『中原逐鹿編12 ~劉備、九死に一生を得る~』
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『劉備、九死に一生を得る』

 今回は、劉備が九死に一生を得た話をしてみたいと思います。

優柔不断な劉表】

 曹操が官渡の戦いの後に河北平定を行っている間、ライバルの劉備は荊州の劉表のもとに身を寄せていました。
その期間は、赤壁の戦いまでの八年間にも及びます。

劉表は漢王室の一族で、劉備とは遠い親戚関係となります。
劉表という人物はドラマや小説などでは凡庸な老人として描かれていますが、実は野心を持っていたのです。
本来皇帝しか行えない「天地を祭る」行為を行ったという記録があるようです。
皇帝にしか許されない行為を行ったというのは、漢王室の権威と実力が衰えたことを示すと同時に、皇帝に変わって統治する意思を示したとも見て取れます。

劉表の部下に韓嵩(かんすう)という人物がいました。
韓嵩は、曹操が官渡の戦いで袁紹とぶつかっているときに、劉表に対して「今のうちに曹操に味方するべきだ」と進言しました。
ですが、劉表は韓嵩の進言を聞き入れませんでした。

劉備もまた同じように劉表に「曹操が烏桓討伐に出かけた留守に、本拠地の許都を攻めよ」と勧めましたが、このときも劉表は腰を上げませんでした。
劉表はこの時のことを、後悔したようですが、後の祭りでした。

【荊州後継者騒動の真相とは?】

ドラマや小説などでは、劉備が荊州の劉表のもとにいるときに、後継者の争いに巻き込まれて暗殺されそうになったと描かれていますが、史実は違っているようです。
ドラマや小説で描かれている劉備暗殺の出来事は、劉表の二人の息子の家督争いに劉備が関わったためとなっています。
劉表には先妻の子の劉キ後妻の子の劉ソウがいました。
長男である劉キは義理をわきまえた善人ですが病弱な面があり、次男の劉ソウは賢くて武勇にも長けていました。
当時の劉家では、後妻の蔡氏の弟(蔡瑁)が権力を握っていました。
つまり荊州の経営に関して、実質上後妻の蔡氏とその一族が大きな権力を握っていたのです。

当然後妻の蔡氏としては、自分の息子を荊州の主に就けたいと思っていました。
蔡氏一族としてもそう願ったでしょうし、劉ソウは強力な蔡氏一族という後ろ盾があるのですから、自分自身も後継者となるはずだと信じていたことでしょう。
ところが、劉表がこの後継者問題で劉備に意見を求めたところ、劉備は「長子を廃して次子を立てるは騒動のもと。長男の劉キを後継者にすべきだ」とアドバイスをするのです。
その話を聞いた後妻の蔡氏が弟の蔡瑁と計って劉備を暗殺しようとした、という筋書きになっています。

しかし、史実はどうも違っているようです。
正史では、劉表は早くから跡継ぎを劉ソウに決めていたと記されていて、そのことで劉備を暗殺しようとしたというのは少し無理があります。
もちろん、劉備が後継者問題で劉表から相談をされたとしたら、長男を後継者にしろと言ったかもしれませんが、そのことだけで暗殺されそうになったのではないようです。

そもそも劉備は八年間も荊州の新野という地に留まっていました。
その八年間もの長い期間荊州に滞在していたのですから、劉表が後継者問題で悩んでいたのなら、ずっと前に劉備に相談し、もっと早い時期に劉備暗殺が実行されていたでしょう。
(ただし、暗殺をするには暗殺のチャンスを待つことも当然あるでしょう)

本当のところは、当時劉表が治めていた荊州では、劉表、蔡氏一族と襄陽という場所を中心とした名士たちとで考え方に対立があったのです。
ですから、劉表は荊州にいる貴重な人材を重用するどころか、自らのもとに集めることさえ出来なかったのです。

正史「先主伝」によると、「荊州の名士や豪傑たちが日ごと劉備に心を寄せていったので、劉表は劉備に疑いを抱き、警戒した」という記述があります。
劉表という人物は、袁紹と同じタイプで名門の出身で野心はあるが、猜疑心の強い人間だったようです。
そのため劉備を登用して自らの配下として勢力拡大をすることも、劉備を信用して地位や必要以上の援助もしなかったのです。
いわば、「飼い殺し」です。
『三国志』「劉表伝」には、「劉備を手厚くもてなしはしたが、任用することはなかった」とあります。)

同じ漢王室の末裔ということで、劉備を庇護しましたが、実際上は劉備のほうが遥かに人望厚い人物であり優れていたため、劉表は劉備を使いこなすとこが出来なかったのでしょう。
それに劉備には、以前徐州に居候したときに太守の陶謙が死んだ際、徐州の人たちから徐州を治めてくれと言われて、徐州の主になったという経歴があります。
ですから高齢な劉表が、自分が死んだ後に後継者争いが起きてその混乱に乗じて襄陽の名士たちと劉備に心を寄せている臣下たちが荊州を劉備に明け渡してしまうのではないかと心配したのでしょう。
せっかく息子に家督を譲ろうとしたのに、劉備に奪われてしまうのではないかと、疑いをつのらせたのでしょう。

