『関羽対曹操・孫権同盟軍』
前回は、漢中攻防戦における曹操と楊修の話をしました。
今回は、関羽対曹操・孫権同盟軍という話をしてみたいと思います。
【劉備、漢中王となる】
曹操が漢中を捨てて長安に逃げ延びたことを確認すると、劉備は軍勢を率いて漢中に入りました。
するとそれまで曹操側について戦っていた漢中各地の武将たちは劉備の前に次々と投降します。
領民たちは劉備の名前を聞いて喜びにわき三日三晩飲めや踊れやで歓喜したといいます。
この時期に孔明をはじめとする蜀の臣下の間で、劉備に帝位についてほしいという要望が出ています。
それは皇族でもない曹操が魏王に就いたことに対抗してのことです。
(帝位、つまり皇帝)
しかし、劉備はさすがに躊躇します。
それはそうです。後漢の献帝がまだ存在しているのですから。
そこで劉備は「漢中王」を名乗ることにします。
後追いですが、献帝から漢中王に任じるという正式な任命を受けています。
建安24年(219年)の出来事です。
【司馬懿(仲達)の入れ知恵】
この頃の劉備はまさに人生の絶頂期です。
益州と荊州を支配し、魏の曹操、呉の孫権と並び立つ存在となったのです。
ここまでは隆中で孔明を訪ねて天下三分の計を授けられた通りの筋書きで運んでいます。
いよいよ中原の曹操を討ち、漢王室の再興を成し遂げることが現実として目の前に見えた。
そうした思いで劉備はいたことでしょう。
逆に曹操は焦ります。
しかし、この時曹操に孫権と同盟を結ぶという知恵を吹き込んだ人物がいたのです。
その人物とは司馬懿(字 仲達)です。
仲達は曹丕の教育係を足掛かりとして魏において台頭しつつあった人物です。
仲達が曹操に進言したことは、呉の孫権と同盟を結び、北と南から関羽を挟み撃ちにする戦略でした。
えっ? 呉の孫権は蜀の劉備と同盟を結んでいたのでは?
と思う方もいると思いますが、劉備と孫権の間は微妙なバランスのもとで同盟関係を結んでいただけだったのです。
すでに孫権の妹は取り返しています。
孫権とすれば、なんだかんだと言い訳をして荊州を返還しないことに業を煮やしていたのです。
以前から孫権は荊州を手に入れたくて仕方がなかったのです。
ですから、孫権は曹操の提案を受け入れて荊州を実力で奪う行動に出ようと決断したのです。
そこで孫権は関羽のもとへ使者を送り、荊州の様子を探ることにしました。
(関羽が樊城へ攻める前のことです)
使者として関羽のもとを訪ねたのは諸葛瑾(字 子瑜)で、諸葛孔明の実兄です。
孫権は常々「私と子瑜は生死を越えて変わらぬ誓いを結んでいる」と周囲に漏らすほど信頼していた人物なのです。
劉備に諸葛亮あり、孫権に諸葛瑾あり。
おのおの仕えた主君に絶大な信頼を得ています。
不思議な感じです。
諸葛瑾がこのとき関羽のもとを訪れたのは、縁談の話をもってきたからなのです。
孫権の息子に関羽の娘を嫁がせるという縁談です。
しかし、関羽はこの話に激怒します。
関羽がこのとき諸葛瑾になんと言ったか?
