
『曹操の死』
前回は、義の英雄関羽の死の話をしました。
今回は、乱世の奸雄曹操の死の話をしてみたいと思います。
【関羽の死に対する曹操と孫権の違いとは?】
関羽を打ち取った孫権は、関羽の首を魏の曹操に献じました。
それは劉備(蜀)の恨みを恐れて、禍を魏に転じようとしたからです。
劉備と関羽は桃園において「生まれたときは違えども、死すべき時は共に」と誓った義兄弟(と言われている)です。
関羽を殺された劉備の落胆と怒りは想像を絶するものがあります。
孫権は、劉備が関羽の恨みを呉に向け、蜀の軍勢を差し向けてくることを避けようとして、曹操に関羽の首を献じたのです。
つまり、罪を曹操になすりつけようとしたのです。
(孫権、ズルい)
一方、曹操はそんな孫権の企みを見抜いて、関羽の亡骸を王侯の礼をもって国葬にしました。
怒りが収まらないのは劉備です。
関羽の命を奪っただけでなく、その死までもてあそぶようなやり方に怒り心頭に達します。
張飛は、孫権の首を取って関羽の仇を討ってやると息巻きます。
それに孔明がストップをかけます。
うかつに動けば魏と呉の両国から攻撃を受けてしまうので、ひとまず関羽の葬儀を営み、呉と魏が不仲になる時期を待つことだと進言します。
【乱世の奸雄、散る】
これはあくまでも『三国志演義』にある記述です。
孫権から送られてきた関羽の首と対面した曹操が「雲長殿、一別以来お変わりないか」と声をかけたところ、関羽の目と口が開き髪や髭がすべて逆立ったため、曹操はとても驚いて昏倒してしまったといいます。
(マジか~? 本当だったら怖い!)
まるでフィクション映画のようです。
ですが、関羽は、劉備から任された荊州を奪われて、劉備の天下取りの足を引っ張ってしまったことを死んでも死にきれないほど悔やんでいたことは想像できます。
もしかしたら、関羽のそうした無念の気持ちが曹操に伝わったのかもしれません。
曹操は、それ以降目を閉じると関羽の姿に悩まされて凶事が続いたといいます。
そこで司馬仲達が、新たな宮殿を立てて気分を変えることを進めます。
そして、国力を蓄えて蜀と呉を滅ぼして天下統一を目指すことを進めたのです。
曹操は司馬懿(仲達)の言葉に従って、神殿の建設に取り掛かりますが、大黒柱にするために御神木を伐り倒させたところ、その木が血を流したという説があります。
その他にも、かつて曹操が殺害した伏皇后や董貴人、董承ら漢の朝廷に連なる者たちが亡霊となって曹操を襲ってきたといいます。
それから曹操は寝込むようになり、容体が悪化していきます。
困った家臣が天下の名医華佗(かだ)を呼び寄せます。
華佗は当時天下にその名を知られる名医でした。
関羽が荊州を巡って龐徳の毒矢に腕を射られたときも、華佗が治療をしています。
華佗は、曹操の病状を見て曹操の病の原因が脳にあることを見抜きます。
そこで麻酔薬を飲ませて脳を切開して病根を取り除く処置をするといいます。
(いまでは外科手術は当たり前ですが、当時はそんなことを聞かされたら、びっくりしますよね)
それを聞いた曹操は、「このわたしを殺そうというのか」と言って華佗を疑い、投獄して百叩きの刑を与えます。
歴史に残る名医華佗はこのときの仕打ちが原因で命を落としました。
命運が尽きたことを悟った曹操は、重臣たちを枕元に呼んで魏国の後事を託します。
跡継ぎに曹丕を指名しました。
「劉備の蜀を打ち破り、孫権の呉を倒して、魏が天下を統一するのだ」
そう重臣たちに言い残します。
このときこっそり曹丕に遺言を残しました。
それは「司馬懿仲達を軍師として重く用いること。しかし、信用し過ぎないこと」です。
建安25年(220年)
乱世の奸雄と謳われた稀代の英傑曹操は66年の波乱の生涯を閉じました。

【天下統一のビジョン】
曹操は結局、漢を滅ぼして自ら皇帝になることなく生涯を終えました。
