【孫堅究極のアイテムを手にする】
孫堅が焼け野原となった洛陽の古井戸の底から『伝国璽』を発見し、のちに袁術がそれを手に入れて皇帝を称したという逸話が三国志にはある。
(この逸話の出典は『呉書』と『演義』)
『伝国璽』とは、皇帝用の印鑑で玉璽(ぎょくじ)ともいう。
伝国璽を作ったのは秦の始皇帝。
霊鳥の巣から見つけた宝を加工したともとされている。
「受命干天既寿永昌(天において命を受け寿(いのち)をまっとうし永(とわ)に昌(さか)えん)」
と刻まれている。
中国の歴代王朝に代々受け継がれ、伝国璽をもっていることが皇帝の証となっていた。
孫堅軍が荒れ果てた洛陽に入城したときのこと。
井戸の底から官女の死骸を引き上げた。
官女は高貴な女性のようで、いでたちも立派なうえに死に顔も美しい。
細い首に錦の袋を掛けていたので、孫堅がその袋を外して中を改めてみたところ、金の鎖で固く結んだ小箱が入っていた。
蓋を開けてみると、純金で枠をとった美しい硬玉の印鑑があり、古い書体で上記の8文字が刻まれていた。
伝国璽は漢の王朝の始祖劉邦依頼、数百年間伝えられてきた大漢国皇帝の証であり象徴であった。
伝国璽を持つ者こそが王朝の継承者たることを意味しているため、青年孫堅の胸は震えたことだろう。
孫堅は、発見の場に居合わせた副官や兵士たちに固く口止めすると、直ちに全部隊に出動準備を命じた。
翌日、総司令部の袁紹に具合が悪くなったことを理由に、国もとに返って養生すると告げる。
しかし、伝国璽のことはすでに周知の事実となっていた。
袁紹は、「具合が悪いのは体の方ではなく心の方ではないか? 貴殿は伝国の玉璽を独り占めしようとして悩んでいるのだろう?」
と鋭い指摘をする。
顔面蒼白となった孫堅だったが、それでもシラを切り通す。
その様子に袁紹は幕僚に命じて一人の兵士を連れてこさせた。
その兵士とは、昨夜井戸をさらった“あの兵士”だった。
すると孫堅は、腰の大刀を引き抜くと早業で兵士を切り殺した。
居合わせた人たちは総立ちになる。
孫堅の暴挙に袁紹も腰の剣を抜き、孫堅に詰め寄る。
しかし、袁紹の幕僚たちが中に入って袁紹を押しとどめた。
彼らは孫堅の武芸の腕前をよく知っていたので、袁紹では歯が立たないことが分かっていたからだ。
孫堅は、捨て台詞を残すと、肩を怒らせて退席し、その日のうちに手勢を率いて国もとへ引きあげていった。
この時代の中国では、玉璽はもっとも権威あるステータスシンボルであり、呪縛力に等しい力を持っていた。
これは日本でいえば「三種の神器」が天皇の皇位継承の証とされていることと同じである。
名家の出の袁紹が玉璽を欲しがらないわけがない。
孫堅が伝国璽を持ち去ったエピソードから読み取れることは、孫堅には天下を狙う野心があったということだ。
孫堅は呉国出身の兵士たちからなる部隊を引き連れて一路呉国へ向かったが、袁紹は孫堅を見逃さなかった。
正確には孫堅ではなく伝国璽が狙いだった。
袁紹は、各地の県令や守備司令官に、孫堅が伝国璽を奪って逃げたから見つけ出し逮捕せよと命令を出した。
孫堅は破竹の勢いで河南平野を南下し、潁川、南陽、樊城などの県城をことごとく抜いて、難なく荊州に達した。
荊州を攻め落とせば長江はすぐそばである。
長江を渡れば孫家の支配する領土となる。
そこまでくれば袁紹も簡単に手は出せないと、孫堅は踏んでいたのだろう。
しかし、荊州では劉表が抵抗線を張っていた。
武勇に自信のある孫堅は、「あの老いぼれが・・・」と吐き捨てて、軍勢の先頭に立って一気に敵の本拠地(荊州の)である襄陽を取り囲んだ。
襄陽では劉表が作戦会議を開いていた。
そこで軍師の呂公がこう言った。
「孫堅は確かに強い。しかも兵法に通じ、用兵に長けています。だが、猪突猛進するタイプで、思慮に欠けるのが欠点です。深く誘い込み、単騎になったところで伏兵をもって一斉に襲いかかれば、いかに強くても多勢に無勢、必ず討ち取れます」と。