それは「呉の世継ぎなど犬コロ同然だ。野良犬に虎の娘はやれん」
「きさまが軍師の兄でなければ、ここで叩き斬っているところだ。命が惜しければとっとと帰れ!」
と、いまにも斬りかかると思われるほどの怒りを示し怒号を浴びせました。
報告を聞いた孫権は怒り心頭に達します。
【忠臣龐徳の最後】
漢中の戦いで曹操軍を打ち破った劉備は、曹操打倒の一手をさらに打ちます。
荊州に駐屯する関羽を北上させて、荊州北部の曹操陣営の領土に侵攻させたのです。
一説には、関羽の独断による暴走と伝えられえていますが、実際は蜀の劉備から指示があったものと思われます。
関羽は漢中で劉備本体が曹操との直接対決に勝利した勢いにのるために、曹仁の守る樊城攻略に打って出たのです。
関羽率いる荊州軍と曹仁率いる曹操軍は襄陽の郊外で激突しました。
しかし、関羽のあまりの強さに曹仁の軍勢は総崩れとなり、命からがら樊城へ逃げ帰ります。
関羽は息子関平を引き連れて軍船に乗り、樊城を落すべく曹仁を追い駆けます。
曹仁の守る樊城が関羽の軍勢に取り囲まれて落城寸前だという知らせを受けて、曹操は慌てます。
急ぎ援軍を送らなければなりません。
漢中の戦いで敗戦し自信を失っていた武将たちは、豪傑関羽と進んで立ち向かおうとする者はいませんでした。
そこへ龐徳が名乗りでたのです。
龐徳はもともと馬超の部下でしたが、曹操に命を助けられ、曹操の臣下となっていた人物です。
名乗りを上げた龐徳を疑う魏の武将たちもいましたが、龐徳の曹操への忠義が篤いことを感じた曹操は龐徳を信じて送り出します。
龐徳は、この出陣に際して自らが入る棺桶を作らせ、わざわざ戦場まで棺桶を運ばせました。
それは関羽との戦に命をかけるという強い意志の表れであり、負けたときは生きて戻らぬという固い決意でもあります。
関羽と刃を交えた龐徳は優勢となりましたが、大将の于禁の撤退命令により関羽を打ち取ることは出来ませんでした。
于禁はよそ者の龐徳に手柄を立てられるのを恐れて龐徳の邪魔をしたのです。
さらに于禁は軍を樊城の北十里の麓に陣を張り、龐徳に命じて谷の奥に移動させ龐徳が手柄を立てないように布陣するのです。
谷間に布陣した于禁を見て取った関羽は一計を考え突きます。
季節は秋で雨が何日も降り続きます。
そこで関羽は川の上流を堰き止めて、十分水量が溜まったところで一気に堰を切って于禁の陣を水攻めにします。
兵士のほとんどを失い于禁は関羽に囚われます。
龐徳は最後まで抵抗しますが、力及ばず関羽に捕まります。
関羽は龐徳を惜しんで劉備に仕えるように諭しますが、龐徳は曹操への忠義心を断固として曲げません。
仕方なく関羽は龐徳の首を斬ります。
こうして曹操の援軍を撃退した関羽は勢いに乗って曹仁が籠る樊城へ向かったのです。
【三者の思惑】
曹操は、孫権を動かそうとして画策し、孫権は先に曹操に戦を仕掛けさせようとする。
お互い相手の駒を先に使わせようと企むところは、やっぱり乱世のリーダーなんだなぁ~と思います。
結局、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備の三者の間で本当にパートナーシップを築いた同盟を結ぶことは不可能だったのだと思います。
三者の思惑は一致しないからです。
ですから、時には結び、時には離れ、お互いを牽制しあい、自身の勢力を拡大することを最優先する姿勢でしかなかったのです。
『今回の教訓』
龐徳と于禁の例に見られるように、敵というものは外にあるものとは限らないと言えます。戦う相手は自分の前方にありと思って前ばかりみていると、背後からブスリと刺される。
足をすくわれる。
そうしたことがあるのです。
それと己の利害ばかり優先した同盟は蜃気楼のように儚いものです。
一時のその場しのぎにしか過ぎません。
先を見つめた戦略とはなりません。
(これは特に孫権に言いたい)
関羽のように他人を悪し様に罵る言動はいつか自分自身に災いとして降りかかる。
「敵は外にばかりあらず、内にあり」
「利害最優先から生まれた結びつきは、もろく崩れるのも早い」
「傲慢さに気がつかずに、人を罵る悪行をする者は、いつかその報いを受ける」
お最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。