『中原逐鹿編14 ~勝利を導く人材(軍師)~』
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『勝利を導く人材(軍師)』

今回は、勝利を導く人材(軍師)という話をしてみたいと思います。
(中原逐鹿編の最終回です)

【軍師との出会い】

 前回は劉備が貴人(水鏡先生)と出会った話をしました。
今回は、もうひとりの貴人「徐庶」という人物とその出会いについて話したいと思います。

 劉備と徐庶が出会ったエピソードや出来事を比較すると、いくつか違いがありますので、その違いを示しながら話を進めていきます。

初めに徐庶という人物はあまり知られていないので、少し徐庶という人物について述べておきたいと思います。
もともとの名は「福」と言っていたが後に「庶」に変えたようです。
「単」というのは、本来姓ではなく、身分が低い家を表す呼び方であったようです。
徐庶は若い時に学問を好まず剣の腕で遊侠の徒を気取っていました。
いまで言えば不良とか、ツッパリとかでしょうか。
(不良、ツッパリ、死語ですかね?)
そんな時期に友人から仇討ちの代理を頼まれ殺人をしてしまいます。
そこで罪を逃れるために、顔に白い土を塗って髪を振り乱して狂ったように見せかけますが、結局捕縛されます。
黙秘する徐庶は仲間たちに助けだされます。
その体験から、徐庶は遊侠の道から離れ、剣を捨てて学問の道に進み、襄陽の司馬徽(水鏡)のもとに入るのです。
そのとき、特に親しくしていたのが諸葛孔明なのです。(正史「諸葛亮伝」)

まず、共通しているのは劉備が荊州にいる時期に偶然街で徐庶と出会い、的盧(劉備が乗っている馬)が凶馬だと指摘されたエピソードがあります。

 的盧に乗っている劉備を見て徐庶(字は元直)(このときは単福(ぜんふく)と名乗った)は、「この馬は的盧だ。乗ってはいけません。乗り手に災いをもたらします。」と苦言をします。
それを聞いた劉備は、その災いを避けるにはどうすればいいのかと訊きます。
徐庶はそれに答えて、「急いでこの馬を仇(かたき)に譲るのです。そして仇に災いをもたらした後に取り戻せばいいのです。」と言うのです。
徐庶の答えに劉備は怒りを交えて徐庶に、こう言い放ちます。

「己のために人を犠牲にするなど、わたしには死んでも出来ません。」

きっぱりと自身の心情を突きつけたのです。
徐庶は大笑いして「劉玄徳、仁義がある。うわさ通りだ」そう言います。
この後の展開が分かれます。

劉備の仁義のある返答を聞いた徐庶は大地に跪き、実は劉備の人柄を試すためにわざと酷いことを言ったのだ。許して欲しい。
そして、全力で劉備にお仕えしたいと願い出て、劉備に迎い入れられた。
という説と、その時はその場を去り、劉備が檀渓から逃れて水鏡先生のもとに身を寄せたときに偶然再会した、というエピソードがあります。

ちなみに的盧を凶馬と指摘したのは劉備が暗殺計画に巻き込まれる前、檀渓から逃げる前と言われていますから、街中であって凶馬と指摘してすぐに劉備に仕えたとしたら、劉備が暗殺されそうになったことに何の手助けもしなかったとなりますから、後に再会したときに劉備に迎い入れられたと考えるほうが道理にかなっています。

水鏡先生の所に劉備がいるとは知らずに訪ねてきた徐庶は、劉備からぜひ軍師になってくださいと懇願されますが、自分には荷が重いと言って断ろうとします。
しかし、水鏡がそれを取りなします。
師匠の取り成しもあって徐庶は劉備の軍師となります。
これがもうひとつの出会いのエピソードです。

要するに、自分から劉備という人物を試して仕官しようとしたのか、偶然出会って劉備に懇願されるかたちで仕官したのかという違いです。
これによって、徐庶という人物のイメージがだいぶ変ります。

【徐庶対曹仁】

どちらにしても水鏡一門の秀才を幕下に迎い入れた劉備は、徐庶に軍権の全権を任せることにします。

軍権を一任された徐庶は兵の訓練を行います。
まるで自分の手足のように兵を動かす徐庶を見て、劉備は目を見張ります。
軍師という、劉備軍になかった存在を得て心強く思ったことでしょう。

