『周瑜伝1 ~周瑜という男~』
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【周瑜の個人データ】

生没年・・・175年~210年

出身地・・・揚州盧江郡じょ県

家系・・・「盧江の周氏」として知られた揚州の名家の出身

容貌・・・容姿端麗な美青年

字・・・・「公瑾(こうきん)」

父親・・・「周異」

妻・・・・「小喬」

子供・・・「周循」「周胤」

姻戚・・・娘を孫権の息子(孫登)に嫁がせている。
     義理の兄(孫策)

特技・・・武芸十八般に通じ、特に兵法に優れていた。

肩書・・・前部大督、偏将軍、南群太守、大都督など。

主な戦歴・・・「赤壁の戦い」で曹操軍を破る。

友人・・・孫策、魯粛

その他・・・高祖父の周栄は正史『後漢書』に列伝があるほどの人物です。
      一族からは大尉を多く輩出しています。

【周瑜の性格など】

人間としての器が大きく、包容力が豊かで、人の心を魅了するところがあった

周瑜の軍事作戦はいつも積極戦略を取っています。
このことから、自分の知力、武力に自信があり、かつ強気の性格であることがうかがえます。

曹操や諸葛亮とのやり取りを見る限り、相当な「負けず嫌い」だったことがうかがえます。

音楽の才能にも恵まれていて、「曲に間違いがあると周郎が振り返る」といわれるほどでした。
また、「美周郎」と呼ばれるほどの美青年でした。

【軍事の天才周瑜】

周瑜といえば「赤壁の戦い(208年)」
正史の「赤壁の戦い」では、諸葛亮が活躍する記述はほとんどありません。
一般的に知られている「赤壁の戦い」のイメージは「三国志演義」のエピソードを元にしています。
「赤壁の戦い」における諸葛亮の功績は、降伏か開戦かで揺れる孫権を舌先三寸で説得したことです。
このエピソードは正史「諸葛亮伝」に記述があります。
ですから、赤壁の大戦における「反間の計」「苦肉の計」「連環の計」そして火攻めに到るまで周瑜の実績(功績)といっていいでしょう。

赤壁の勝利の後、周瑜は大胆な戦略構想を描きます。
蜀(益州)を治めていた劉璋が暗愚なのに眼をつけ、益州、漢中を攻略した上で、そこを足掛かりとして曹操を攻めるという雄大な戦略構想を立てました。
それは諸葛亮の「天下三分の計」と部分的に同じ意味を持ちます。

違うところは、諸葛亮の構想は、「魏の曹操」「呉の孫権」に匹敵する勢力として「蜀の劉備」を並び立たせた上で、呉と同盟を結びつつ中原の魏を攻めて天下を掌握しようとしている点です。
それに対して周瑜の構想は、「魏の曹操」を打ち倒すために荊州を足掛かりとして、益州と漢中を取り、その上で魏の曹操を滅ぼす、というものです。
周瑜は主である孫権を天下人にしようと考えていたのです。
逆に劉備の勢力を眼中に入れていないのです。
劉備と諸葛亮の存在が邪魔なのです。
周瑜の構想は「魏の曹操」対「呉の孫権」という『天下二分の計』なのです。

あくまでも周瑜の目的は、漢の賊である曹操を倒して主君の孫権が天下を統一することです。
そのための周瑜というわけです。

しかし、210年益州及び漢中攻略に乗り出そうと遠征軍の準備を進めていた最中に病で亡くなります
このときは益州へ向かう途中で荊州を通り、劉備を倒すつもりでした。
ただ、これには無理があります。
このとき荊州にいた劉備陣営を倒すことは簡単には出来なかったはずです。
(詳しくは本編=荊州争奪編をご覧ください)

早すぎる死。
赤壁の戦いのわずか2年後でした。
享年36歳

【赤壁の地】

三国志の「赤壁の戦い」の舞台となった場所は、洞庭湖の北の長江沿いで、現在は候補地が数か所あります。
そのなかでも有力なのが、湖北省赤壁市湖北省黄岡市の二か所です。

赤壁市は「武の赤壁」と呼ばれ、周瑜の筆と伝わる崖に刻まれた巨大な「赤壁」の文字が知られています。
また、諸葛亮が東南の風を呼んだとされる「拝風台」や龐統が隠棲していたとされる「鳳雛庵」が復元されています。
黄岡市のほうは「文の赤壁」と呼ばれて、歴代の文人が数多く訪れたことから人気の観光地となっています。

【周瑜のエピソード】

〈孫策と〉

周瑜15歳のときに、孫堅が董卓討伐の挙兵にともない周瑜の住むじょ県に移住してきました。そのときに周家は南側の大きな屋敷を孫家に譲って住まわせ、必要なものはすべて与えたといいます。
同い年の孫策とはすぐに意気投合し、ふたりは親友となりました。
周瑜と孫策の仲の良さから「断金の交わり」という諺が生まれました。

