『赤壁大戦編11 ~騙し合う英雄たち~』
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『騙し合う英雄たち』

 前回は、頭脳戦における軍師の力量についての話をしました。
今回は、赤壁大戦前の騙し合いについての話をしてみたいと思います。 

【曹操の騙し作戦(反間の計)】

 蒋幹による周瑜引き込みの策が失敗し、逆に周瑜の計略によって水軍の武将蔡瑁を失った曹操は、また一計を企みます
蔡瑁の弟たち(従兄弟という説もある)である蔡中蔡和(さいか)に偽りの投降をさせ、呉軍に潜り込み内情を探らせようとしました。

 これは蔡瑁を殺したのは曹操ですから、弟である二人が曹操に恨みを持っているはずだという心理を利用した作戦です。
「曹操を倒す」と言って周瑜を騙そうとしたのです。

 蔡中と蔡和に曹操に対する恨み心が無かったかどうかは歴史資料には残ってはいませんが、人間だから決していい気持ちはしていなかったはず。
でも、それよりも曹操に逆らうことのほうが彼らには恐ろしかったでしょう。
それに功を成せば曹操はそれに報いてくれると分かっていたからでもありましょう。
とにかく裏切った振りをして蔡中と蔡和は周瑜の元へやってくるのです。

【周瑜の騙し作戦(苦肉の計)】

 しかし、二人を快く迎えた周瑜の腹の中では、曹操の策を見抜いていて、二人のスパイを逆に利用しようと考えていました

 その作戦には孫家三代に仕えた老将の黄蓋が絡んできます。
あるとき周瑜と黄蓋が陣中で言い争いを始めました。
黄蓋が周瑜に対して、彼がいつまでたっても出陣しないことをなじったのです。
それに対して越権行為と周瑜を馬騰した罪で黄蓋に死刑を言い渡します
しかし、まわりの武将たちの取り成しで、死刑を免じて棒叩き百回の刑にします。
それを蔡中と蔡和が目撃していたのです。
いや目撃させたというのが正確でしょうか。

 こうして周瑜から酷い仕打ちを受けた黄蓋は曹操に寝返りの密書を送るのです。
曹操は疑い深い性格です。
黄蓋からの密書だけでは信用しませんでした。
しかし、スパイとして送り込んだ蔡中と蔡和から実情を知らせる文章が届いたので曹操は黄蓋の裏切りを最終的に信用してしまうのです。
周瑜と黄蓋がどうしてそのようなことをしたかというと、スパイとして送られてきた蔡中と蔡和を信用させるためです。
信用させて曹操陣営の情報を聞き出すためだったのです。
これを「苦肉の計」と言います。
どうやらこのスパイ合戦は周瑜の勝利となりました。

【鳳凰、飛び立つ!】

 そんなときに不意に曹操陣営をある男が訪れます。
その人物の名は龐統(字 士元)
襄陽学派の英才で、司馬徽(水鏡先生)の弟子で、「臥龍鳳雛」の鳳雛と呼ばれていた大賢者でした。
曹操は跳びあがって喜びました。
それはそうですよね。
天下の奇才と言われた人物で、いま自分を苦しめている孔明と並び称された男がやってきたのですから。
曹操は大賢者の来訪に喜んで龐統を自軍の陣営を案内して視察させました。
龐統は「見事な陣営です」と褒めます。
同時に曹操軍の水軍には病人が多く出ていることを見抜きました。
曹操軍の兵士たちは北国(平原)の出身なので、水上生活に不慣れで船酔いにあっていたのです。
さらに気候風土の違いにより疫病が発生していたのです。
それを見て取った龐統がアドバイスをします
それは、大船小船を組み合わせて三十艘を一組として舳先を鉄の和で繋ぐという策でした。
これを「連環の計」といいます。
それを聴いた曹操は、すぐに軍中の鍛冶屋を集めて連日連夜の作業をして船と船を鎖で繋がせたのです。

 それを見た曹操は「実にあっぱれだ」と言ったということになっています。
わたしはこのエピソードに疑問があります。
曹操ほどの男が、船と船を繋いだ状態で水上戦が出来ると考えたのか、不思議なのです。
おそらくデメリットも当然考えたことでしょう。
それよりも船に不馴れな兵士が多く、このままでは周瑜の水軍とまともに勝負出来ないと思ったのでしょう
そして、一番のキーポイントは風です。
長江の赤壁あたりでにらみ合っている両軍は曹操軍が西北の位置にあり、呉軍が南東の方角にあったのです。
ですからこの状態では周瑜軍が火攻めは出来ないと踏んでの判断であると思います。

 龐統は船と船が鎖で繋がれたことを確認すると、曹操が官位を与えるという申し出を固辞して家族の元へ帰ると称して陣を離れてしまいました。
曹操はさぞ、悔しかったでしょうね!

