
『災い転じて福となる』
今回は、劉備が災い転じて福と成した貴人との出会いという話をしてみたいと思います。
【劉備、貴人と出会う】
前回は荊州の劉表の部下である蔡瑁という人物に暗殺されそうになった劉備が的盧(てきろ)という馬に乗って激流を渡って逃げた話をしました。
今回は、暗殺の危機という災いから九死に一生を得た劉備が、貴人と出会う話をします。
趙雲ともはぐれ、ずぶ濡れになりながらひとりとなった劉備がどうしたか?
泥にまみれ川の水でずぶ濡れになりながら竹林をとぼとぼと進んでいたところ、琴の音色に導かれるように音のするほうへ行ってみるのです。
すると、そこで劉備は貴人との出会いをすることになります。
注)「貴人」とは、その人と出逢うことで運命が拓けていくような人物のことです。
劉備が出会った人物は、襄陽の地で水鏡先生と呼ばれている老人でした。
その水鏡は、泥が付き、まだ乾かぬ着物のままの姿を見て、劉備が難にあったことを見抜くのです。

【荊州は学問の中心地】
ここで、当時の荊州の事情をお話します。
荊州の牧である劉表が覇権争いから距離を置いて戦を避けていたため、乱世の時代のなかにあって荊州は束の間の平安を享受していました。
それによって学識ある人物や名士たちが荊州の地に集まっていました。
さらに、劉表は彼らのために学校を設けて優遇しています。
当時の荊州は、学問・文芸の一大中心地となっていたのです。
荊州の名士たちは、国家の運営や時局の要務など、学問を単なる学問に終わらせることなく、より実践的な学問とするべく研究していた人たちなのです。
その荊州文化人の中でも、龐徳公と司馬徽(しばき)の二人が名士たちのリーダー的存在だったのです。
司馬徽こそ、劉備の出会った水鏡なのです。
その水鏡の門下に、三国志の天才軍師と呼ばれる諸葛亮(孔明)と龐統、徐庶などがいたのです。
【水鏡の指南】
劉備は水鏡に食事を与えられ、一宿の恩を与えられますが、そこで劉備が難を逃れた檀渓という場所の話をされました。
その場所は、漢の王朝よりずっと昔に楚の項羽が秦の三十万の投降兵を殺した地であり、切られた兵士の首で山ができたほどの惨状が起きた場所だったと告げられます。
そうした、兵士たちの恨みが籠っている場所なので、ほとんどの人がそこで命を落としているのだとも言われます。
なのに、劉備は的盧の活躍で難を逃れたことから、「なんと運がいいことよ」と劉備の強運に驚きます。
そこで水鏡は、劉備になぜ大志を抱いていてもなかなか思うようにいかないのかという理由をコンコンと諭すのです。
水鏡は言います。
「天高く昇ろうとすれば、左右の翼が必要です。左右の翼とは文武の両雄なのだ。」
「劉備殿には、文の力が弱い。」
「配下には関羽、張飛、趙雲などの一騎当千の武将がいるが、孫乾、ビ芳などには経世済民の才はない。」
「つまり今の劉備殿には、片翼しかないのです。」
「劉備殿に必要なのは、天下を俯瞰する目を持ち、攻略を立てられる軍師なのです。」
そのことは劉備自身も薄々自覚していたことでした。
そこで劉備は、そのような軍師はどうすれば得られるのかと水鏡に尋ねます。
水鏡は答えて言います。
「臥龍か鳳雛のどちらかを得られれば天下を取れます。」