その後、孫堅の後を継いだ孫策に従って江東平定に惜しみない援助をしていきます。
江東平定は周瑜の協力があってこそといえるでしょう。

さらにこの二人は義理の兄弟ともなります。
それは喬氏の姉妹をお互いの妻としたからです。
周瑜の妻は妹の小喬、孫策の妻は姉の大喬

孫策とはよほど相性が良かったのでしょう。
大親友と呼べる人と巡り合うことは人生で幸せの瞬間です。
孫策と周瑜は、能力、気質が似ていたのだと思います。

〈孫権と〉

孫策が早世してからは、あとを継いだ若き君主孫権に臣下の礼を取って仕えています
このとき孫権はまだ19歳の若造です。

しかも兄孫策の元配下の武将たちが孫権を軽んじる傾向を見せていました。
そんな中で周瑜は、率先して孫権に敬意を表しました。
周瑜は、孫家の中でも一目置かれる存在でしたから、その効き目は抜群でした。
このときの周瑜に恩を感じた孫権は以後、なにかと周瑜を頼りにします。
そして彼を大都督に任命し赤壁の戦いで勝利するのです。
周瑜が亡くなったときに、孫権は周瑜の柩を迎えにいき、葬儀費用を自費で出すなどして周瑜の死を悼みました。

〈魯粛と〉

魯粛との親交も深いものがあります。
周瑜と魯粛とはいつも意見が食い違い、仲たがいしているような印象がありますが、実は深い友情で結ばれていたのです。

それは周瑜が初陣で敗戦してしまったときに、魯粛にかくまってもらったのです。
魯粛の家はもともと裕福な家で蔵をいくつも所有していました。
戦に負けた周瑜を受け入れた魯粛は、このとき蔵のひとつを周瑜に提供しました。
その兵糧のおかげで周瑜は、軍を立て直すことが出来、勝利することになります。
周瑜は、このとき魯粛から受けた恩を生涯忘れなかったようです。
魯粛は周瑜亡き後、大都督を継いでいます。

〈程普と〉

そんな周瑜を毛嫌いする人物がいました。
孫堅に仕えていた古参の武将の程普(ていふ)です。
程普は戦場を駆け巡ってのしあがってきた叩き上げの武将だったため、名声と財力をバックに持つ周瑜を快く思っていませんでした。
程普は事あるごとに周瑜を侮辱するような行動を取ります。
けれど、周瑜は常に下手に出て決して程普に逆らいませんでした。
やがて周瑜の誠実な態度に程普は心を入れ替えて周瑜を敬服するようになります。
その程普はこんな言葉を残しています。

周公瑾と交わっていると、芳醇な美酒を飲んだように自分が酔ってしまったことに気がつかない」と。

人を酔わせる人間的魅力を備えていたのです。

〈龐統と〉

あまり知られていないのですが、周瑜と龐統は実は仲が良かったのです。
というよりも龐統が周瑜に仕えていたということが真実です。
曹操の支配から逃れて江東にやってきた龐統は周瑜に出会い、意気投合して周瑜のために働くことになります。
みなさんは、赤壁の戦いで龐統がなぜ曹操の陣営に行ったのか不思議ではありませんでしたか?
そうした部分がなぜか表に出てこないところなのです。
物語で突然龐統が出てきて重要な役割をするのですが、それは周瑜の依頼があったからなのです。
龐統と周瑜は曹操に恨みがあるという点で一致していたのです。
ですから、曹操の陣営に行って「連環の計」を仕掛けたのです。
後に龐統は劉備に仕えることになりますが、赤壁の戦いの頃までは、龐統は周瑜の配下だったのです。
事実、周瑜が巴丘で亡くなった時に扶桑へ運ぶ周瑜の柩に寄り添っています。
それほど龐統と周瑜は仲が良かったということです。

これは、おそらく『三国志演義』の著者羅貫中が蜀出身で、蜀漢を正当な王朝としていたため、後に劉備に仕えた龐統が、劉備と敵対していた周瑜と仲が良かったことを隠したかったのでしょう。
実は、周瑜の陰に龐統ありだったのです。

また、後世に作られた『三国志平話』では、周瑜と龐統は義兄弟という設定になっています。
その『三国志平話』では、周瑜が「遺骨を江南に届けてほしい」と言い残します。
それに龐統が応えるために、周瑜の死を諸葛亮に悟られないように呪法を用いて将星を空に留め置きます。
しかし、龐統の小細工が諸葛亮にお見通しとなっていて、龐統は仕方がなく、諸葛亮に正直に周瑜の死と呪法を用いたことを認めてしまいます。
その義心に感じ入った諸葛亮が呉に遺骸を運ぶことを許した、という話になっています。

『周瑜伝2』に続く

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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