『劉備対曹操。漢中攻防戦』
前回は、曹操の魏王就任の話をしました。
今回は、漢中攻防戦の話をしてみたいと思います。
【劉備、漢中進軍】
魏王となった曹操に危機感を感じた劉備は、漢中攻略のために軍勢を動かします。
217年、馬超を先鋒とした劉備軍に対し、漢中防備を任されていた夏侯淵が迎えうちます。
劉備軍は、名だたる武将を引き連れての全軍出撃に近い出陣です。
一方、漢中を守備する夏侯淵の部隊は、曹操軍の一方面軍でしかないのです。
曹操は、この時期赤壁の戦いの屈辱を晴らすため呉と荊州を巡って南方戦線を同時に展開しています。
つまり、曹操の魏は、遠く離れた南方と西北の二方面に戦線を維持できるほどの国力を持っていたと言えます。
反対に劉備と呉の孫権とすれば、ほぼ全軍で曹操の軍勢で立ち向かうことになります。
このことを取ってみても劉備と孫権が強大な勢力を持つ曹操を破るということの難しさが見て取れます。
ですから、曹操を倒すには蜀の劉備と呉の孫権が手を結ぶしかないはずなのですが、劉備と孫権の思惑は微妙にずれているのです。
実に、三角関係とは難しいものです。
話を漢中進行に戻すと、漢中を守備する夏侯淵(字 妙才)とは、曹操の親戚(従兄弟)であり、軍略に優れ速攻に関しては並ぶものがいないと言われるほどの猛将でした。
当時の曹操軍にあっては、西部方面総司令官という重要な役割を担っていたのです。
劉備が全力で漢中攻略に出たことを知った曹操は、交戦中の孫権と急ぎ講和し、曹洪を急遽派遣して漢中の援助に向かわせます。
このことを見ても曹操が漢中の防衛を重視したことが見て取れます。
ついこの間まで、雑魚と思って相手にしていなかった劉備が荊州、益州(蜀)を得て、なおも漢中をも奪おうと行動したことに動揺したことがわかります。
陽平関に入り、漢中進撃を続ける劉備本軍に対し、曹操はついに自ら漢中戦の援軍として出陣するのです。
それは司馬懿(仲達)の進言によるものです。
速攻の猛将と異名を持つ夏侯淵でしたが、趙雲、張飛、黄忠などの武将たちが策略で戦ってくるため、勝つどころか負ける寸前に追い込まれていたのです。
当然、曹操軍の士気はガタ落ちです。
その状況を読んだ司馬懿が魏王である曹操自らの出陣によって兵の士気を盛り上げようと狙ったのです。
司馬懿のように実際の戦闘術だけでなく、兵の士気ということまで考えることが出来る人物が軍師であり、知者なのです。
219年春、劉備は陽平関を南下し定軍山に要塞を築き駐屯します。
定軍山は漢中の西北に位置し、天然の要害を持ち、天王山と呼ぶべき場所だったのです。
定軍山を抑えた劉備は、曹操が援軍に来る前に夏侯淵を攻撃し、みごと打ち取ることに成功しました。
曹操軍の重鎮であり、従兄弟である夏侯淵を打ち取ったことは劉備軍にとって大戦果と呼べるものでした。
赤壁の戦いのときは、夏侯淵クラスの武将を打ち取ることは出来ませんでしたから、劉備軍にとっては朗報と言っていいでしょう。
【防衛戦に必要な資質とは?】
ではなぜ速攻では並び立つ者がいないと言われた夏侯淵が打たれたのか。
それの理由は、夏侯淵が“典型的な猛将”だったからです。
つまり武力に頼り過ぎる武将だったからです。
対する劉備軍の武将たちには、軍師孔明がいます。
孔明の策略が働いていたこともありますが、孔明のような知恵を持って、策略を用いて勝利を掴むという風潮が劉備軍の中に生れていたのです。
ですから、武力一辺倒だった張飛をはじめ趙雲、黄忠などが策略を用いて夏侯淵を翻弄したのです。
これは戦とは武力だけでは勝利できないということを如実に物語っていると思います。
つまり、夏侯淵の側に軍略を用いる知恵者の存在が不足していた、ということです。
既に名参謀の郭嘉(かくか)を失い、荀彧(じゅんいく)もいなくなっています。
かといって表舞台に昇りつつあった司馬懿(しばい)のことを曹操はまだ完全に信用できずにいたのです。
どこかで警戒している気持ちが残っていたのです。
