『周瑜死す』
今回は、負けを認める者が最終的に勝利を掴むという話をしたいと思います。
今回が「荊州争奪編」の最終回です。
【曹操の謀略の糸】
劉備を取り逃がした周瑜は怒りを強くします。
呂蒙が荊州を攻めようと主張しますが、周瑜は止めます。
それは、劉備が荊州を留守にして結束が弱まったときに戦を仕掛けなかったのに、劉備が荊州に戻って結束が固まったいま戦を仕掛けることはあきらかに不利だからです。
戦のきっかけを逃した周瑜は荊州を奪還するために策を孫権に進言します。
その策とは、
- 劉備を荊州牧に任じるように朝廷に上奏することで、自分たちの度量の大きさを示す。
- そのことで呉と劉備との結束が強まったと曹操に思わせて荊州に手を出させないようにする。
- さらに呉が劉備との関係を修復したいと思わせて、劉備の油断を誘い、隙をついて荊州を奪還する。
そうしたこともあって、ある日劉備の元へ朝廷から書状が届きます。
もちろんそれは周瑜の考えたとおり劉備を荊州牧に任じるという内容です。
しかし、そこには周瑜の思惑を越えたものが含まれていました。
孫権の上奏を受けとった曹操(漢の丞相)は、孫権の上奏に同意したうえで、さらに別の上奏をつけ加えたのです。
それは周瑜を南群太守に程普を江夏太守に任じるという内容です。
つまり、曹操が孫権と劉備の関係を疑い、孫劉同盟が本当に強い結びつきを持っているのか、それともひび割れを起こしかけているのかを探ろうとしたのです。
謀略には謀略を持ってする。
周瑜と曹操の謀略戦ですね。
周瑜とすれば、なんとしても荊州を取りたいのです。
荊州をとってこそ曹操と対等に戦えるからです。
【周瑜、荊州奪還作戦を画策する】
周瑜はさらなる手を打ちます。
以前劉備と孫権との間で交わされた約束がありました。
それは蜀を取ったときは荊州を呉に返すというものです。
周瑜はその約束を持ち出してきたのです。
そこで劉備がもし、蜀の攻略をためらったら同盟している呉が代わりに蜀を取ってやる。
だから蜀と交換に荊州を呉に返せというものです。
しかし、本当の策は、荊州に軍を進めた際に劉備に襲い掛かり荊州を奪うことであったのです。
そのための交渉役として魯粛を劉備のもとへ行かせるのです。
周瑜の分身と化した魯粛はまず南群を周瑜が、江夏を程普が治めることに承知しろと迫ります。
すると孔明は目の前にある箸を持ち出して、「箸を一本取り上げられたらわれらはどうやって食事を取るのですか」と言います。
つまり、荊州の要の地である南群と江夏を取られては荊州を治めることが出来ないから渡すことは出来ないときっぱりと断るのです。
魯粛もそこは予想通りなので、いよいよ本題に入ります。
魯粛は劉備に蜀計略の進軍を迫ります。
その話を聞いた劉備は涙を流して憂いを見せます。
わけがわからないで困惑している魯粛に孔明が説明します。
それは蜀の主は劉章で、劉備と同じ漢王室の末裔。
劉備に取っては縁戚に当たる人物。
かといって荊州を返さないのは兄弟である孫権に申し訳ない。
縁戚と兄弟の間で苦しんでいるのだということです。
それに蜀を攻めるには兵糧などの準備が出来ていない。
最低でも準備に3年は必要であると主張します。
それを聞いて困ったようなそぶりで魯粛は交渉の肝の話をします。
それは呉が劉備の代わりに蜀を取るから、そのときに荊州を通過させてくれということを訴えるのです。
仕方なしに劉備と孔明は魯粛の提案を受け入れるしかなかったのです。
蜀を得るは大歓迎だが、荊州を失えば「天下三分の計」が成り立ちません。
劉備は焦ります。
しかし、孔明は周瑜の腹の内を読んでいました。
蜀を攻めると見せかけて、荊州に入り、そこで軍を反転して劉備に襲い掛かろうという作戦だと見て取ったのです。
孔明の読み通り、周瑜は呉の精鋭5万を率いて荊州城に迫りました。
しかし、呉軍の進軍を予想していた荊州城では準備万端、櫓から矢を射かけます。
