『英雄帰天編15 ~曹操と楊修。出しゃばりと非情さ~』
Pocket

『曹操と楊修。出しゃばりと非情さ』 

前回は、漢中攻防戦の話をしました。
今回は、漢中攻防戦における曹操と楊修の話をしてみたいと思います。

【ことわざとなった『鶏肋』のエピソード】

 話を少し戻します。
劉備と曹操が漢中を巡って戦っているときのことです。
すでに陽平関を奪われ定軍山で夏侯淵が討たれてしまい、曹操軍が劣勢となっていたときのことです。

 陣で食事を取る曹操に鶏料理が運ばれてきました。
曹操は、鶏肉の中に混じっているあばら骨を見て、ふと、こう漏らします。

「鶏肋は食べようとしても肉はない。しかし捨てるには味がある。進にも進めず、退くにも退けない今のわたしのようだ」と。

 そこへ伝令役の兵士が今夜の合言葉を聞きにやってきました。
(合言葉は、夜襲やスパイに備えて味方同士であることを確認し合うために随時変更していた)
戦況の進退窮まったことに、その晩の曹操はどうしたらいいものかと心ここにあらずの状態でした。
曹操は兵士が合言葉を聞きにきたのに、それに気持ちが向いていなくて、思わず独り言のように「鶏肋か…」とつぶやきました。
兵士は曹操が何気なくつぶやいた「鶏肋」という言葉を合言葉だと思って番兵たちに伝えてしまいました。
「鶏肋」という言葉は、番兵から番兵へと伝わり、やがて重臣である楊修の耳に入りました。

 楊修という男は、文官で曹植を跡継ぎにしようと画策した人物でした。
名門の出自で優秀であったと言われています。

 楊修は番兵から今宵の合言葉が「鶏肋」だと聞いて、曹操の考えを察します。
さらに察するだけに留まらず、兵たちに引き揚げの準備をするように指示をだします。

 ところが、兵士たちが荷物をまとめ始めているということを知った曹操は驚きます。
誰が勝手な指示を出したのかと怒りを露わにします。
その指示を出したのは楊修だとわかると、曹操は揚修を問いただします。
すると楊修は白っとして、魏王さまのお言葉に従ったのだと言います。
それは今宵の合言葉である「鶏肋」です。
即ち、肉を食べるにも肉はなく、捨てるには味があって惜しい、進むに進めず、退くに退けない魏王さまの心境を述べた言葉だと理解したというのです。

 つまり、揚修は、いつまでもここに止まり無益な戦いをしても仕方がないと曹操が考えて、そういった意味を込めて合言葉を出したと思い、先手を打って帰り支度をしたのです。

 楊修とすれば、己の賢さを示し、曹操への気配りと考えてのことだったのです。
しかし、楊修の言葉を聞いた曹操は、腹の底から激しい怒りがこみ上げてくるのを感じたのです。
実は曹操は、日頃から出過ぎた態度を取る楊修の態度が目に余り以前から反感を持っていたからなのです。

 確かに如何に曹操の心境を察したと言っても、魏王となった曹操から正式な指示が出ていないにも関わらず、撤退指示が軍中に行き渡ってしまうということは、魏王としての曹操の立場が無視されたことになります。
少し強い言い方をすれば、越権行為ということになります。

【楊修の出過ぎた行為】

 こうした楊修の出過ぎた行動は以前にもあったのです。
ある時、曹操が新しい庭を造らせたことがありました。
庭が完成し曹操が視察をすると、曹操は良いとも悪いとも言わず、門に「活」という文字を書いて立ち去ったことがありました。
曹操が書き残した文字の意味を理解できる人は誰もいませんでした。
ただ一人を除いて。
誰も分からなかった曹操のメッセージを楊修は解き明かします。

 「活」の字を「門」で囲めば「闊(ひろし)」という文字になる。
つまり、門が広すぎると言いたかったのだと、解析したのです。
楊修の言葉に従って門は造り変えられました。
改修された庭を観た曹操は「素晴らしい庭だ」と褒め、誰が門に記した謎を解いたのかと訊ねました。
それが楊修だと聞かされた曹操は、お気に入りの庭が出来たことを喜ぶと同時に、自分の気持ちを見透かされている気がして不快な思いをしたのです。

 同じような出来事が他にもありました。
それは曹操が跡継ぎを決めようと思い、曹丕と曹植の力を試そうとしたことがありました。
曹操は、二人の息子を呼んで城門から出るように命じました。
そう命じる一方で曹操は、二人が来ても絶対に門から出してはならないと門番に命じていました。
まぁ~いじわるですね。
曹操とすれば、二人の力量を試し、どちらが後継者にふさわしいかを見てやろうと思ったのでしょう。

