まずは【孫策伝1~小覇王、孫策とは?~】をお読みください。
【孫策の大親友は軍事の天才周瑜】
江東へ向かった孫策のもとに馳せ参じたのが後に軍事の天才と称される周瑜だった。
孫策と周瑜は、舒(じょ)という場所に住んでいたころの幼馴染でした。
(二人は同い年)
名家出身の周瑜は孫策によって対外的な面でも頼もしい存在だった。
孫策が袁術のもとを去った旗揚げ当初、孫策には世間に認知されるほどの名声はなく、あるのは父孫堅の武名と遺臣たちだけだった。
そんな孫策の勢力が膨れ上がったのは、周瑜が孫策軍に合流したことが理由である。
周瑜のおかげで孫策軍は数千人規模の軍勢となった。
二人の関係は「断金の交わり」と評されるほど固い友情で結ばれていた。
(「断金の交わり」は、『三国志のことわざ』をご覧ください)
【孫策という武将の分析】
《抜群の戦闘力を持っていた武術者》
孫策は父孫堅譲りの武勇の持ち主です。
兵家の跡取りということで、幼少時から武芸十八般を叩きこまれています。
江南の土地では珍しく七尺を超す大男で、剣術と腕力は父親の孫堅以上に強かったといわれています。
〈豪傑太史慈との対決〉
正史『孫策伝』では、劉繇(りゅうよう)の配下にいた太史慈(たいしじ)と一騎打ちをした。
太守劉繇(りゅうよう)を牛渚城(ぎゅうしょじょう)に攻めたとき、孫策は城門の下まで馬を進め、大きな声で挑発した。
「江東の孫策ここにあり。われと思わん者はでてまいれ!」と。
すると城門から騎馬隊が飛び出てきた。
無名の若武者の挑発に応じたのは干麋(うび)という蛮族出身の武芸者。
孫策は、真っ黒な体をした干麋にぶつかるほど近づくと、干麋の繰り出す槍を手繰り寄せ、馬ごと引っ張る。
孫策は、あぶみの上に立ちはだかり、干麋を抱え上げながら馬を疾駆させた。
それを見た干麋の仲間が孫策の背後にまわり、大きな戈(ほこ)を叩きつける。
あわや即死かと思われたが、孫策は戈をかわし、左手で持っていた槍で後方の敵を一突きした。
抱えられていた干麋は息絶えていた。
その勢いのまま孫策は城内になだれ込む。
そこには江南では剛勇無双とうたわれた敵将太史慈が待っていた。
孫策と太史慈は馬上でぶつかり合い、地上で取っ組み合いにおよび、最終的に太史慈を降参させて配下に従えた。
孫策には、太史慈ほどの豪傑と直接戦闘し、倒して(負して)しまうほどの武術の腕があった、ということだ。
これは弁慶を打ち負かした牛若丸(義経)のような状況だと言えばわかりやすいかもしれない。
つまり、孫策は個人的な戦闘術において当時の一流と評されるほどの武術者であったということだ。
《急ぎすぎた武将》
個人的にも相当な武勇を誇っていたからこそ、孫策は勢力拡大を急ぎ過ぎたと思う。
それは孫策自身の性格が相当影響している。
なにごとも急伸すると反作用も生まれることが多いもの。
孫策の特徴は父孫堅にそっくりである。
孫策のことを分析すると、「真っ直ぐ前だけ見て突き進む猛獣」と言える。
脇や後方のことを考えているようには見えない。
また、順々にものごとを推し進めるというのではなく、何事も一気果敢にことを進める、という性格をしている。
こういうタイプは、あるとき一気に世に出て天下に名を轟かせるが、終わりが来るのも“あっという間”ということが多い。
一気に登って、一気に落ちていく、というタイプである。
孫策の強気な勢力拡大戦略は、急ぎ過ぎたため、攻め取った領土の統治に目がいかなかった。
そのため、孫堅に不満や恨みを持つ者が多かった。
そうしたことは必ず反作用として返ってくるものなのだ。
勝ち取った領土に時間をかけて統治をおこなったならば、曹操に対抗しうる勢力になったかもしれない。
だが、孫策の性格からすると、武勇に傾きすぎて政略や外交力、韜晦術のない呂布に似たタイプであると言える。
《孫策を称する言葉とは?》
「猛鋭、世に冠たり」
孫策を表するにぴったりの言葉である。
「猛鋭(もうえい)」と評されるように、孫策は積極果敢な行動を得意とした。
また、「軽佻果躁(けいちょうかそう)にして、身を損じ敗を致す」とも評されている。
意味は、「軽々しく動き、身を損ない自滅(失敗)する」ということ。
だが、一方では以下のような評価もある。
「好く笑語し、性、闊達聴受(かったつちょうじゅ)、人を用うるに善し」
「闊達」とは、「心が広くて小事にこだわらない」こと。
「聴受」とは、「人の意見によく耳を傾ける」こと。
笑顔を絶やさず胸襟を開いて語り合い、小事にこだわらず人の意見に耳を傾けるということは、人を用いる組織のリーダーにとって必要でなおかつ望ましい資質である。
このような性格とカリスマ的な武勇を誇る孫策のまわりにはよく人が集まってきた。
さらに集まってきた人たちが、「孫策のためならば・・・」と命を投げ出して戦ってくれる。
孫策が急速に勢力を拡大できた理由がここにある。
つまり、孫策という強力な磁力を帯びた磁石があったればこそ、ということだ。
こうしたことを考えると、孫策が長生きしていれば、三国志の主役は、曹操、劉備、そして孫策であっただろう。
だが、“軽はずみ”の行動が多いということは、“慎重さ”を欠くということを意味しているので、思わぬところで足をすくわれてしまうことになる。
孫策と同じような性格の人はお気をつけなされよ。
【孫策の功績とは?】
孫策の功績とは、なんだったのか?
