『周瑜伝2 ~周瑜の実像に迫る!~』
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【周瑜の人物評】

《周瑜が劉備をどう見ていたのか》

赤壁の戦いの後に孫権へ宛てた手紙で「劉備は梟雄の相がある。蛟竜が雲雨を得たならば、おとなしく池にひそんではいませんよ」と警告しています。
決して良くは思っていません。
それどころか、周瑜にとって劉備は天下統一を阻む‟邪魔者”だったのです。
周瑜の構想する「天下二分の計」からすれば荊州が必要なのです。
その荊州を呉から借りながら、いつまでも返却しない劉備には憎しみしか持っていなかったようです。

《周瑜が曹操をどう見ていたのか》

赤壁大戦前の呉の大本営会議で周瑜が語った言葉があります。

「曹操は、漢の丞相の名をかりた逆賊です。」

周瑜という人物は、漢王朝というものを大事にする思考を持っていました。
その漢王室を蔑ろにしている曹操を逆賊と信じていました。
ですから、周瑜の最終的、最大の敵は曹操ということになります。
赤壁での曹操との戦いは、周瑜とすれば想定済みのことで、いつか訪れる宿敵との決戦といった感じだったのです。
しかし、荊州を巡って劉備、諸葛亮と争っているうちに曹操よりも目の前の劉備と諸葛亮のほうに気を取られてしまったようです。

《周瑜が諸葛亮をどう見ていたのか》

周瑜は赤壁の戦いから諸葛亮の智謀を警戒していました。
そして死ぬ間際にこんなセリフを吐きました。

「天はわたしをこの世に生れさせながら、どうしてまた諸葛亮を生れさせたのか」

このセリフは正史にはありませんから、「三国志演義」の影響です。
史実でないとしても周瑜の内心をよく表した台詞だと思います。
どんなに少なく見積もっても諸葛亮の智謀は周瑜に劣りません。
つまり、フィクションの部分を取り除いたとしても、周瑜が簡単に智謀戦で勝利出来る相手ではなかったことは明らかです。
ですから、周瑜としては自分と同等かそれ以上の智謀を持った諸葛亮の存在が疎ましかったのです。
赤壁の戦いで曹操に勝利したことで自信を得た周瑜は、中原に打って出て曹操と対決して勝利することを夢見ていたのに、それを邪魔したのが諸葛亮なので、周瑜とすれば憎むべき人物ということになるでしょう。

周瑜と諸葛亮との関係で重要な点を指摘します。
周瑜は一貫して諸葛亮と親交を結んでいない、ということです。
これは周瑜の人間関係を見る限り珍しいことです。
周瑜に取って諸葛亮とは、目の上のタンコブだったのです。

【周瑜の実像】

小説である「三国志演義」の普及により、周瑜は諸葛亮の引き立て役のようになってしまいました
現在知られている諸葛亮のイメージ像である羽扇(うせん)に帽子の姿は、かつて周瑜をイメージさせるアイテムだったのです。
それが、いつの間にか諸葛亮を表す必須アイテムのようになってしまったのです。

赤壁の戦いにおいても、諸葛亮が活躍したようになっていますが、実質的には曹操をいくつかの計略に掛け、水上戦で破ったのは周瑜の実績に間違いありません。

ここで注目すべきは、赤壁の戦いで曹操と周瑜の智謀戦において、周瑜が優っていたということです。
周瑜は「苦肉の計」「反間の計」「連環の計」と複数の計略を持って曹操軍の力を弱めた上で決戦に勝利しています。
ですが、小説である『三国志演義』は、そうした周瑜さえ諸葛亮の智謀には勝てないんだ、というイメージを作るように描かれてしまっているのです。

本当の周瑜の実像は、曹操や諸葛亮、司馬懿などに匹敵する智謀の持ち主であることは間違いありません。

さらに、程普の言葉にもあるように、決して気難しく、傲慢な人間でもありません。
年上の程普に礼儀を尽くしたり、大親友の弟(孫権)を盛り立てたり、魯粛から受けた恩を忘れなかったり、決して「頭は良いが嫌なやつ」ではありません。
プライドが高く負けず嫌いなことは確かですが、義や仁の心をちゃんと持ち合わせていた人物であるのです。
要するに、周瑜は「敵」とみた場合は憎悪する、という欠点があるということです。

諸葛亮を引き立てるためにダークなイメージがついてしまっていますが、そうした偏ったイメージを払拭するべきだと考えます。

【周瑜という男】

周瑜という男は、三国志の中で突出した英雄であることは間違いありません

もし、違った環境や立場で生まれれば曹操、劉備などと肩を並べて歴史に名が刻まれた可能性もあります。
軍事的才能を取ってみても、三国志の中に登場する数々の軍師や軍事的才能の持ち主と比べても遜色ありません。
ただ、惜しいのは周瑜がその持てる才能を最大限に発揮しようとしたときに、劉備、諸葛亮が目の前に現れたということです。

さらに残念なことは、36歳の若さで亡くなってしまったということです。
周瑜がもう少し長生きしたらまったく違った三国志が展開したかもしれません。

それと、個人的に非常に残念なことは、周瑜対諸葛亮の直接対決を見てみたかったということです。
結局、周瑜と諸葛亮はまともな戦をしていません。
(小さな戦いはありました)
お互いに数万の兵力での直接対決があったらどうなったのか、ということが無かったのが非常に残念です。

周瑜は軍事的才能には恵まれましたが、‟勇猛過ぎる”点があります。
武術にも兵法にも通じていた彼は持ち前の才能に自信があり過ぎています。

人は欠点によって滅びることよりも、その長所によって滅びることのほうが多いのです。

勇猛で強気な性格は、同盟を求める劉備と諸葛亮の存在を認めることが出来ませんでした。
さらに自分の頭の良さに自信を持っていた周瑜は、諸葛亮の智謀を内心では認めつつもそれを受け入れることが出来ませんでした。

負けず嫌いが強いがゆえに、諸葛亮を受け入れ尊敬し、友となることができませんでした。
それは周瑜の長所ゆえであり、また短所でもあります。
長所とは別な角度から見れば短所になりうるのです。
長所と短所はコインの裏表のような関係なのです。

もし、周瑜が劉備のカリスマ性を認め、諸葛亮の知恵に敬意を表することが出来たなら、きっと友となれたことでしょう。
そういった意味で、才能は抜群だが「謙虚さ」が足りなかった、と言えます。

周瑜と諸葛亮が本気でタッグを組んだら、曹操は勝てなかったでしょう
恐らくその場合、曹家は滅んだでしょう。
魏王朝は生まれなかった可能性が高いと思います。

曹操を逆賊と思っているということは劉備、諸葛亮と同じはずです。
なぜ、共通の敵を持つという意識を持てなかったのか。
その認識を持てなかったことが周瑜という男の限界です。
(荊州をどちらが取るかでもめていた)

結局は、自意識が強すぎたところが周瑜の最大の欠点となりました

才能があるから、実力があるから「俺が、俺が」という意識が強く出てしまったのです。
諸葛亮と比較すると大きく周瑜が劣っている点があります。
それは「慎重さ」です。

周瑜の勝気過ぎる性格が彼を早死にさせたと思えるのです。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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