【曹操の栄光と成功】
《曹操の初陣》
“黄巾の乱”平定のために頴川(えいせん)の黄巾軍鎮圧に従事する。
曹操30歳の時であり、初陣にあたる。
三国志の英雄たちは、ほとんどが黄巾の乱平定にかかわりをもっている。
曹操が世に出るきっかけも黄巾の乱平定である。
曹操は頴川(えいせん)の黄巾軍鎮圧に従事し、勝利した後、すぐに済南国の相に任命された。
漢王朝は、郡国制度をとっていた。
(漢の統治は、州の中に国があり、国のなかに県がある、という図式になっている)
国には皇族か王が封じられるが、名目的な存在に近く、実権は相が握っている。
郡の郡太守と国の相とは同格と見られる。
曹操の野望は、このときスタートしたと言っていい。
《曹操の出世》
188年、黄巾の乱後、西園八校尉が置かれた。
八人の軍官を八つの軍団として置いたのだ。
この八人の軍官の一人に曹操は選ばれる。
曹操の地位は、「典軍校尉(議郎)」である。
ちなみに西園八校尉の代表である袁紹は、「中軍校尉」となっている。
この西園八校尉の一人に選ばれたことが後に袁紹と対立する始まりでもあり、曹操の野望を達成するための大きな足掛かりとなったことは間違いない。
この際の袁紹たちは体面を保つばかりで董卓軍と戦わず時間ばかり過ぎて行った。
このときの曹操は高く評価すべきである。
体面ばかり気にしていた諸侯の中で、唯一曹操だけが董卓への攻撃を強く訴え、動かない諸侯に業を煮やして賛同者の鮑信とともに進軍している。
このときは董卓軍の徐栄と遭遇し、鮑トウほか多数の戦死者を出して退却した。
だが、率先して戦ったこと自体が曹操の評判をあげることになる。
敗れたとはいえ「漢の復興のために董卓と戦った男」として天下にその名は轟いた。
つまり、曹操という男の名が天下に知られることになったということだ。
この積極的に行動した曹操の姿が多くの人たちの心に残ることになったのだ。
これが多くの人材が曹操の元へ馳せ参じる要因となったことは間違いない。
特に漢王朝を護持したい名士たちから「漢の護持を志す男」として魅力的であり頼もしい存在として認知されたのである。
その一人が荀彧である。
事実、荀彧が袁紹を見限り曹操旗下に入るのはこの翌年のことであった。
この荀彧の勧めに従って献帝を迎い入れたことが中原に覇を唱えるための絶対的条件となったのだ。
つまり、皇帝(献帝)という後ろ盾を得たことで曹操は「官軍」となったのだ。
これは天下取りレースにおいて重要である。
幕末の日本において薩摩長州連合の官軍が錦の御旗をかかげたことで将軍徳川慶喜の心を折ったように、官軍となることで大義を得て、天下取りレースの一番乗りを果たしたのだ。
《曹操のスプリングボード》
曹操という人物の成功を考えるときにどうしても抜くことが出来ないと考えるのが父曹嵩と祖父曹騰の存在である。
このことは専門の学者でもはっきりと指摘(認識)している人はいない。
つまり、曹操の出世及び成功は曹操一人だけで成し得たものではないと言いたいのだ。
確かに曹操は歴史上稀に見る多彩な実力の持ち主である。
だが、曹操は裸一貫から天下取りの覇者となったわけではない。
三国志の英雄たちのなかで実質上の裸一貫から出世したのは劉備であろう。
(劉備については「劉備伝」に譲る)
日本の平安の終わりごろ、武士勢力が台頭してきた。
そのなかでも平氏と源氏の二大勢力がしのぎを削った末に源氏が天下取りに勝利して幕府を開く。
いわゆる鎌倉幕府である。
鎌倉幕府をひらいたのは源頼朝だが、鎌倉幕府は彼が一代で築き上げたものではない。
公卿たちが権力をもつ時代から武士の世の中になったのは頼朝一人の力ではなかったのだ。