第一に挙げるべきは、「孫家の再興」であり、それは同時に「江東の地に確固とした地盤を築いた」ことだろう。
父孫堅からバトンタッチされたとはいえ、残されたのは忠臣だけだったからだ。
孫策、孫権の江東の勢力(後の呉)の恵まれた点は「人材」にあると思える。
日本で例えるならば、三河の徳川家康の環境と似ていると言えるかもしれない。
代々孫家に仕える忠臣が存在し、天才軍師という親友がいる。
さらに言うと、守成の名君となる弟(孫権)がいた。
歴史の観点から観れば、孫策の最大の功績とは、後継者に弟の孫権(次男)を指名したことであろう。
孫策は、自らの死期を悟ると、孫権を枕元に呼んだ。
「江東の衆を挙げ、機を両陣の間に決し、天下と争衡(そうこう)するは、卿(けい)、我に如かず。賢を挙げ能を任じ、各々その心を尽くさしめ、以って江東を保つは、我、卿に如かず」
つまり、わたし(孫策)の性格は積極的経営に向いているが、お前の方は守りを得意とするタイプだ、という意味である。
自らが築いた江東の勢力を維持するためには、弟の孫権が最適だと判断し、なおかつ重臣の前で後継者を指名したことである。
これによって跡目争いが起きることもなく、江東の孫家は、三国時代の一国「呉」を成していくことになる。
【個人的感想】
「気概と実行力を備え、勇猛、鋭敏さは世に並びない」と称された小覇王、孫策。
気概があり、実行力があり、勇猛とくれば、革命家に必要な性質をふんだんに備えていた、といえるだろう。
もし、孫策が違った時代に生れていたならば、革命家となり時代を大きく変える志士となったことだろう。
もし、孫策が日本の幕末期に生まれていれば、歴史に名を残す攘夷の志士となったと思われる。
孫策に無かったのは「運」だったのかもしれない。
事実、歴史上は「運のない男」と評価されている。
だが、孫策の人生は「運がない」のではなく、別のものが欠落していることが原因だと私は見ている。
それは、「慎重さ」であり、「思慮分別」である。
走りながら(行動しながら)考えるのは創業するタイプ。
熟考の末に行動を起こすのは、守成のタイプ。
孫策は、明らかに前者であり、後を継いだ孫権は後者のタイプ。
孫策の成功は、孫策という人間の性格と能力からくるもの。
しかし、孫策の悲劇も、孫策の持つ性格と能力からくるもの。
大きな成功をおさめるタイプのリーダー、最終的に天下を治めるタイプのリーダーには、「積極果敢な行動力」と「慎重に思慮分別をする」という相反する能力が必要なのだ。
もし、一人の人間にそれがないならば、部下や側近の力を借りて補完しなければならない。
性格にしても、能力にしても、突出したものがあるということは、そこに必ず凹みもあるということを意味している。
乱世に登場する英雄には、孫堅、孫策のように武勇を誇る英雄が現れるが、天を目指して空を駆け上ることはできても、天を掌握することができないタイプがいる。
孫策とその父孫堅がそのタイプに近い。
要するに、孫策のようなタイプは「脇が甘くなる」のである。
万が一、孫策が長生きし、魏の曹操、蜀の劉備と並んで天下を分断したとしても、どこかで亀裂が入っただろう。
その場合の成功要因は、守成型の弟孫権を臣下として最大限に信用し、また起用することだろう。
万が一、主の地位を巡って弟孫権を源頼朝のように亡き者にした場合は、魏の曹操か蜀の劉備に飲み込まれて、呉が最も早く消滅した可能性が強いと予想する。
しかし、天は孫策に守成型の弟を与え、創業型の孫策を短命に終わらせた。
それが、呉が三国の中で最後まで生き残った理由のように思える。
孫策は間違いなく英雄と呼ぶにふさわしい。
孫策が長生きした歴史を観たかった。
【孫策に学ぶ教訓】
『勇猛果敢は創業の精神。思慮分別、慎重さは守成の精神』
『自らの欠点を埋め合わせる人材を登用せよ!』
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。