さらに徐庶は、曹操軍の動きを読みます。
その頃、曹操は荊州攻略に乗り出そうとしていたからです。
事実、荊州との国境に近い樊城に曹仁、李典らに三万の軍勢を与えて南方進出の機会をうかがっていました。

徐庶の予想した通り、期せずして曹操軍は劉備のいる新野城を攻めてきました。
しかし、兵の数では劣っていても、よく訓練された軍勢と徐庶の采配(作戦)によって曹操軍を撃破します。
その無様な敗北に怒った曹仁は残りの二万五千の兵を率いて新野へ再び攻撃に打って出ます。
しかし、そのときも徐庶の采配と趙雲などの活躍により、曹操軍は苦戦します。
そこで曹仁は「八門金鎖の陣」という大掛かりな陣形を組みます。

徐庶は、曹仁の敷いた「八門金鎖の陣」の弱点が中央にあることを見破ります。
そこで、攻め方を趙雲に教えたうえで攻撃させ「陣」を崩してしまいます。
さらに崩れた陣に総攻撃を仕掛けて見事勝利を得ます。
曹仁は樊城に逃げ帰ろうとしますが、城門には関羽が待ち構えていました。
すべては徐庶の策略でした。

【程昱の罠】

曹操は、劉備軍の中に「単福(ぜんぷく)」という軍師がいるという情報を掴みます。
ですが、曹操にしても誰もそのような人物を知りません。
しかし、ひとり程昱が単福のことを知っていました。
単福とは仮の名で、徐庶という男であると曹操に告げます。
そのとき、曹操は徐庶という男がどのくらいの人物なのかと程昱に訊きます。
程昱は「わたしの十倍の才があります」と答えました。
それを聞いた曹操は、「まずい」と内心思ったことでしょう。
そのような才覚の持ち主が劉備についていては劉備との戦に苦戦してしまうと。

さらに徐庶には年老いた母親がいて、徐庶は大変親孝行であるとも付け加えます。
そこで、程昱は徐庶の母親を呼び出して、徐庶を曹操のもとへおびき寄せようと画策します。
徐庶の母親が律儀な性格であることを知っていた程昱は、贈り物を何度もします。
そのたびに徐庶の母親はお礼の手紙を書きます。
程昱はその手紙を取っておいて、筆跡を分析して、徐庶の母親の筆跡と思わせる筆使いで手紙を書きます。
もちろん、徐庶を呼び出すためです。

親孝行な徐庶は、劉備に別れを告げて、曹操のいる許都に行きますが、徐庶の母親は、名君劉備のもとを離れて暗愚な曹操のところへどうして来たのか、と叱ります。
不甲斐ない息子に命を懸けて教えるために自分の命を絶ちます。
徐庶は、自身の愚かさに涙します。

【曹操と劉備、対象的な二人】

徐庶は劉備のもとを去るときに、「曹操のためには生涯献策せず」と誓ったと言います。
さらに、「襄陽の二十里離れた隆中に大賢者がいる」と教えます。
そう、その人物こそが諸葛孔明なのです。
こうして徐庶という人物は三国志の物語から姿を消すことになります。

この曹操が徐庶の母親を呼び出して、さらに親孝行な徐庶の心に付け込んで呼び出したエピソードは史実ではない可能性があります。
「正史「諸葛亮伝」」には、荊州の後を継いだ劉ソウが曹操に降伏した後に、南に逃げる劉備に諸葛孔明と共に随行していると記されています。
その後、「当陽の戦い」という合戦で劉備が曹操に敗れたときに、徐庶の母親が曹操に捕まったため、劉備に別れを告げて曹操に降ったとあります。

徐庶は劉備の元を去った後、曹操の死後も曹丕、曹叡に仕え官位を与えられていたようです。
つまり、「曹操のために生涯献策せず」という忠義な徐庶のイメージは作られたものであった可能性が高いということです。
ただ、魏の側でも徐庶をそれほど重く用いていないところを見ると多少は警戒をしていたのかもしれません。
徐庶も劉備を倒すことには手を貸さなかった可能性もあります。
対劉備以外のところで仕事をしていたのかもしれません。