頼朝には義朝という父親がいて、義朝には平清盛というライバルがいた。
まず清盛が武士の世の中をつくったのだ。
さらに義朝も朝廷で地位を得ることで武士が認められる社会を切り拓いた。
頼朝は父義朝の切り拓いた道、ライバル清盛が開拓した道を後から進んだから武士の政権をもつことが出来たのだ。
つまり、頼朝の鎌倉幕府というものは父義朝、ライバル清盛がスプリングボードの役割をすることで誕生した権力(地位)だったということだ。
これと同じ現象が曹操についても言える。
祖父曹騰は宦官であるが、十常時という宦官の最高位になり皇帝の側近として漢王朝の内部に存在した。
曹騰は天下の賢人、名士たちと親しく交流し、彼らを積極的に皇帝に推挙した。
その曹騰が積んだ功徳が孫の曹操にチャンスを与えたことは間違いない。
曹騰は、多くの人材を登用することに尽力した。
曹騰のおけがで地位を与えられ、出世した人物が多くいた。
曹騰の生み出した徳が孫の曹操に影響したのだ。
さらに父曹嵩は、漢王朝の最高位である三公の一つ「大尉」に就任している。
(ただ、これは多額の金銭で地位を買ったものであるが・・・)
(三公とは大尉の他に「司馬」「司徒」の二つである)
曹操の父親は漢王朝の最高権力者の地位(皇帝以外で)をもった人物であるということだ。
宦官として地位を極めた祖父と大尉という最高役職の父をもった息子である曹操はすでに出世できる道のりが用意されていた、と言ってもいい。
後は、当人の実力と運しだい。
ところが、曹操は傑出した人物。
祖父と父をスプリングボードにして大きく飛び上がったのだ。
曹家に生れることで中原に有利な地域で活躍することが出来た。
祖父と父親によって、漢王朝で活躍する段取りが敷かれていた。
といっていい。
もし、祖父曹騰と父曹嵩の存在がなく、劉備のように孤児に近い身分だったら、呉や蜀などの中原から離れた土地を拠点としていたら、中原の覇者となり、その息子が次の王朝を開くことができたか? というと、いかに曹操であっても難しかった、と言わざるをえない。
逆に、
もし、劉備が中原の名家の息子に生れていたら。
もし、孫権が漢王朝の名家の息子だったら。
そして、曹操が中原から遠い蜀や呉の土地で名もなき親の元で生まれていたら、中原の覇者になることは無理だった可能性が強い。
これはあくまでも想定にしか過ぎませんが、中原に有力なライバルがいなければ、辺境の地で生まれたとしても曹操ならば天下を取ったでしょう。
ですが、曹操が中原から遠い場所で生まれ、庶民の親を持って生まれてきた場合で、なおかつ中原に実力を持つ有力なライバルが存在していたら、いかに天下一の実力を持つ曹操であっても覇者となることは困難だったはず。
この場合、日本の戦国時代における伊達政宗のような立場になった可能性が高いと想像しる。
要するに、天下取りをするのに本当に裸一貫、社会の底辺から天下統一を果たすことは天才でも難しいことであるということです。
曹操が覇者になり得たのも、祖父曹騰、父曹嵩というスプリングボードが存在したからなのです。
《曹操躍進の秘訣》
曹操が群雄割拠の中から一早く躍り出た理由は、いくつかあるが、最大のものは黄巾賊討伐の際に、投降した青州黄巾軍30万を取り込んだことにある。
この青州黄巾軍の中からさらに精鋭を選びだし、曹操直属の部隊とした。
いついかなる時も曹操の手足となって動く機動性優れた精鋭軍を得たことが曹操を歴史の表舞台へと押し上げた。
清朝の大学者の何ショクはこう言った。
「魏武の強、ここより始まる」と。