【組織の命運を握る後継者問題】

歴史を見る限り、後継者問題というのは腐るほど出てきます。
そして、一代で事業を築き上げても、この後継者の継承で躓くと、せっかく築き上げた事業も国家も失い、果ては一族さえも滅んでしまいます。
ですから、政治であっても事業経営であっても組織の継承という問題は最重要課題なのです。
ここに組織の命運がかかっているのです。

だからこそドラマや小説では、こうした後継者問題の争いという題材にしたのでしょう。
それは時間を越えてもずっと人間が存在し、人間の集団がある以上、必ずついてまわる問題だからです。

おそらく、このまま劉備を荊州に置いておくと、荊州を乗っ取られると疑って、劉表自らが暗躍して劉備を亡き者にしようと企んだのでしょう。
それは曹操が河北平定を成し遂げたことで、切羽詰まった問題となったのです。
河北平定を成し遂げて、袁紹の支配していた広大な領地を手に入れた曹操は名目的にも実質的な力も天下一となっていたからです。
その曹操が次に狙うのは、荊州であることは明らかです。
中国大陸の中原と北方を手中に治めた曹操は、南下していよいよ天下統一を成し遂げようとするはずですから。

【劉備、窮地を脱する】

話を劉備暗殺のことに戻すと、宴会に招かれた劉備に劉表の部下の伊籍が密かに「暗殺計画があるから逃げろ」と教えます。
劉備は脱兎のごとく夜陰に紛れて新野へ逃げ帰ります。

一度は命からがら逃げ延びた劉備でしたが、暗殺の手はもう一度伸びてきます。
それは、年に一度の荊州の祭りに主の劉表が病で出られなくなったため、代理として劉備に荊州の九群の文官武官たちをホスト役として迎えてくれと頼まれるのです。
仁義に厚い劉備は劉表の頼みを断れるはずがありません。
たとえ危険があったとしても行かざるを得ない、そう考えたのです。
ただし、一度暗殺されそうになっていますから趙雲(子竜)を警護役として五百の兵と共に行くことにします。
しかし、やっぱり命を狙われます。
そして、今回も伊籍が危機を知られてくれました。

伊籍という人物も劉備に会って、劉備の人徳に惹かれて惚れてしまい、劉備を助けたいと思って手を差し伸べたのでしょう。
伊籍は、蔡瑁などの蔡氏一族の専横を良しとしない人物だったのです。

劉備は厠へ行くと言ってこっそりと逃げ出します。
そのときに乗って逃げた馬が、以前伊籍から「主に災いをもたらす凶馬の的盧(てきろ)という馬だから、この馬に乗るのはやめたほうがいい」といいと言われていた馬でした。
しかし、そのときの劉備は「馬ごときに自分の生死を決めることなど出来ない」と突っぱねました。

ともかく劉備は必死に逃げます
護衛役の趙雲を置いて単騎で逃げるほど慌てていました。

古来、危機のときに逃げることが下手な人物が天下を取ることは少ないので、いまが危機を悟ったら対面など脱ぎ捨てて退却することも必要なのです。
日本では、浅井朝倉連合軍に追われた信長も、信玄に打ち負かされた家康も逃げてそのあと天下を手中に治めました。

必死に手綱を握る劉備に、蔡瑁率いる騎兵が迫ります。
襄陽城の西に向かった劉備でしたが、檀渓と呼ばれる断崖絶壁に挟まれた急流に行きついてしまいます。
追手はすぐそこまで迫っています。
迷っている暇はありません。
劉備は、馬の腹を強く蹴ります。
川の流れに流されそうになりながら、劉備は手綱を決して放しません。
的盧も必死に流れに逆らって対岸へ進もうとしますが、水の抵抗にあって思うように進めません。
そのとき劉備は「的盧よ、努力せよ」と声を掛けます。
すると、的盧は7メートル(3丈)も跳びあがり、追手を交わしたのです。

そのことが「先主伝」に書かれています。
危うきかな、劉備。

【運は“徳”より生じる】

古来英雄たちには、こうした災難に合った時に天の助けともいうべきことが起こっています。
また、別の観点から言えば、「運」を味方につけるのも実力のうちということです。

もしかしたら、的盧は主人を助けようと火事場の馬鹿力を出したのかもしれませんね!
とにかく九死に一生を得た劉備は天に感謝したことでしょう。

人生というものを考えると、ときおりこの「運」というのも大事となってきます。

「運」があれば貴人と出逢い、「運」があれば道も拓ける

劉備を見ていると、その「運」を招き寄せるのは、普段からの努力や行い、そしてその人自身の人徳のような気がします。

【今回の教訓】

「ビジネスにおいても、戦においても、危機の時は潔く退却戦をすることが大事」

「体面、プライドなどにこだわっていると、退却できずに敗北を味わうことになる」

『中原逐鹿編13 ~災い転じて福となる~』

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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