水鏡から天下を取れる逸材の二人の名をあげられ、劉備は、その人物たちのことを教えてくれと頼みます。
それに対して、水鏡は笑っただけで、臥龍と鳳雛の実名も居場所も教えませんでした。
なんと、憎いじゃありませんか!
そこまで、アドバイスをしておきながら出し惜しみする。
水鏡という人物もなかなか食えぬ男ですな~!
【英雄の影に英雄あり】
ただ、この水鏡という老人は清廉で温和な性格で人物を見分ける鑑識眼を持っていることで知られていた人物だったのです。
水鏡という「号」をつけたのは、水鏡、徐庶、孔明などが所属する襄陽の学識グループの龐徳公という人物で、この龐徳という人物を水鏡(司馬徽)は兄のように慕っていたのです。
歳は龐徳のほうが十歳くらい年上だったようです。
龐徳とは、後に劉備に仕えることになる龐統(鳳雛)の叔父にあたる人物で、龐徳の息子の龐三民が諸葛亮(臥龍)の姉を嫁にしているなど、彼らは名士たちの強い繋がりを持っていました。
つまり、諸葛亮(孔明)と龐徳も親戚関係にあたるのです。
ちなみに、諸葛亮を臥龍、龐統を鳳雛と名付けたのも龐徳という人物です。
注)「臥龍とは、いまは深い淵に身を沈めているが、いずれは天に昇る龍のこと。(臥龍という呼び方のほかに伏龍という呼び方もあります。意味は同じです。)
「鳳雛とは、鳳凰となるべき資質を備えた雛鳥のこと。」
いずれもいまは無名だがいずれ世に出る大人物という意味です。
いつの時代にもこうした隠れた英雄と呼べる人物が存在するものです。
龐徳、司馬徽(水鏡)などの見識豊かで天下の経世を語る人物たちがいて、人材を育てたからこそ諸葛亮、龐統、徐庶などもその才能を伸ばすことが出来たのでしょう。
日本の幕末に、長州藩の吉田松陰が松下村塾という私塾を開いて、維新を起こす若者を育てたことと同じです。
松陰自身は維新の大業も建国の偉業も成してはいませんが、その土台となり、大業を成す人物を生み出す役割をしたのです。
歴史を見る限り、いつの時代も英雄が登場する影には、英雄を生す産婆役の人物たちが存在するのです。
わたしはこうした人物たちも立派な英雄たちであると思っています。
【災い転じて福となる】
なぜ、このとき水鏡が臥龍と鳳雛の名を明かさなかったのか?
歴史の不思議だと思いませんか。
劉備を助けるつもりがあるのなら実名と居場所を教えてあげればいいものを。
(史実ではない可能性があります)
考えてみるに、そう安々と教えてあげることが出来ないほどの才能を持った人物だということを劉備に分からせようとしたのではないでしょうか。
また、劉備が大業を成すのに自らの足りない部分を深く認識しているならば、出会いは必定なのだと信じていたのではないでしょうか。
また、劉備がそう言った天下の逸材を本気で真剣に求めているのかを試したかったのかもしれません。
なにせ、臥龍と鳳雛は水鏡の愛弟子であり襄陽グループの逸材中の逸材なのですから。
自分の可愛い愛弟子を安売りはしないという気持ちなのかもしれません。
水鏡は言います。
「時期が来なければ運は拓けない。すべては時期がくれば運が拓けます。急いてはいけません。」

その後、劉備は水鏡の弟子である徐庶(変名単福(ぜんふく))と出会うのです。
この出会いが劉備陣営にもたらした影響は大きいです。
曹操にしても、官渡の戦いに敗れた袁紹にしてもみな配下に参謀、軍師を複数抱えています。
参謀、軍師を抱えていないのは劉備くらいのものです。
そうです、劉備が天下に昇っていけなかったのも智謀を持つ人物が欠けていたからなのです。
乱世に限らず、智謀を持つ知恵者の存在は重要なのです。
とくに乱世とは先の読めない時代です。
昨日までの覇者が今日は破れ、今日の覇者が明日は敗者と成りうるのが乱世というものです。
そうした激動の世の中を泳ぎ渡っていくには知恵者の存在が欠かせません。
運命とは不思議なものです。
宿敵曹操に敗れて、荊州の地に流れてきた。
居候の身の上を嘆いていたら暗殺の危機にあって命からがら逃げ延びた。
そうした災いが起きたからこそ、荊州の地で貴人たちとの運命的な出会いが訪れたのですから。
水鏡との出会いによって軍師の必要性を強く感じた劉備は、徐庶という軍師に出会うことになるのです。
その話は次回といたします。
【今回の教訓】
「運命を切り拓きたいなら、貴人との出会いを強く願うこと」
「貴人との出会いによって、災いが福となる」
「ビジネスの成功も結局は人との出会いが肝心」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。