この精鋭軍がいなければ袁紹と戦った官渡の戦いでの勝利はあり得ない。
官渡の戦いでは袁紹軍は曹操軍の数倍の兵力があった。
兵力において劣勢なものが、強者に勝つには“奇兵術”を使う必要がある。
奇兵術とは兵法における正攻法ではなく、「奇襲」「騙し」「今までにない新しい戦法をつかう」「相手の隙をつく」「不意打ちをする」「裏をかく」などのこと。
曹操が官渡の戦いに勝利したのは、袁紹軍の兵糧の情報を掴み、袁紹の“裏をかいて”電光石火の行軍をしたことが要因となった。
だが、赤壁の戦いは中原の戦いで有利な騎兵が使えず、水上戦となったことで曹操の直属軍の機動性を使用できなかったことが大きい。
これは日本の戦国時代にも言える。
徳川家康は、三方ヶ原の合戦で命の危機まで追い込んだ武田信玄を心底恐れていた。
だが、徳川家康は普通の武将とは違っていた。
武田家が滅んだときに一早く甲斐へ侵攻し、武田家の家臣たちを召し抱えた。
それだけではなく徳川の軍制を武田家方式に変えたのだ。
つまり、武田家の残党兵力および武将を自軍に混入し、武田信玄の戦いかたを真似たのだ。
有名な井伊家の赤備え隊(赤い甲冑の部隊)は、武田家の山縣の赤備えを引き継いだものである。
もし、徳川家康が武田家の重臣や兵を皆殺しにして、武田家の兵法、軍制を否定し歴史から葬っていたとしたら、おそらく後に豊臣秀吉と戦った小牧長久手の戦いで勝利することは難しかっただろう。
徳川家康が天下を取ったのは関ヶ原ではなく、小牧長久手の戦いにあると歴史家は評価している。
とすると、さらなる根源は徳川家康が武田家の兵力を吸収し、信玄の兵法を真似たことにあるといっていい。
普通であれば、このように強力な敵であったものを生かしてはおかない。
虐殺されるのが乱世の常だ。
なのに、曹操は黄巾軍を自分の手足にしてしまった。
この発想こそ曹操の特徴をよく表していると同時に曹操が英雄たちから一歩先んじた理由である。
《曹操の本拠地》
曹操が活躍した後漢末期の漢の都は洛陽。
後漢王朝の初代皇帝である光武帝が洛陽を都と定める。
ちなみに前漢を建国した劉邦が定めた都は長安である。
建安元年(196年)に献帝は曹操の庇護のもと「許」に都を遷都した。
これ以降「許」は「許都」と呼ばれるようになった。
建安13年(208年)に曹操が丞相に就任すると、宰相として後漢の国政を取り仕切る丞相府(丞相の幕府)を「許」に構えた。
(丞相就任時の曹操の年齢は54歳)
建安18年(213年)に曹操が魏公の爵位を授けられると、冀州の一部を封地(領地)として与えられる。(さらに、建安21年(216年)に魏王に昇格した)
魏公・魏王となった曹操が拠点としたのが「ギョウ」である。
河北の中心地である「ギョウ」はもともと袁紹の本拠地だったが、袁氏一族を滅ぼした後に曹操が自身の拠点とした。
このギョウも曹操の政治と軍事における重要な拠点である。
有名な銅雀台もこのギョウに建てられたものだ。
中国の政治制度は一般の日本人には少し理解しがたいかもしれない。
「許」という都に漢王朝があり、ギョウという都に魏公国(または魏王国)の幕府の二つが存在するようになった、ということである。
漢王朝の実質的な統治のトップ(丞相)に立った曹操にとって政治面・軍事面の本拠地が「許都」であり、曹操個人が統治するギョウというもう一つの拠点があるということだ。
ちなみに曹丕が献帝から禅譲を受けて魏王朝を建国したのち、許は黄初2年(221年)に「許昌」と改称された。
天下取りをするためにはどこに本拠地を持つのか、どこを自身の領地とするのかは極めて重要である。