それに対して怯むことなく城を落そうと呉軍は果敢に戦います。
そのとき、後方から趙雲、関羽、張飛率いる部隊が襲い掛かります。
呉軍は前面に城内からの攻撃を受け、後方と側面から別働部隊の奇襲を受け混乱に陥ります。
戦において、挟み撃ちまたは包囲されるということは圧倒的に不利な状況なのです。
このときの呉軍は混乱の末、敗走するしかなかったのです。
こうして周瑜率いる呉軍は柴桑に引き上げました。
【名将周瑜逝く】
扶桑に引き上げた周瑜のもとに孔明から書状が届きます。
それを読んだ周瑜の手はぶるぶると怒りで震えました。
周瑜は荊州攻略を諦めざるを得なかったのです。
それは自分の命が尽きようとするのを感じていたからです。
そして天を仰いで恨めしそうに言葉を吐きだします。
「天はこの周瑜をこの世に生まれさせながら、なぜ諸葛亮まで生まれさせたのだ…」
周瑜、最後の言葉でした。
名将周瑜逝く!
享年36歳でした。
周瑜が亡くなったことを知った孫権は柩を長江の都市蕪湖という土地までわざわざ出迎えにいったといいます。
さらに孫権は周瑜の葬儀にかかった費用を全額給付したといいます。
周瑜を失くした孫権は慟哭し周囲の者が心を痛めるほどだったと言われています。
う~ん!
実に惜しいですね。
結局、周瑜は君主の立場ではありませんでしたが、曹操や劉備と同じように天下統一の野望を抱いていたのです。
だから曹操と劉備が不俱戴天の仇に思えたのです。
周瑜とすれば、荊州を取り、それを足掛かりとして曹操と勝負して破り天下を治めたかったのです。
そうした大きな野望を抱いていたのです。
そのために邪魔な存在が劉備であり孔明だったのです。
しかし、天才的な軍事的才能を持つ周瑜にしても孔明には敵わなかったのです。
それを周瑜は認められなかったのです。
このエピソードから学ぶポイントはここです。
人生において自分が自信を持っている能力、分野においてそれを凌駕するほどの才能、能力を持ったライバルなどに出会うことがあります。
そのときにそのことをどう受け取るのか?
ここです。
周瑜は、孔明よりも自分のほうが優れていることを証明したかったのです。
つまり、負けを認めることができなかったのです。
ライバルの実力が自分よりも上であることに気が付きつつもそれを受け入れるのではなく、否定して生きてしまったのです。
その精神的な苦しみが彼の身体を蝕んだのでしょう。
【もしもの話】
見てみたかった。
孔明と周瑜が本気で大戦を繰り広げたら、どんな大戦になったのか?
逆に、孔明と周瑜が手を結び、一致団結して曹操にぶつかっていったらどうなったのか?
また、周瑜が長生きしたら三国志のその後の展開はどうなったのか?
仮説の話ですが、見てみたかったです。
個人的には、孔明と周瑜がお互いに大軍を率いてぶつかったらどんな合戦になったのかを見てみたかったです。
如何に賢くても、どんなに実力があっても、上には上がいます。
そのときに自分のプライドにこだわるのではなく、負けを認め、ライバルの実力を認め、自分の劣るところを謙虚に見つめ、すべてを受け入れ実力相応の成功を求めることが大切なのです。
そのうえでさらなる向上を目指すべきなのです。
曹操は負けを認め再起していくことができましたが、周瑜は負けを認めることが出来なかった。
結局、そうした器量では天下は取れないのです。
悔しくても負けを認めることで新たなる扉が開きます。
負けを認めるからこそ次なる勝利を手にすることが出来るのです。
素直に負けを認めることも大切です。
【今回の教訓】
「悔しくてもライバルに負けたことを認めることで、自分が成長することが出来る」
「プライドにこだわらずに、素直にライバルの長所、実力を認める」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。