定軍山の戦いで夏侯淵は劉備軍の黄忠に敗れるのですが、以前に曹操は夏侯淵の性格を心配してこんなことを言っていたのです。
「指揮官は臆病な時もなければならない。勇気だけを頼みにしてはなるまいぞ。指揮官は当然勇気を基本とするべきだが、行動に移すときは知略を用いよ。勇気に任せるだけでは、一人の男の相手しかできぬぞ」
夏侯淵は、曹操のこうした忠告を聞かなかったから黄忠に打ち取られることになってしまったのです。
自分の考えと違う忠告は耳に痛いもの、苦い忠告を受け入れことのは受け入れがたいものですが、冷静にその忠告を考えてみて受け入れるべきだと思ったら、素直に忠告に従うことも勇気ある行為だと思います。
(もちろん忠告のすべてが良いとは限りませんが)
ですから夏侯淵は、防衛戦にもっとも向かない武将だったのです。
劉備と孔明、法正はそのことをよく感じ取っていたのです。
なのに、曹操は自分の一族ということで西部方面総司令官の役割を与えてしまったのです。
曹操は呉との荊州争奪においても、一族の曹仁を南方方面総司令官として送り込んでいます。
やはり曹操にしても他人でなく身内のほうを信用していた、という一面があったのです。
大きく考えれば、西部方面総司令官に夏侯淵を指名した曹操の責任と言えるのです。
いわゆる任命責任です。
トップは、人事権によってその組織を生かしも殺しもしてしまうのです。
そのポジションに誰を就けるかということが成否を決める大きな要因となるのです。
それがリーダーの仕事であり責任なのです。
【漢中併合】
曹操は40万の軍勢を引き連れて漢中に乗り込んできました。
219年『漢中の戦い』です。
これが実質上の劉備と曹操の直接初対決です。
40万の大軍を率いて挑んだ曹操でしたが勢いにのる劉備軍を破ることは出来ないどころか、曹操本陣が危機に陥ったために、結局曹操は漢中より撤退を決断します。
曹操自ら援軍として駆けつけたにも関わらず、戦局を挽回することは出来なかったのです。
劉備対曹操の直接初対決は、劉備の大勝利となったのです。
後の世から見ればこの時期の劉備軍の人材は最高頂に達していたことが分かります。
軍師参謀役に諸葛亮、馬良、馬謖、法正。
武将に関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超、魏延、馬岱、雷銅、厳顔などの一騎当千の武将が揃っていたからです。
(ただ、ひとり、ここに龐統がいなかったことが残念です)
このときに曹操が言った言葉が後に「鶏肋」という言葉で有名になりましたが、本当のところは違っていたのです。
「鶏肋」とは、捨てるに惜しいが、食べるところはない、という意味です。
実際は、漢中の重要性、夏侯淵が討たれたこと、曹操自ら出陣したにも関わらず敗れたこと。
このことで曹操の権威が失墜し、今後漢中と荊州方面の二正面作戦を強いられることを考えると曹操にとってはなにも良いところがないといえるでしょう。
鶏肋などと痩せ我慢してみても、痛恨の敗戦でしかなかったのです。
こうして劉備は漢中を併合しました。
益州の防衛だけでなく、長安への進撃路を確保したという意味で、戦略的にも大きな意味がありました。
また、劉備の内心としては、長い間天敵として破れ続けてきた曹操を、堂々と正面から撃破した初めての戦いだったので、きっと晴々とした気持ちであったことでしょう。
『今回の教訓』
敗戦の責任は、攻撃型の武将を防衛の責任者としたトップの曹操にあり。
また、上司の忠告を無視した夏侯淵に責任あり。
戦において初戦こそ大事。夏侯淵が初戦で負けたことがその後の敗戦へと繋がった。
「人材の配置は適材適所でなければならない。」
「人によって向く役割と向かない役割がある。」
「その人物の長所が最大限に生かせる役割を与えるべし。」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。