曹操の成功はなんといっても中国大陸の中原を抑えたことが要因である。
漢王朝の中心地であり、皇帝の所在地であり、中国文化の中心地である中原を抑えたことが大きく影響している。
日本の戦国時代で例えれば、織田信長が天下取りに一番乗りした理由の一つに、尾張、美濃という天皇がいる京都に近いところに領地があったことが関係している。
京都から遠く離れた土地の武将たちは京都までの道のりに敵対する勢力があると都に上ることが困難になる。
典型的なのは東北の伊達政宗であろう。
50年遅れてきた英雄と呼ばれた伊達政宗の領地が都からずいぶん離れていたことが天下取りに大きなハンディキャップを負っていた。
これは地勢的にみれば、甲斐の武田信玄にしても上杉謙信にしても同様である。
織田信長を含めた戦国時代の覇者である豊臣秀吉も徳川家康も京都に近い場所に領地(拠点)をもっていた。
「天地人」という言葉があるが、地の利というものが天下取りに大きく影響することは間違いない。
《孫権を屈服させる》
赤壁の戦いで曹操は大敗しましたが、それは曹操の勢力全体が大打撃を受けたわけではなかったのです。
つまり、余力はまだまだあったということです。
209年には合肥で北上する孫権軍(呉)を防いだ。
その後も合肥・濡須口(じゅしゅこう)で孫権軍(呉)と戦闘を繰り返し、217年には孫権を臣従させることに成功している。
(これは表面上のものでしかないが・・・)
曹操にしてみれば荊州南部を失ったが、襄陽周辺を防衛線として劉備・孫権軍の北上を食い止めることに成功している。
《二方面作戦を展開》
曹操は荊州、呉などの南部戦線と同時進行しながら211年には漢中に宗教国家を築いていた漢中の張魯討伐の軍を起こす。
これは西涼の勢力である馬超、韓遂ら「関中十部」と呼ばれる大小軍閥への挑戦行動であった。
曹操は馬超には苦戦するものの、最終的には馬超と韓遂の離間に成功して勝利を収め、ギョウに帰還している。
214年には、劉備による成都攻略を受け、215年に再び漢中侵攻の軍を起こし、張魯を降伏させている。
このように曹操は、南部戦線を防衛しながら、西部の雍州、涼州、益州へと順調に勢力を拡大していった。
曹操は南部と西部の二方面において軍事行動を起こしている。
それだけ曹操の勢力(軍事力)が強大であるということだ。
結局、曹操にとっての赤壁の戦いでの敗北は、“天下統一が遠ざかっただけ“にすぎないとも言える。
ただ、赤壁の戦いでの負けによって天下統一の遅れを取り戻せなくなったのも事実である。
三国志でほとんどの人が勘違いをしていることが「三国並立」なのだ。
曹操が呉や後の蜀と対抗する勢力のように思っている人が多い。
事実は、曹操の勢力(のちの魏)と呉の孫権、蜀の劉備が同列で天下取りを争っていたわけではないということだ。
圧倒的に曹操の力が上回っていた、というのが歴史的な事実なのだ。
しかも曹操は官軍を名乗り、中国の中心地を領土としている。
逆に言えば、強大な勢力を持つ曹操の勢力が中原に存在しているということは、孫権や劉備などの地方の勢力からみれば脅威なのだ。
つまり、野望を持つ曹操が生きている限り、自分たちが侵略されて、領土を奪われるということになるからだ。
一時期の孫権のように臣従するか、曹操の支配下に入るという選択もあるが、独自の地盤を持つ孫権と漢王朝再興をかかげる劉備にとっては、それは出来ぬ相談なのだ。
結局、強大な曹操は孫権と劉備にとっては“倒すか倒されるか”なのだ。
二方面戦線を展開できたということが曹操の力が抜きんでていることを証明している。
《野望への道のり》
曹操は自らの王朝を開こうとしていたのか?
