
【孫策の個人データ】
生没年・・・175年~200年
出身地・・・呉郡富春県
字(あざな)・・・「伯符(はくふ)」
家系・・・春秋時代の兵法家孫武の子孫
父親・・・孫堅
兄弟・・・孫権(次男)
妻・・・・大喬
肩書・・・懐義校尉、折衝校尉、会稽太守、討逆将軍など
【孫策の人物評】
《正史『三国志』の評価》
「英気傑済(えいきけっさい)、猛鋭世(もうえいよ)に冠する」
正史『呉書』(孫策伝)の記述である。
訳は、「気概と実行力を備え、勇猛、鋭敏さは世に並びない」
気概があり、実行力があり、勇猛である、ということは、現代で言えば一代で大企業を作り上げる起業家の精神を備えていた人物だったということであろう。
政治家あれば変革を断行する実力を備えた人物と言えよう。

《袁術の評価》
袁術は、若き武将孫策を高く評価していた。
「もし私に孫朗(孫策)ほどの息子がいれば、思い残すことなく死ねるのだが」と、ため息まじりに言うほど袁術は孫策の才能を高く評価していた。
しかし、袁術は孫策の才能を高く評価しつつも、それがゆえに警戒して自軍において重要なポジションを与えなかった。
《世間の評判》
卓越した武略を発揮した孫堅は、短期間で江東の地に勢力を拡大していった。
それを称して「孫策は項羽のようだ」と言われるようになる。
項羽のように自ら強さを持ち合わせながら軍を強力に推し進める武将と称えられた。
そこにはある種の「恐れ」も含んでいただろう。
孫策は、項羽のような天下を平らげてしまう豪傑だと思われ始めていた、ということだ。
(項羽は漢の劉邦と戦ったライバルで「覇王」と称された人物)
しかし、「項羽のようだ」という評判は、以外に大当たりだったのだと思う。
項羽は無類の強さを誇り、一時期は天下統一に大手を掛けたが、政略や人心掌握に欠けていたため、天下統一の目前で非業の死を遂げた。
「小覇王」と呼ばれた孫策も、項羽のように志を成し遂げずに非業の死を遂げる。
孫策の生き様は、まさに覇王項羽と重なる。
《郭嘉(かくか)の予見》
曹操の軍師の郭嘉(かくか)は、孫策の急伸ぶりに危険性を感じ取っていた。
郭嘉は孫策に関するこんな言葉を残している。
「孫策が殺害したのは部下に死力を尽くさせる英雄豪傑ばかり。それなのに孫策は軽く考え警戒していない」(補足:殺害したとは敵の武将のこと)
(正史『郭嘉伝』)
つまり、部下に慕われ、なくてはならない人物たちを亡き者にしている孫策は、恨まれている相手から、いつ刺客に命を狙われてもおかしくない、ということ。
孫策の最後は、郭嘉が予見した通りの結末となっている。
【孫策のおおまかな人生】
孫策は、18歳のころ、母親と揚州に住んでいたが、父孫堅が劉表との戦いで戦死したと知らされ、袁術のもとへ身を寄せる。
その後、3年間ほど袁術軍の将として過ごす。
しかし、思うところあって劉繇(りゅうよう)討伐を口実に袁術から兵を借り受けて、そのまま独立してしまう。
197年、袁術が本拠の寿春で勝手に帝号を称して皇帝の座に就くと、孫策はこれに見切りをつけた。
それは群雄の一人としての独立を意味していた。
当時、北方では曹操が台頭していたが、その前に大きく立ち塞がっていたのが袁紹である。
袁術は袁紹の同族。
曹操にとっては袁紹、袁術は目の上のたん瘤だった。
そこで江東に勢力を伸ばし始めた孫策と婚姻関係を結んで、遠交近攻の戦略を展開する。
孫策は、曹操の期待通り、揚州一帯をわずか数年で制覇し、一大勢力を築き上げる。
それが後の「呉」の基礎となる。
200年、中国の覇権を掛けた「官渡の戦い」が起きた。
実は、このときも曹操と孫策の間で共同作戦が密かに取り決められていた。
曹操が袁紹と対峙している間に、袁紹の本拠地である許(きょ)に隙をついて攻め込む作戦となっていた。
だが、歴史にはそんな事実は記されていない。
それは、その作戦を実行する直前となって不測の事態がおきたからだ。
孫策は、彼に恨みをもっていた許貢(きょこう)の残党に襲われて致命傷を受けてしまう。
死期を覚った孫策は、弟の孫権に後事を託し、26歳の若さで逝去する。
小覇王のあっけない最期だった。
【孫策、独立への道】
孫策の登場は、父孫堅が荊州の劉表との戦いで戦死したことに起因する。
192年、劉表軍との戦いで敗れた孫堅の将兵は袁術の軍に吸収合併されてしまった。
主君を失った孫堅の将校たちは、長男である孫策を当主に担ぎ上げることにする。
孫堅に固い忠誠を誓った歴戦の武将たちが若きリーダー孫策を支えることなった。
その武将たちとは、黄蓋、程普、韓当など。
孫策は、父孫堅の忠臣たちと密かに「孫軍再興」を誓ったのだ。
チャンスはやってきた。
195年、孫策は袁術に願い出て揚州平定を口実にして兵を借り、そのまま袁術のもとへもどることなく独立のために行動する。
『三国志演義』では、孫策は父の遺品である『伝国璽』を所持しており、それを袁術に差し出して、その見返りに将兵を借り受ける交渉をしている。
『山陽公載記』には、「袁術は孫堅の妻を人質に取り、孫堅から伝国璽を奪った」という記述がある。
これが本当だとすれば、袁術は孫策から伝国璽を譲り受けただけではなく、孫策の母親を人質として弱みを握っていたことになる。
(卑怯ですね)
いずれにしても孫策は、袁術を出し抜き、子飼いの忠臣を引き連れて孫家ゆかりの地である江東へ向かったのだ。
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