『関羽伝4 ~関羽の欠点~』
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【関羽の欠点】

人間には、誰しも長所と短所がある。
それは関羽とて同じである。
そして大きく言うと長所と短所は“能力的なもの”“性格的なもの”に分けられる。

《関羽の能力的な欠点》

〈政治力・外交力の不足〉

ずばり言おう。

関羽の能力的な欠点は、「政治・外交能力に欠けている」ところである。

ある突出した長所がある場合、大抵はその影に欠点が潜んでいる。
古今無双の武力を誇る関羽は、何事も「武」に頼る
だが、「武力」では解決でききないことが多いのも事実だ。

張松、法正らの策動により「漢中の張魯に対抗するため」との名目で劉璋から劉備に出兵要請が出たため、劉備は軍師に龐統(士元)を任命し、数万の軍勢を引き連れて益州に向かった。
だが、本当の目的は益州攻略であった。
このとき荊州の押さえとして関羽、張飛、趙雲、そして諸葛亮(孔明)を残している。
これは荊州の統治と守備の難しさを証明している。
劉備にとって股肱の臣と信頼する諸葛亮を残さなければ荊州を守り切れないと判断したのだ。

だが、ここで劉備陣営に誤算が生じる。
諸葛亮と並び称された軍師龐統が戦死してしまう。
そのため劉備は荊州の諸葛亮に救援を要請する。
諸葛亮は、張飛、趙雲を引き連れて荊州に向かうことになる。

すると荊州の守りは?
そう、関羽一人に任せることになったのだ。
関羽は荊州の軍事総督に任じられて荊州の経営の一切を任されることとなった。
もちろん参謀として諸葛亮が信頼する馬良をつけている。
これが、劉備と諸葛亮の天下統一に大きな影を落とすことになる。

関羽は、呉の武将陸遜と呂蒙の計略に引っ掛かってしまい、命を落とす。
荊州は呉と魏によって分割されてしまう。

これは関羽に政治力、外交力が欠けていたため、荊州を守り切れなかったからだ。
古今無双の武芸を持ち、戦となれば誰にも負けない自信があるからこそ、負けるなどと考えなかったのだ。
つまり、“強過ぎる”ということが“仇(あだ)”となってしまったのだ。

武力自慢がゆえに「外交によって守る」「政治力を駆使して戦闘を回避する」という手が打てなかったのだ。
関羽の最大の失敗であり、唯一の失点はこの「荊州を奪われたこと」である。
そして、荊州を奪われたこのエピソードには関羽の能力的欠点が大きく影響している。

〈弱きを援け、強気を挫くタイプ〉

関羽という人間を一言で言うと「弱きを援け、強気を挫く」である。

つまり、助けを求める者、庇護すべき者に対してはその強さを発揮し、守護神として保護する。
だが、強大な存在や敵対する者に対しては断固戦う性格をしている。
関羽は、兵卒は大事にしたが、士大夫(上級の文官)に対しては、かれらの自尊心を傷つけるような粗暴な振る舞いが多かった。

関羽の人物評価の基準は、「武」である。
つまり、自分より強いかどうかである。

関羽は「文の力」で動く文官(学者や士大夫)があまり理解できなかった。
だから、頭を使って働く文官で自分より立場が上のものに対しては傲慢に振舞った。
この性格は張飛とは真逆である。
自分を取り巻く縦の人間関係と横の人間関係を上手に調節する能力を持ち合わせていなかったということである。

《関羽の性格的な欠点》

〈傲慢さ〉

関羽には大きすぎる欠点がある。
それが「傲慢さ」である。

関羽は「義理堅く」「礼儀を重んじる」という長所を持ち、無敵の武力を誇っていた。
そこに自信が生まれるが、関羽のような性格の人間には、それが傲慢さと変りやすい。
自分より弱いやつなどに従わない、自分が認めた人物以外のいうことはきかない、という性格をしている。
それが露骨に出てしまったのが荊州争奪戦なのだ。
参謀である馬良の考えに従わず、独自の作戦を立て、魏呉同盟軍を南北に迎え打ってしまった。

要するに関羽に足りないのは「謙虚さ」「慎重さ」だったのだ。
強過ぎるがゆえに傲慢になってしまったのだ。

戦いで勝利の味をずっと味わってきた関羽には「戦わないで守る」という戦略が取れなかったのだ。
それは関羽の傲慢さ(謙虚さがない)が原因なのだ。

また、呉の孫権が関羽の娘を自身の息子の嫁に欲しいと申し入れた際には、使者を怒鳴りつけ侮辱して孫権を大いに立腹させている。
「犬の子に、虎の姫をめとらすようなものだ」と無礼な態度を取った。
このことで孫権は、関羽討つべしと決心したのだ。

もし、関羽に「慎重さ」「謙虚さ」という性格があれば、内心は腹が立っても孫権の機嫌を損ねずにことを収めただろう。
だが、関羽にはそうしたことが出来ない性格なのだ。
それが墓穴を掘る結果と繋がっていく。

さらに敵側だけではなく身内からも苦情が出ている。
正史『関羽伝』には、配下の麋芳や士仁が常々関羽に軽んじられ不満を抱いていたとの記述がある。
それが後に、麋芳や士仁が呂蒙に懐柔されて裏切ることに繋がってしまった。

結局、頑固で傲慢な性格から他人の意見に謙虚に耳を貸すことがなかった関羽は、陸遜と呂蒙の政治力と外交力を駆使した策略に敗れてしまったのだ。
本当は「耳に痛い苦言」こそ、その人にとって役に立つものなのだ。

〈おだてに弱い〉

関羽が荊州を任されていたときのこと。
馬超という豪傑が劉備陣営に新たに加わった。
それも関羽や張飛、趙雲という古参の武将たちと同列の扱いを受けた。
関羽は気になり諸葛亮に手紙で馬超という人物がどんな男なのか訊ねた。
諸葛亮は関羽の性格を心得ていたのでこう答えた。

「馬超は文武両道に優れ、まことに男らしい人物。一代の英傑にして、黥布、彭越のたぐいである。張飛と比べると、にわかに優劣を決しがたいが、髯どのと比べると、やや劣るといったところでしょうか」

(「髭どの」とは、関羽がみごとなヒゲをたくわえていたので、諸葛亮が関羽のことを「髭どの」と呼んでいた)

関羽は、この手紙を読むと、思わず相好をくずして賓客たちに見せびらかした。
これは関羽の自尊心を尊重するように諸葛亮が“おべっか”を使ったものだが、関羽は言葉の裏を読めずに、正直に文面を受け取ってしまったのだ。
要するに、関羽は「おだてに乗りやすい性格」だったのである。

誰にも負けないほどの武力を持つがゆえに、その自信が過剰になりプライドを肥大化させていた。
諸葛亮は関羽の負けず嫌いの性格を傷つけないように“おべっか”を使ったのだ。
こういう人物は、一般的には政治的駆け引きや外交戦略には至って弱い。
相手の裏の裏を読むようでなくては、戦闘以外の外交や駆け引きで敗北してしまうのだ。
それが荊州での呂蒙、陸遜との駆け引きに敗れたことに如実に現れている。

【関羽の欠点から学ぶ教訓】 

「己をよく知り、謙虚さを持ち、自分の能力の足りない部分を他の人に求める(頼る)べし!」

「戦(いくさ)とは戦闘ではなく、“総合的な騙し合い”である。勝利のためには謙虚さと慎重さが重要になる」

関羽伝5(最終回)につづく

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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