ただ、徐庶が「親孝行」の人であったこと、劉備への「忠」の心があった人であることは間違いないと思います。

劉備としては、苦節二十年、やっと手に入れた知恵者、軍師を手放すことになって、胸を引き裂かれる思いだったことでしょう。
反対に曹操は、「してやったり」です。
劉備から軍師を引き離すことが最大の目的ですから、徐庶がその後どうなろうと、曹操に仕えなくても、とにかく劉備陣営からいなくなれば目的を果たしたと考えたのでしょうから。

曹操の策略に、いつも劉備はやられてしまいます。
だからこそ曹操の策略に対抗するために軍師(参謀)が必要なのに、曹操によって奪われてしまうのですから、非常に残念としかいいようがありません。
徐庶という親孝行の人間性を弱点と見てとって、そこを攻める。
兵法としては実に見事です。

ここが、劉備と曹操の大きな違いなのです。
劉備はそうした策謀、策略を好みません。
仁義を大切にするので、他人の母親を人質になど絶対にしません。
反対に曹操は、相手の弱点と観れば容赦なく落としにかかります。
策謀を弄する曹操仁義を愛する劉備の好対照的な姿が浮き彫りとなっています。

徐庶という人物は、三国志の中で、諸葛孔明の登場前の、このわずかしか登場しません。
三国志を普通に見る限り、徐庶は天才軍師孔明の前座的役割を持って描かれています。
天才軍師孔明をより一層引き立てるために登場している。
そう見えます。

ですから、三国志を知っている方も、あ~徐庶ね!
というような感じしか記憶と印象はないでしょう。

ですが、わたしはこの徐庶という存在が実は、ある意味で三国志の大きな分岐点になったと考えています。

【「武」の力以上に必要な力こそ「文=智」の力】

とにかく、劉備は軍師(知恵者)という役割、存在の大きさをマジマジと感じとったのです。
巨大な勢力と化した曹操に飲み込まれそうないま、軍師の登場が無ければ曹操に敗れてしまうのは必定なのだと、心は急いたことでしょう。

戦において勝利を得るためには、武将の力は必須です。
しかし、それだけでは勝利はつかめません。
「武」の力以上に必要なのが「文」の力、「知恵」なのです。
その知恵を持つ軍師こそが戦の勝利を導き出すのです。
徐庶という軍師を一旦は得て、勝利の味を味わった劉備には、その味は忘れられなくなっていたでしょう。

会社経営にしても、商品開発、営業、経理財務、総務などの各部署の力が揃っていて初めてライバル企業に対抗していけるのです。

徐庶という人物は、三国志の中で登場したと思ったら、線香花火のようにぱっと消えてしまいます。
物語的には天才軍師諸葛孔明が登場するためのつゆ払い役となっています。
徐庶という男の登場と退場によって、孔明の存在がより浮かび上がっているのです。
徐庶が諸葛孔明を別れ際に紹介したエピソードも実は、フィクションのようです。
徐庶を向かい入れた劉備は当然、臥龍と鳳雛のことを徐庶に訊ねています。
そして、孔明を連れてこいと言っています。
(これだと徳ある劉備のイメージが壊れるので、このへんは小説などでは伏せているのでしょう)

徐庶は、それに答えて、「孔明という男は、こちらから行けば会えますが、連れて来ることは出来ません。将軍(劉備のこと)が自ら訪れるのがよろしいでしょう。」と言っています。
劉備から自身と比べてどのような人物なのかと聞かれた徐庶は、「その人物を得るは漢の劉邦が張良を得たのと同じ。駄馬と麒麟ほど違います。それほどの大人物です。」と答えます。
なんと、まあ、大げさな言い方でしょうか。

中国人はものごとを大きく言う癖がありますが、実際の諸葛孔明の業績を見る限り、まさに徐庶の行ったとおりの人物であると言えます。
結局、この進言に従って、徐庶という軍師を失った劉備は、臥龍こと諸葛孔明を訪ねることになるのです。

さあ~、そろそろ天才軍師の登場が近づきました~!

【今回の教訓】

「知恵者の存在こそ、勝利をもたらすキーパーソン」

「策謀を弄するものは勝利を手にし、仁義を愛するものは人心を得る」

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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