【曹操伝7 ~曹操の存在意義~】
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曹操の存在意義】

曹操は、小説『三国志演義』では悪役で「三絶のなかの奸絶(奸のきわみ)」とされる。
「三絶」(絶は“極み”の意)とは、「義絶」の関羽、「智絶」の諸葛亮、「奸絶」の曹操のこと。
だが、崩れ行く漢王朝末期に曹操という人物が存在したことは、その後の中国にとっては欠かすことのできない功績を残したといえる。

《曹操が後世に残したもの》

〈律令制度の原型〉

曹丕が漢王朝最後の皇帝(献帝)から禅譲を受け、魏王朝を開き、その魏が司馬氏の「晋」にとって代わられ、その後約370年の分裂を経て、隋唐王朝が形成されていくことになるが、その中国統一には曹操の存在が少なからず影響している。

曹操が目指した猛政の尊重は、時代が下ると律令体制を生み出すことに繋がります。
曹操死後に作られた曹魏の基本法典『新律十八篇』は、中国最初の律令法典となる西晋の『泰始律令』の基礎となります。

隋唐王朝の律令制度、それを取り入れた日本の律令制の源流は曹操の猛政にあるのです。
もし、曹操がいなければ律令制度そのものが生まれていなかったかもしれません。

〈軍事専従集団のルーツ〉

曹操が布いた多くの政策のうち、軍事制において注目されるものが二つある。
「青州兵の編成」「都督制」である。

青州兵は、曹操がエン州の牧(州の長官)のときに編成したもので、黄巾賊討伐の戦いで劉岱を敗死せしめるほどの精強を誇った黄巾残党(青州黄巾軍)を自身の直属部隊として再編制したものである。

青州兵について

青州兵の特徴は、
従来の黄巾賊集団の組織を維持したまま一個の独立部隊として存続させた。
常に曹操とともに行動し、曹操軍の主要な構成要素となった。
曹操と個人的な紐帯(ちゅうたい)で結ばれ、一定の軍律違反すら看過された。

青州兵が曹操個人と結びついていたことを示す出来事がある。
曹操が死去した直後、都に駐屯していた青州兵は曹操の死を知ると、勝手に持ち場を離れ、太鼓を打ち鳴らして去ってしまったという。
ただ、曹操の死後も30年間近くたった時点でも独立部隊として維持されていた。

漢王朝の常備軍は、ごく一部を除いて、民からの徴兵で成り立っていた。
これに対して青州兵は明らかに徴兵ではなく軍事に専従する集団であった。
これを「兵戸制」という。
兵士とその家族を「兵戸」と呼び、一般の民とは別の戸籍に登録したのだ。
要するに兵農分離制度をとったのだ。
兵戸の兵士は、よほどの恩典がないかぎりは兵戸を抜けることができず、父から子へ、子から孫へと兵役義務を世襲させていくのである。

日本の戦国時代において、時代に先駆けた兵農分離部隊を作った織田信長よりはるか昔に曹操はこの制度(軍制)を持っていたのだ。
もしかしたら、織田信長は曹操の軍制を学んだのかもしれない。

都督制について

都督制の導入は曹操政権の後期に見られる軍制である。
具体的にいうと、赤壁の戦いでの大敗を喫して以降のことである。

曹操の指揮下から離れて一地域の軍事全般を担う方面司令官ともいうべき存在を設置したのだ。
南方(荊州方面)の方面司令官の曹仁、西方の方面司令官の夏侯淵など曹操の股肱の将軍たちに独立した軍事権を与えて多方面の展開をはかったのだ。

そもそも軍権とは、
1.軍隊の建設と維持を行う「軍政権」。
2.軍隊の指揮を行う「統帥権」
3.軍隊の秩序維持を行う「軍事司法権」
の三権によって構成されている。

通常、将軍職に許される権限は、「軍政権」と「統帥権」である。
「軍事司法権」は将軍を監視する軍目付けの権限とされる。

しかし、曹操が与えた都督制では、三権すべてを備えているだけではなく、任された地域の軍事全般を監察する機能を持ち合わせた。
つまり、三権に加えて、「司令権」「行政権」を兼ね備えていた
要するに、曹操の都督制とは担当地域に軍事政府を樹立することを許された存在なのである。
絶大な権限を許された一地方の方面司令官なのである。
方面司令官は織田信長も採用したが、特定の地域の軍事政府樹立までは許していないので、曹操の都督制がいかに大きな権力を部下に与えたかがわかる。

これはよほど曹操の信頼を得たものでなければ与えられない地位である。
逆に言えば、方面司令官に任命された人物は曹操からの絶大な信頼を得ているということだ。

ただし、都督制の理念は曹操の独創ではなく、霊帝の「牧伯制」にその源流がある。

夏侯淵も曹仁も曹操の身内(従兄弟)。
やはり身内でなければ曹操も信頼できなかったようだ。

曹操が取った都督制は、曹操の死後、魏、晋、六朝時代のおよそ400年にわたって常態化し、軍事制度の根幹となった。

〈屯田制〉

曹操の政治家としての代表する社会改革が「屯田制」である。

後漢末期、各地の群雄たちは慢性的な食糧不足に頭を抱えていた。
中平元年(184年)に起こった黄巾の乱以降、動乱が続き、食糧の消費が急激に進んだのである。

窮地に陥ったのは曹操も同じである。
嘘か本当か、こんなエピソードもある。
曹操陣営で食糧不足が起きたとき、程昱が軍糧に人肉を混ぜたとされている。
それほど食糧の確保が最も緊急を要する課題となっていたのだ。