ということが三国志の謎のひとつであろう。
だが、天下人への道のりを着々と歩んだことは間違いない。
212年、曹操にとって忠臣であり、最大の功労者でもあった荀彧が不審死を遂げる。
これにより表立って曹操の野望に異を唱えるものがいなくなった。
翌213年、曹操は魏公となり漢の藩国として魏を建国する。
中国の統治システムは日本とは違い、中国全体をひとつの国家とするとその中に小さな地方国家が存在するような二重体制を取る統治システムなのです。
要するに、皇帝が中国全体の統治者であるのに対して一地方の統治権を持つのが「公」と「王」なのです。
曹操在世中の魏とは、漢王朝の中にある魏公国または魏王国を指します。
(曹丕の魏王朝は皇帝が治める国家です)
同年には、自身の3人の娘を献帝の妻としたことで、曹操は皇帝の外威(親族)となりました。
215年、献帝に嫁がせた二番目の娘(節)を皇后とした。
216年には魏王となる。
漢王朝において本来、「王」になれる資格は「劉氏」であること。
つまり、高祖劉邦の子孫であることです。
その慣例を破って曹操が魏王になったということが実質的に最大の権力であることを証明しています。
地方には孫権や劉備などがいましたが、これらを見る限り、この頃の実質的な覇者は曹操だということが言えます。
《曹操中原の覇者となる》
天下分け目の大戦である官渡の戦いに勝利したのち、曹操は数年かけて河北を平定する。
それによって中原を完全に支配した曹操は、朝廷の大改革を断行する。
前漢時代から続く三公(大尉・司徒・司空)を廃止して代わりに「丞相」を復活させる。
丞相とは天子(皇帝)を補佐し万機を統べる朝廷の最高実力者で、戦国時代に設置され、前漢末期に大司徒に改称された役職である。
つまり、大尉・司徒・司空に分かれていた権力を丞相一人に集中させることにしたのだ。
丞相に政治権力の集中をすることが曹操の狙いであった。
《曹操の後継者選び》
一代で偉大な事業を創業したときに重要になるのが後継者である。
曹操の場合、漢民族の中心地である中原に覇を唱え、天下統一に一番近い男となった。
魏公、魏王となることで魏王国の幕府を開くことになる。
(注:中国では皇帝が治める全体の王朝の他に王が幕府を開き独自の統治を許される二重体制が古来の統治システムとしてあった)
曹操は晩年まで後継者をはっきりと指名しなかった。
天下統一を目指していた曹操が赤壁の戦いで大敗することで曹操一代での天下統一の実現が事実上不可能となった。
曹操もその時点で後継者をはっきりとしなければいけないと認識したはずだ。
つまり、天下統一の偉業を二代目(曹操の後継者)に委ねなければならない。
曹操の後継者になるということは、天下統一の偉業を“継ぐ”ということなのだ。
正史『陳思王植伝』には、「太祖(曹操)は考えあぐね、(曹植が)太子となりかけたことが何度かあった」と記している。
曹操一代での天下統一が遠ざかったことにより、大事業を引き継ぐ後継者の選択で苦悩していたのだ。
曹操には長男(嫡子)の曹昂がいた。
おそらく長男の曹昂が生きていたら後継者問題は紛糾しなかっただろう。
曹昂が間違いなく後継者になったと思われる。
だが、不幸にも曹昂は戦で命を失ってしまった。
後継者をはっきりさせなかったのは曹昂を失ったショックがあったのかもしれない。
曹操には息子が多くいる。
後継者選びには困らないように思えるが、年齢、才能、人望、支持する勢力など検討すべき課題は多い。
後継者選びを間違えれば、天下統一どころか、宿敵蜀と呉に滅ぼされてしまうからだ。
曹操の後継者レースを考えてみよう。
なんといっても儒教的価値観の強い漢の時代では、長男が後継者となる価値観が主流であった。
曹昂が若くして戦場で命を落としてしまったので、正室丁氏(玉英)の後に正室となった卞氏(阿厚)が産んだ子である曹丕、曹彰、曹植たちが後継者候補となった。
順当にいけば曹丕である。
だが、曹操が息子たちの中で一番愛したのが曹沖であった。
おそらく曹操は年少の曹沖に後継者としての資質を見出し期待していたはずだ。
実際、曹沖は幼いながらも賢い子であった。
しかし、不幸にも幼くして病死してしまう。
もし、曹操がもう少し長生きし、曹沖が夭逝しなければ、曹沖が二代目となった可能性もある。
次に曹操が愛着したのが、曹植であった。
曹操は建安18年(213年)に魏公となり、その三年後の建安21年(216年)に魏王となった。