 結果がどうなったかというと、曹丕は門番に断られて大人しく引き揚げてしまいました。
一方曹植は門番を叩き斬って門から出たのです。
曹操が曹植を呼んで理由を問い質すと、魏王の命令で門から出ようとしているのだから、それを阻む者がいれば叩き斬るのは当然だ、ということなのです。
曹操は、曹植の言葉に頼もしく思い大いに喜びました。
ところが、それが楊修の入れ知恵だと知ることになるのです。

 さらに曹操が軍事国事について質問をしたときに曹植がスラスラと解答出来たのは、楊修が模範解答を作成し、事前に曹植に教えていたからであることが判明したのです。

 つまり、楊修は曹植を跡継ぎにすることに協力することで、己の英達を望んだのです。
曹操から見ればそれは、自分の地位のために曹植を利用していると見えたのです。
曹操は、こうした楊修の出過ぎた行為、己の才能を鼻にかける振る舞いに腹を立てていたのです。
こうした経緯があったことの上に「鶏肋」の出来過ぎた行為が重なったのです。

【部下の出しゃばりと大将の非情さ】

 劉備との漢中戦においても進退窮まっていることは事実ですが、これまで幾度もそうした経験をしてきました。
袁紹と争った官渡の戦いでは、負けて逃げようと思うほど追い詰められたことがありました。
赤壁では、孫権と劉備の連合軍に惨敗を味わっています。
それでも曹操は諦めずに立ち上がってきました。
そうした大将としての心境まで楊修が理解していたかというと、そこまでは分かっていなかったというのが本当のところだと思います。
楊修はただ「鶏肋」ということだけを回転の速い頭脳で読み取っただけだったのです。

 過去の経緯もあり、曹操は楊修を許すことが出来なくなりました。
楊修は首を斬られて、34歳の若さでこの世を去りました。
自らの才能が仇となってしまったのです。

 ここに曹操という人物を知る手がかりがあります。
曹操という男は、これと見込んだ人材ならばたとえ無名の者でも登用します。
それが曹操の優れたところです。
しかし、曹操に歯向かうもの、曹操の考えや意見と対立するものを許さない冷酷な性格をあわせ持っています。
才能あると見込んだ者でも、自分に従わないと思えば簡単に見捨ててしまう非常さを持った男なのです。
事実、荀彧も同じ目にあっています。

 曹操は怒りに任せて楊修を斬ったのですが、その後戦局を打開しようと劉備軍に挑みますが、孔明の知略を駆使した戦術の前に敗れます。
命の危険を感じて敗走するほどの惨敗をしてしまいます。
そのとき曹操の脳裏にはある男の言葉が浮かびました。

「いつまでもここに止まり、無益な戦いをしても仕方がないという魏王さまのお気持ちを察して荷物をまとめたのです」

そう、楊修の言葉です。
曹操は、あの時楊修が言った言葉をもっと真剣に受け止めておくべきだったと後悔したのです。
こうして漢中の戦いに敗れた曹操は許都に引き上げて行ったのです。

 楊修のように頭の回転が速く才能のある人が気を付けなければならないことと、曹操のように権力を手にした者が注意しなければならない教訓が今回の事例には含んでいます。

 似たような事例が日本の戦国時代にあります。
中国攻めをしていた豊臣秀吉の元に明智光秀謀反の知らせが入ったときに、軍師の黒田官兵衛が「殿、これでご武運が開けましたぞ」と耳打ちして、それから秀吉に警戒されてしまったということがあります。
秀吉の心を見透かした官兵衛を恐れて以後片時もそばから放さなかった官兵衛を遠ざけるようになりました。

「出る杭は打たれる」というのは日本だけではないようです。
ときには「能ある鷹は爪を隠す」が必要だということです。

『今回の教訓』

楊修に学ぶ。

上司の性格を良く理解して行動する。
出過ぎた杭は打たれると心得る。
己の才能を鼻にかけて、出しゃばりすぎると嫌われる。

曹操に学ぶ。

権力に胡坐をかいてうぬぼれていると正論が耳に入らなくなる。
才能を愛したならば、その才能に嫉妬したり怒るのではなく、才能を有効に生かすことを考えるのが優れたリーダーである。

「才ある者は、少し爪を隠すくらいがちょうどいい。」

「部下の“耳に痛い発言”と部下の“悪い性格”とを別次元で考える。」

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

『英雄帰天編16 ~関羽対曹操・孫権同盟軍~』

関連記事

『三国志のことわざ「鶏肋(けいろく)」』

おすすめの記事