劉表は呂公の進言を受け入れ、弓矢に巧みな狙撃手を選りすぐって呂公の指揮下に入れた。
呂公は夜陰にまぎれて、城外の山中に狙撃兵を待機させ、夜が明けると数百の騎馬隊を引き連れて孫堅の陣に出撃した。
孫堅はその報を聞くや愛馬にまたがり先頭切って駆けだした。
呂公は、一目散に逃げた。
背を向けて敗走する呂公を追う孫堅は、まさに江東の虎。
しかし、孫堅が気づいて見ると見晴らしの利かない雑木林に足を踏み入れていた。
そこへ潜んでいた複数の弓矢隊が至近距離から雨あられと矢を射た。
いくら武芸に優れた孫堅でもどうしようもなく落馬し息絶えた。
若き英雄孫堅はこのとき37歳であった。
(別の説もあります)
【孫堅の欠点】
若くして反乱鎮圧に立ち上がり武勇を持って出世していった孫堅は、ケンカや戦闘にはめっぽう強いが人づきあいの面では孤立していた。
これが意味するものは、外交戦略の欠落である。
勇者にありがちな欠点が、「己の強さばかり頼りとし、他の力と結びつくことによってさらに強くなることを逃してしまう」という点である。
どんなに武芸に優れようとも、武芸だけを頼りとして天下を取った者はいない。
必ず大勢の集団の力を引き出し、または集団を強化・拡大することによって強敵を倒し、天下を取るのである。
そこにリーダーシップが存在する意味がでる。
孫堅は己の武芸(武勇)に頼り過ぎたのだ。
武芸に優れていたがゆえに、己の力を過信し、もっと大きな組織力を発揮するリーダーシップに目覚めなかった。
それが、孫堅の欠点である。
孫堅に限ったことではないが、欠点とは、長所の裏返しなのだ。
よって大きな長所があるということは、実はそれを裏返したときに大きな欠点となり得るということを意味している。
【個人的感想】
個人的には、孫堅が生き延びて、曹操の魏、劉備の蜀、そして孫堅の呉の三国時代であったならば、三国志はどうなったであろうか、ということは実に興味が尽きない。
もし、孫堅が生き延びてそのまま呉を統治していたら、蜀呉同盟はあったのか? 赤壁の戦いは起きたのか? 魏王朝は成立したのか?
など興味は尽きない。
ただ、残念なことは孫堅と曹操、孫堅と劉備の接触に関する歴史上の資料が非常に少ないことである。
それでも、あえて私見を展開すれば、勇猛果敢な孫堅に漢王室に対する忠誠心があれば、積極的に曹操と戦った可能性が高いということ。
息子の孫権は日和見的な戦略を取ったが、父の孫堅ならば、積極的に魏に侵攻または敵対した可能性が高いと考える。
伝国璽に執着したということは、孫堅にはみずから皇帝を名乗る天下統一の野望があったと見るのが筋であろう。
だが、それこそが孫堅という男の限界であり、悲運の最期を招いてしまった原因でもある。
時代が多きく変化する動乱期に、過去の伝統や遺物などに執着することは時代を切り開く英雄の考えることではない。
新しい価値や秩序を生み出してこそ、天下を取る英雄となれるのだ。
孫堅という漢(おとこ)の宿敵は、一に董卓、二に袁紹である。
董卓無き後に起こる袁紹対曹操の決戦(官渡の戦い)に、孫堅が参加するならば曹操軍であっただろう。
そうなると、孫堅軍は曹操に飲み込まれた可能性が出てくる。
万が一、孫堅が曹操と手を結び呉の領地の安堵を条件に曹操と手を結んだシナリオが展開した場合、赤壁の戦いは起こり得ず、劉備の蜀漢建国は成し得なかった可能性が高いと見る。
孫堅は三国志の時代の初期に武勇を持って活躍した人物だが、彼に関する資料が少ないことが非常に残念である。
よって、孫堅の実像に迫ることは難しい。
孫堅の不慮の死と息子孫権の登場は神仕組みであり、歴史の帰結だったのかもしれない。
【孫堅に学ぶ教訓】
猪突猛進のタイプのリーダーは、最終的に大きな成功をおさめられないのが歴史の教訓である。
『勇猛果敢だけを頼りとする(過信する)リーダーは、最終的な勝者にはなれない』
『戦いに勝利するためには、勇と智の両輪が必要である』
最後までお読みいただき、ありがとうございました。