213年に魏公、216年には魏王となり、皇帝の座も目の前にありました。
その曹操がどうして皇帝にならなかったのか。
不思議と言えば不思議です。
その答えは曹操自身の言葉の中にあります。
夏侯惇が「なぜ皇帝となることをためらうのか」と問うと曹操はこう答えました。
「もし天命がわしにあるとしても、わしは周の文王となろう」
周とは秦(始皇帝が立てた王朝)の直前の王朝であり、文王はその周の礎を築いた人物です。
その周の文王は、天下の3分の2を有しながら、なお殷王朝の臣下として生涯を終えた人物なのです。そして文王の息子武王が殷を滅ぼして周王朝を開いたのです。
つまり、親子二代で天下を統一するというビジョンを息子(曹丕)に託したということです。
このメリットは、初代(実質的な)は汚名をかぶる(名誉を汚す)ことなく、二代目(名目上は初代)は実益を取れるということです。
結局、大望を抱きながらも、漢より以前の古代の英雄、聖人にみずからをなぞらえ、自身は皇帝としての実質的な権勢を掌握しながら、あくまでも漢の臣下として生涯を終えたのです。
【曹操にとっての不運とは?】
おそらく曹操は、宿敵の劉備と孫権を倒したのちに、つまり天下を統一した後に皇帝を名乗りたかったのではないかと考えます。
広い中国大陸を三分している現状では、天下を統一したとはいえず、天下統一してこそ新たな王朝を開き、皇帝を名乗るべきだと密かに考えていたのではないでしょうか。
漢王朝の直前の王朝である、秦のように統一王朝を打ち立てたかったのだと思います。
世界史を紐解いてみても、曹操ほどの才能と実力を兼ね備えた英雄は珍しいです。
人材にも恵まれています。
なにより、中国大陸の中心地(中原)を抑えています。
天下統一に一番近い人物であったことは間違いありません。
しかし、曹操にとってターニングポイントとなったのは、やはり「赤壁の戦い」です。
赤壁の戦いで大敗し、その後荊州を巡って孫権と幾度となく争うが荊州を攻略することができず、孫権を倒すことも出来なかった。
さらに蜀を得た劉備と漢中を巡って戦い、これもまた大敗した。
こうした大敗続きの中で心身ともに疲れ果てていたことは間違いないでしょう。
それを考えると曹操の死は寿命だったのかもしれません。
曹操にとって不運だったのは、劉備と孫権という実力のあるライバルがいたことです。
つまり、曹操に天下を取る実力がなかったのではなく、ライバルの力が強過ぎたのです。
ただし、それは劉備にとっても、孫権にとっても同じことが言えます。
他の時代であれば曹操は天下を統一していたことは間違いないでしょう。
三国志という英雄が大量に出現した時代だからこそ、曹操は天下統一を逃した、という見方もできると思います。
【今回の教訓】
三国志の英雄たちの中で実力ナンバーワンは、やはり曹操だと思います。
曹操が残した偉業は劉備、孫権の比ではありません。
曹操がもし存在していなかったら、その後の中国の歴史は変わってしまうと言われています。
ですが、曹操はあまりにも無実の人を含めて非道な仕打ち(殺す)をやり過ぎました。
後世への功績は大きいものの、悪行が多すぎました。
無実の罪で殺された人から恨みを買っても仕方がありません。
やはり、悪行をすれば悪果(悪い結果)が返ってくるということが、普遍的な真実であるように思えます。
曹操に、もう少し慈悲心があれば天下統一を成し遂げることが出来たかもしれません。
「悪行は必ず、悪果として自らの身に降りかかる」
「才能や実力だけでは天の道は拓けない。慈悲心が必要である」

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
【お知らせ】
次回からは本編をお休みして『曹操伝(人物伝)』をお送りします。
また、記事のアップがままならないことを、お詫び申し上げます。