『曹操伝9 ~曹操は英雄か?それとも奸雄か?~』
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【曹操は英雄か? それとも奸雄か?】

曹操をどう評価するか?
果たして乱世の英雄なのか?
それとも逆賊の奸雄なのか?
意見は分かれるところだと思います。

〈許劭(きょしょう)の人物評〉

若い日のまだ無名だった曹操は、人物評で有名な許劭を訪ね、みずから人物評を求めました。
許劭は「治世の能臣、乱世の姦雄なり」と評した。

平和の時代なら有能な能吏であるが、乱世なら姦雄になると評した。
(姦雄とは、単なる英雄でもただの悪党でもない。権謀術数に長じ、善良なる凡人をあざむき、世を覆うほどの大きな志を抱き、天下に覇をとなえる強烈な個性の持ち主のこと)
要するに、「毒にもなるし、薬にもなる」ということである。

〈正史家の評価〉

正史『三国志』武帝紀の著者陳寿「非情の人、超世の傑」と曹操を評価した。
「非情の人」とは、「並はずれた人間、尋常ならざる人物、規格はずれの人物」という意味。
「超世の傑」とは、「時代を超越した傑物」という意味。

■曹操悪役論は作られたもの。
一般的に広く世間で知られている曹操像は、小説『三国志演義』の影響が大きい。
『三国志演義』は、小説であるがゆえに善玉と悪役をはっきりと分けて誇張やフィクションも交えながら面白おかしく描かれている。
だが、史実を細かく調べてみれば、曹操は単なる悪役ではないことがはっきりする。

〈曹操悪役論について〉

曹操を語る上で父曹嵩と祖父曹騰、及び曹一族を抜きにしては語れない。
一人の人間を形成するうえで生まれた家柄、育った家庭環境、家族の存在が大きく影響するからだ。

曹一族には、宦官、異性養子、金(かね)と言った儒教が否定する条件が揃っていた。
曹家が行った子どもを宦官に仕立てたり、身元の知れない異性の養子を迎えたりすることは、清廉潔白な生活を追求する儒教的な価値観を重んじた士大夫の名門ではありえなかった。

つい最近まで中国史における宦官といえば腐敗・亡国の元凶というイメージが強かった。
これが曹操という男を生み出した土台である。

曹操が歴史の中で悪役として捉えられてきたには、もう一つ理由がある。
「漢王朝の簒奪者」という存在として捉えていることだ。

簡単に言うと、忌み嫌われる宦官の子孫であり、漢王朝から天下を奪った人物として歴史の中で評価されてきたのだ。
これが、曹操という人物を悪役としてきたことの背景である。

はっきりと言えば単なる悪役というよりも、“憎悪の対象”となってしまったのだ。
それに反論が起こったのは20世紀初頭であった。
清朝が倒れ、旧来の価値観からの脱却を訴える動きが起こり、魯迅などが曹操の再評価を唱えるようになった。
魯迅が曹操を高く評価したことは、日本の研究者にも大きな影響を与えている。

しかし、学者や研究者と一般民衆との間には埋められない溝がある。
学者は史実を丹念に研究し、曹操の本当の姿を浮かびだそうとするが、民衆はそうした研究はしない。
むしろ、小説の中の勧善懲悪説を楽しむのだ。
歴史の玄人と素人の認識の違いがここに生れる。

中国において曹操の再評価に決定的な役割を果たしたのが毛沢東である。
中国共産党の父である毛沢東は、曹操についてこう言っている。
「曹操を白レンの奸臣であるというのは封建正統観念の作った冤罪であり、これは覆さねばならない」
毛沢東が活躍した近代中国においても中国国内で曹操が奸臣だというイメージが定説だったのだ。

小説『三国志演義』の影響は中国民衆のおいても深く浸透している。
正史よりも小説の曹操像が大きく影響しているのだ。

よって、20代で三国志に出会った私も曹操を悪役として捉えた。
敬愛する劉備と尊敬する諸葛孔明の前に立ち塞がる敵役として憎んだ。
日本においても中国においてもそのイメージは同じものがある。

時が経ち、あらためて三国志を研究してみると、違った曹操像が浮かんできた。

『三国志演義』の場合は史実7割、虚構3割と言われている。
つまり、読み物として楽しませるために勧善懲悪を持たせ、ドラマ性やディフォルメした作品に仕上げている。

正式の歴史書である『三国志』の著者である陳寿は、曹操を「そもそも非常の人、超世の傑というべし」という、最上級の賛辞を与えている
(陳寿は魏を倒した晋に仕えた人物)

蘇軾(そしょく)の書いた『東バ志林』には、三国物語を聞く町の子どもたちの様子が描かれている。
「劉備が負けたと聞くや眉をしかめ、泣くものもいるが、曹操が負けたと聞くや快哉を叫ぶ」
と。
また王陽脩という人物は、「曹魏の悪は子どもでも知っている」と指摘している。
(注:蘇軾も王陽脩も蜀漢正統論者ではない)

歴史は人の営為の積み重ねであり、それを評価するのも人である以上、その時代の価値観によって評価が変わることは避けられない。
また、歴史は勝者が作り出すものだが、時代が変動することで、勝者が作り出した歴史評価が覆ることがあるのも真実だ。

〈英雄出現の予言〉

後漢第11代桓帝の時代、天上の星座に黄色の星が現れたのを見て、天文に詳しい遼東の殷キ「50年後に真人(地上の代表者)が梁・宋のあたりの地域に出現し、その勢いには敵対できぬ」と予言した。
実際に、その50年後に曹操は袁紹を破って天下に敵なしとなった。

〈英雄の最後〉

曹操が弱気を見せたことが何度かある。
一度目は官渡の戦いのとき。
このときは荀彧に励まされた。

晩年にもある。
それは劉備が蜀を支配し「漢中王」を名乗り、関羽が荊州から北上し、中原を脅かしたときだ。
荊州と蜀(漢中から)の二方面から中原へ進撃されるとさすがの曹操も苦しい。
このとき曹操は都を許から遷都しようと弱気な発言をしている。
それを、司馬懿(仲達)、蒋済に止められ、司馬懿の進言により、呉の孫権に関羽の背後をつかせることで危機を乗り切った。

関羽が命を落とした後、まるで後を追うように220年正月、この世を去った。

このとき曹操が残した遺言が正史『武帝紀』にある。
「天下は依然として安定をみない以上、まだ古式に従うわけにはいかない。埋葬が終われば、皆、喪服を去れ。兵を統率して守備地に駐屯している者は、部署を離れることを許さぬ。官吏はそれぞれ自己の職に努めよ」
死に望んでもなお、リーダーシップ発揮する姿は見事と言える。

〈まとめ〉

曹操は英雄か?
それとも逆賊奸雄なのか?

歴史の観点から評価すると、
三国志の乱世の時代と後世の歴史をつぶさに見る限り、中国史上においても、世界史的にも稀な英雄であることは間違いない。

だが、中国民衆にも日本民衆にも愛されないのも真実だ。
(民衆のすべてではない)

つまり、「民衆に愛されないが、時代を変えた英雄」というのが今回の答えだ。

個人的な意見は、『曹操伝10』にゆずる。

『曹操伝10』につづく

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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