食糧不足になる理由は、各地に起こる戦によって多くの民が自分の土地を棄てて流民となったからである。
食糧を作るはずの民が流民となり、田畑は荒廃してしまったのだ。

曹操はこうした状況を打破するべく、建安元年(196年)に屯田制を実施する。
曹操の行った屯田制は、土地を失った流民を徴募し、勢力圏下の放棄された土地を貸し与えて、耕作させたのである。
屯田民は有事の際には兵士として従軍し、戦がないときは田畑を耕す農民となった。
この屯田民は、一般の郡県民とは違う戸籍で管理され、通常よりも重い税を課せられていた

曹操の屯田制では、その年の収穫量に応じた一定の割合での税徴収が行われた。
漢代の屯田制は基本的に辺境地帯に設置され、その地域を防衛する兵士が耕作を担当した。
つまり、漢の時代の屯田は、異民族の防衛が第一義とされ、そのうえで平時の労働力を耕作に充てていたのである。
こうした兵士が行う屯田を「軍屯」と呼ぶ。

しかし、曹操は土地を失った民を対象として、一般の人民を徴募することで屯田を行ったのである。
こうした屯田を「民屯」と呼ぶ。
要するに曹操は、軍屯が主であった屯田制に新しく民屯を導入し、それを屯田経営の中心としたのである。
曹操はこの民屯を軍屯とは違った管轄機構で管理させた。
「典農官」と呼ばれる専属の担当官を置いたのである。
この典農官は、事実上曹操の私的機関であり、曹操が直接支配した。
軍屯と民屯の違いは、軍屯が対呉・対蜀、または異民族の前線基地で行われたのに対して、民屯は、許や洛陽を中心とする中原地域で行われたことである。

曹操は余った土地に余った労働力を割き、そのうえで高額の税収入を得ることに成功したのである。
実に合理的で、賢いと言える。
ただし、徴税される側としてはたまったものではなかっただろう。

曹操の始めた屯田制は時代がくだり、魏末晋初期になると廃止される。
後漢末の非常事態に施行された屯田制は、食糧収入の安定化とともに、魏が建国される頃には不要なものとなったからである。

〈科挙に引き継がれた文学を基準とする人事〉

曹操の文学を基準とする価値基準が後の世で「科挙」に引き継がれた。

曹操は文学の宣揚のため、人事基準を変えようとした。
文学者の丁儀を丞相西曹エン(人事担当者)に就け、文学を基準とした人事を始めたのである。

後漢の官吏登用制度であった郷挙里選は、孝廉(両親への孝行と清廉な姿勢を評価すること)など儒教的な価値基準により官僚を選出した。
このため知識人はみな儒教を学んだ。
この基準を文学に変えようとした。

曹操のサロンから発展した建安文学が中国史上、最初の本格的な文学活動と評されている。
この文学を人事の基準とすることが、後の唐代の「科挙」の進士科に継承された
李白や杜甫が詩を詠んだのは、官僚登用試験である科挙の受験勉強という側面があったからなのだ。

もし、三国志の時代に曹操が文学を基準とする人事制度を発しなければ、その後の中国大陸と朝鮮半島で人事登用の基準となる科挙制度は存在しなかった可能性さえある。

〈兵法書を後世に伝える〉

中国の歴史において世界最高の兵法書として認められているのが『孫子の兵法』であるが、それは曹操が注釈をした『魏武帝註孫子』が後世まで残ったおかげである。

この『魏武帝註孫子』は、ヨーロッパ全土を支配しようとしたナポレオン一世も座右の書としたほどである。
ナポレオンに敗れたドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、『孫子』の存在をしり、「この書物を、二十年前に読んでいたならば・・・」と悔しがったという。

曹操の記した『魏武帝註孫子』は時代と国境を越えて影響を及ぼしたのである。
もし、曹操が『孫子』を研究し、注釈を加えて書物として残さなかったら歴史は変わっていたかもしれない。

日本の戦国時代において甲斐の武田信玄が孫子の兵法の一部を旗印としたことはよく知られている。
戦国武将たちがこぞって学んだのが『兵法書』であり、そのなかでも『孫子』であることは間違いない。

それを考えると、もし、曹操が『孫子の兵法』を研究し、注釈を残した書物がなかったとしたら、戦国最強と謳われた武田信玄の存在も変っていたかもしれない。
すると、武田家の軍制を取り入れた徳川家康の徳川幕府も存在したかどうかも疑問符がつく。
それほど『孫子の兵法』は歴史に大きな影響力を持っている。

そして、その影響力は現代まで続いている。
アメリカ軍では、兵術、戦略を学ぶときに『孫子の兵法』をテキストとして学習しているのだ。

もちろん著者の孫武の存在は欠かせないが、曹操が注釈をしなかったら、『孫子の兵法』は歴史から消えていた可能性があるのだ。
そうした意味で曹操の果たした役割は計り知れないものがある。

『曹操伝8』に続く。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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