【連環の計】

 実は龐統が曹操の陣営を訪れたのは決して偶然ではありません。
それは江東に住んでいた龐統を訪ねて彼に依頼した人物がいたのです。
実は、龐統を送り込んだのは周瑜だったのです。
「連環の計」とは周瑜と龐統による共同作戦だったのです。

 ここで本来の「連環の計」の意味を記します。
「連環」とは、船どうしを鎖で繋ぐことではなくて、あたかも鎖の環が連鎖するかのごとく、複数の計を連続して用いる計のことを言います。

 ここでいうと、蔡和、蔡中による「反間の計」と黄蓋による「苦肉の計」と蒋幹、龐統による「反間の計(連環の計を企んだこと)」がつながって敵を陥れる計となっていることを意味します。

【孔明の法術(?)】

 一方万全の戦準備を整えたと信じていた周瑜はあるとき陣営の旗が風でひらめいていることを見て愕然とするのです。
そのショックで重い病気となるほどに。
周瑜を心配した魯粛が孔明に相談すると、周瑜の心の病を治せるといいます。
孔明は寝床で起き上がった周瑜に事前に書いてきた文書を渡します。
そこには、
「曹操を打ち破るには火攻めを元へ用いるべし。万事用意は整ったが、ただひとつ東風が足りぬ」とありました。
つまり、東南に布陣する周瑜軍が西北に位置する曹操軍に火攻めをするためには、東南の風が必要だったのです。
赤壁の大戦が始まろうとしたこの時期は冬となっていました。
冬の時期に赤壁付近で吹く風は西北の風だったのです。
もし曹操軍に火攻めをすれば逆に周瑜軍が自ら放った火で軍船を失ってしまうのです。
周瑜は万事戦支度を整えたと思っていたところ、肝心要の風のことを忘れていたのです。
そのショックで寝込んでしまったのです。

 その周瑜の苦悩を孔明が救うことになります。
孔明がいうのには、その昔「奇門遁甲」という天書を伝授されたことがあり、風を起こし、雨を呼ぶ法術を心得ているというのです。
孔明が東南の風を起こしてみせるというのでした。
そこで周瑜はもし東南の風が吹かなかったら軍令によって処罰するといって、一応孔明にやらせてみることにするのです。

 孔明は魯粛に準備をさせます。
南屏山(なんぺいざん)「七星壇」という台を築いてくれれば、そこで祈願の法術を行うというのです。
「七星壇」というのは星座の北斗七星の形を現した祈祷壇です
しかも、十一月二十日に東南の風を吹かせ、二十二日には風が止むようにするというのです。
さあどうなるでしょうか?

 三日間壇上での祈りが効いたのか、見事東南の風が吹きました。
これに周瑜は跳び上がんばかりに驚ろくと同時に孔明の鬼神のような行いに恐れをいだきました。
そして、孔明の首を切れと部下の呂蒙に指示をだします。

 しかし、すべてを読んでいた孔明は、数日前から迎えに来ていた趙雲の小船に乗って周瑜の魔の手から逃げ延びるのでした。

 これは天文に通じていた孔明が、冬のある時期に東南の風が吹くことを調べて知っていたのです。
おそらく祈願はパフォーマンスの意味が強かったでしょう。
つまり、孔明のほうが広範囲な知識と見識を持っていたので、周瑜を手のひらで転がしたのです。
これも騙したといえば似たようなものかも知れせんね。
孔明は、天文、気象を読んで数日後に東南の風が吹くことを知っていたのですから。

 こうした英雄たちの騙し合いや心理戦などが三国志の面白さをぐっと引き上げています
(実際には、歴史的資料としては孔明が法術で東南の風を吹かせたというものはありません。『三国志演義』の創作だと思われます)

 中国の兵法にあるように、実際の戦闘の前に、外交によって有利な状況を作り出したり、心理戦を仕掛けたり、寝返り工作をしてみたりした最後に実際の決戦を行うのです。
これが尽きない戦乱の中から、たくさんの兵法を生んだ民族の戦の仕方なのです。

 曹操と周瑜では、周瑜に分配があがり。
 周瑜と孔明では孔明に分配があがりました。

 周瑜は、東南の風という心強い味方と共に出陣の合図を発するのでした。

いよいよ赤壁の決戦です。

【今回の教訓】

「はかりごとは(仕事)は、最後の詰めが肝心」

『赤壁大戦編12 ~赤壁大戦【前編】(打ち砕かれた野望)~』

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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