです。
それに酒が好きで、変わり者で、言いたいことをズケズケ言う人物であったらしいので、初対面ですぐに好かれるような人物ではないことは間違いありません。
それに比べて孔明は、センスが良く美男子、礼儀正しいジェントルマンです。
才能、能力は同等と評価されても外見が対照的なのです。
ですが、魯粛が劉備に忠告したように、周瑜が自分のアドバイザーとしたように三国志の英雄たちがきちんと龐統の才能を認めているのです。
龐統は表舞台に出てくるのが遅く、また表舞台から退場するのが早いので、孔明と並び称されたわりには活躍した実績を残していません。
それが原因で歴史の記録と人の記憶にあまり残っていないのでしょう。
【人は自分に合わせて他人を判断する】
「人は見た目が9割」という説もあります。
それを否定はしません。
人の見た目にはその人の心理や性格が反映されてきます。
仏教の教えにあるように「色心不二」、つまり肉体と心は別ではなくひとつだ、ということです。
ですが、ときに見た目では計れない人物が世の中にはいるのです。
そのときにその人物を見た目だけで判断すると、大きな魚を取り逃がすことになります。
現代のビジネスにおいても同じことがいえます。
事実、龐統が劉備陣営に加わったことを知った曹操は怒りとともに悔しがったと言われています。
龐統、諸葛亮、司馬懿(仲達)の三人に共通することがあります。
それは三人とも自分の実力が人の何倍もあることを知っていて、また周囲もそのことを認めている。
そうした人物は、自分の才能を発揮する場所、あるいは上司(主君)を見極めようとする傾向がとても強いのです。
逆にいうと、持っている才能を十分発揮できずに終わってしまうことをなにより恐れているのです。
天才と呼ばれる人に多い傾向です。
ですから、見た目だけで人物を判断してばかりいると、はみ出すほどの才能を持っている大才の持ち主を逃がしてしまうことになります。
難しいことですが、企業も乱世の軍も人材が要であることは変わりありません。
見た目だけに騙されずに、真の実力と人間性と見抜くことが大切です。
人は自分に合わせて他人を見ている(判断する)ものです。
しかし、自分を超える才能や器の持ち主のことを見抜くことは至難の業なのです。
自分を基準にして他人を判断する、それこそ人材評価の落し穴です。
歴史とは、人間学でもあり、統治学でもあるのです。
【今回の教訓】
「偉才の持ち主は、主を選ぶ」
「見た目では計れない人物が世の中にはいる」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。