曹操が魏公となり魏公国が成立した当時、曹操政権の内部は、曹丕を太子に推す勢力と曹植を推す勢力の二つに分かれていた。
曹丕を推す人物は、
毛カイ、崔エン、カク、桓階、刑ギョウ、呉質など。
曹植を推す人物は、
丁儀、丁イ、楊脩、孔桂など。
儒教的価値観からすれば、後継者は年長の曹丕ということになる。
が、曹植の文学的才能を愛していた曹操は、どちらを太子に立てるか悩んだ。
そこで曹操は、官僚たちに意見を求めた。
崔エンは『春秋』を引き合いにだし、跡継ぎは年長者を選ぶことが道理であると説く。
しかも曹丕は仁愛に篤く孝行で聡明だから、正しい血統は曹丕に継がせるべきであると主張する。
曹操はカクにも意見を求めた。
カクは袁紹と劉表の父子の事例を引き合いにだす。
袁紹と劉表の二人はいずれも長子を差し置いて後継者を選ぼうとして結局は滅んだ。
カクは遠回しに曹丕を後継者にすることが理にかなうと主張したのだ。
曹丕と曹植の後継者争いは単に長子か弟かの問題ではなかった。
曹丕を太子に推す勢力は「汝頴集団(じょえいしゅうだん)」と呼ばれる豫洲汝南群・潁川群の出身者を中心とする集団。
これに対して曹植を太子に推す勢力は「ショウハイ集団」と呼ばれる豫洲ハイ国ショウ県の出身者を中心とする集団であった。
また、曹丕を推すのは儒教的価値観を持った名士たちであり、曹植を推す勢力は文学に文化的な価値を認める知識人たちであった。
つまり、曹丕と曹植の後継者争いは、背後にある勢力の選択であり、儒教的価値観と文学的価値観の対立でもあったのだ。
それぞれにバックに勢力がついているので、どちらを後継者とするかによって、曹家の勢力図が一辺してしまう可能性がある。
いまだ蜀の劉備、呉の孫権がある状況で曹家の勢力が弱まることは避けねばならない。
これは難しい選択である。
当時曹操は魏公国と漢王朝の丞相という二つの立場を持っていた。
魏公国の都はギョウである。
曹丕を推す勢力は漢王朝の都洛陽にて役職に就く者たち。
曹植を推す勢力は魏公国の都ギョウで役職に就く者たち。
つまり、曹丕を太子に立てれば魏公国の官僚たちが不満を抱くことになり、曹植を太子に立てれば丞相府の内部で幕僚たちを含むさまざまな層の反発を招くことになる。
まさしくあちらを立てればこちらが立たぬであった。
曹操は漢の丞相としての立場と魏公(後の魏王)としての立場の両面から後継者を判断せねばならなかったのだ。
そこで曹操は後継者を選ぶにあたって独断を避けたのだ。
曹操政権を支える両方の勢力の官僚たちに意見を繰り返し求めた。
歴史的に見ると曹操ははっきりと後継者を指名するような態度を見せていないが、どうも曹植の才能に魅かれながらも曹丕を後継者として考えていた節がある。
上記で述べたように曹植を太子とすると漢王朝の官僚たちから反発、離反を受けて丞相として国政を動かす際に支障をきたしかねない。
曹操は、漢王朝の官僚たちと魏公国の官僚たちの両方に意見を吐き出させて論争をさんざんさせて置いて、最終判断を下す。
年長の曹丕を太子とする。
この決断は結局漢王朝を支え続けるのか、新しく曹家の王朝を開くのか、という問題が含まれていたのだ。
つまり、曹操はいまだ存続する漢王朝と漢王朝に忠義を尽くす官僚に気を使いながら、曹丕に天下統一の偉業のバトンを渡したことになる。
それとこれは私見だが、曹丕が兄弟のなかで一番曹操に似ていたからではないかと思われる。
400年続いた漢王朝を倒し、新しい王朝を立てる人物に必要な性質は“冷酷さ”“図々しさ”という個人的な資質が欠かせない。
曹操は曹丕にそうした要素を見て取ったと思われる。
曹丕は、父曹操の死後、期待通りに後漢の献帝に禅譲を迫り、魏王朝を開くのだ。
そういった意味では曹操の後継者選びは成功したといっていい。
ただ、惜しむらくは曹丕が短命であったことだろう。
曹丕が長寿を保ったとしたら、曹丕の時代に三国は統一され、司馬氏が台頭することなく魏王朝が中国大陸に長く君臨した可能性がある。
一番肝心な点は、独裁的気質の曹操が、後継者を選ぶときに、独断で決めずに臣下たちに意見を求め、議論を出させたことだ。
それによって後の憂いを事前に取り去ったと思われる。
ここに事業家としての大才を見ることができる。
『曹操伝4』に続く。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。