【曹操伝6 ~史実のなかの曹操~】
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【史実のなかの曹操】

《中国民衆からの評価》

歴史上、曹操ほど毀誉褒貶の激しい人物はいない。
中国の伝統的な演劇である京劇では、曹操を演じる隈取(くまどり)を白で地塗りする。
中国人の伝統的な色彩感覚からすれば、鉛色に近い色は“奸悪のシンボルカラー”である。
つまり、そのような色で隈取された曹操という人物は、悪賢くてしかも残忍な姦雄だとみなされているのだ。

曹操が、中国民衆から憎悪の対象とされているのには理由がある。
ひとつは、彼の個性があまりにも強烈で他の類型的な凡人にはとうてい真似できないものだからだ。
冷酷非情で、平然と多くの人を殺す人間に対して人は嫌悪感と憎しみの感情を抱く。
曹操がまさにそれである。

二つ目の理由は、羅貫中(らかんちゅう)の書いた通俗小説『三国志演義』の影響だ。
羅貫中は、明代の作家で、蜀の劉備が漢王朝と同じ劉性を名乗ることから、蜀を正統派とみなし、劉備のライバルの曹操(魏)を朝敵であり邪悪の権化として“描いた”のである。
この小説の影響で中国はもとより、朝鮮半島及び日本においても三国志といえば、羅貫中の『三国志演義』を指すようになった。
(あくまでも民衆レベルでの話)

だが、歴史学者や文学者のあいだでは、曹操は天下を統一した偉大なリーダーであり、優れた戦略をもつ武人であり、詩人であり、政治家であるとされる。

《文学者としての曹操》

曹操は、漢王朝時代の絶対的価値観であった「儒教」一辺倒の価値基準を変革しようとした。
儒教に変わる価値基準として「文学」を取り入れることで価値観の多様化を図ったのだ。

曹操は詩人としての顔も残している。
曹操は多くの詩を残し、詩人としても名高い。
文学サロンを興し、文学の興隆に向けて積極的に関与した。

曹操が文学に力を入れたことは実は深い意味がある。
漢王朝の儒教的価値観を破壊し、新しい王朝を開くには、そこに新しい価値観を樹立する必要がある。
新しい時代を拓くにはいままで存在した古い価値観を一度ぶち壊さなければないないのだ。
曹操は儒教的価値観からの大転換に文学を対抗させたのである。
だが、ここにこそ欠点がある。
儒教は統治学であり、政治学であり、教養の学問でもある。
つまり、統治の原理になりうるものであるが、「文学」は統治の原理に成り得ないのだ。
よって、この価値観の変革は失敗に終わった。

曹操が残した詩に気概が感じられるものがある。

「老き、れきに伏すも、志、千里にあり、烈士暮年、壮心、已まず」

(一部変換できない漢字あり)

意味は、「駿馬は老いても厩につながれていても、心は千里のかなたに馳せている。
それと同じように、男らしい男というのは、晩年を迎えても、やらんかなの志を失わないものだ」ということ。

数ある曹操の詩の中で最も有名なのが「短歌行」である。

「月は明らかに 星は稀に
 烏じゃくは南に飛ぶ
 樹をめぐりて三たびめぐるも
 何れの枝にか依るべき
 山は高きを厭わず
 水は深きを厭わず
 周公は哺(は)みしものを吐き
 天下 心を帰しぬ」

訳:「星影うすい月明かりのなかを、烏じゃくは南へ飛んでいく。鳥たちは木のまわりを何度も何度もまわっている。巣をつくる枝がみつからないのか? 才能をもちながら、仕えるべき主君を見出せないでいる者はいないのか? 山は高ければ高いほどよく、水は深ければ深いほどよい。同じように人材は多いにこしたことはない。むかし周公は来訪者があると、待っていた人材かもしれないと思って、食事中でも食べていたものを吐き出して、いそいそと会いに行った。それで天下の人心をおさめたという。自分も人材を待望することにかけては、誰にも劣らぬつもりである」

曹操の人材を強く求める心情が込められた詩である。
周公を尊敬し、人材を深く求めたことこそ、曹操の成功の最大の要因である。

《董卓暗殺未遂事件》

三国志演義では皇帝を蔑ろにし、権力をふるう董卓を曹操が暗殺を企てるエピソードが記されているが、それは史実ではない。
ただ、史実ではないが、曹操という男を実によく表したエピソードであると思っている。
創作ではあるが、曹操の厳格さ、正義感がよく表現されている。

《酒造り》

曹操は郭芝(かくし)が持っていた「九うん春酒法」を献帝に上奏し、酒造りに力をいれたことでも知られている。
当時の中国の酒は質が悪く、アルコール度数もきわめて低いものが一般的だったが、曹操の醸造法は現在の日本酒に近いもので、それに従えば良質な酒が造れたといわれている。

《読書家曹操》

曹操という男はたぐいまれなるリーダーシップを持っていた。
歴史に残る功績を残した。
その原動力はどこから来たのか?

その答えは、「生まれ持った素質」+「読書の習慣」である。
曹操は、若いころから晩年に至るまで書物を手放さなかった。
それは戦場に出ても変わらない。

曹操は、古典や歴史書、兵法書などを読みさあさり、それだけにとどまらず、とことん研究している。
つまり、“読書による努力”が曹操の優れた判断力と先見性を生み出していたのだ。
古典から、人間とはなにかを、
兵法書から、勝つ戦い方を、
歴史書から、政治を学んだのである。

現代はネット情報だけしか学ばない人も多いが、言論人として活動するならば読書は必須のものである。ネット上で探した情報だけを頼りとしての言論活動は実に頼りないものと言える。

《橋玄の曹操評価》

若き日の曹操が理想像とした橋玄はこんな言葉を残している。

「天下は乱れようとしている。天下を安んずるのは君かもしれぬ」

橋玄は大尉(三公のひとつ)にまで出世した人物。
その橋玄が若き日の曹操を見て高い評価をしたことは曹操嫌いの人も否定できないだろう。

優れた人物は、優れた人物を嗅ぎ分けるもの。
人物を嗅ぎ分ける嗅覚的な能力を持つことが優れた人物の条件のひとつでもあろう。
逆に「凡人」は優れた人物と劣等な人物を見分けることができない。
「愚劣者」になると、優れた人物と劣等な人物が逆さまになってしまう。
優れた人物を嗅ぎ分け能力とは、その人に備わった特殊な能力(才能)の出現なのだ。

『曹操伝7』につづく

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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