【曹操のリーダーシップ】
《曹操は撤退の決断に優れている》
曹操の決断力がよく表れているのが、撤退戦である。
決断力というのは、組織を率いるリーダーにとって欠くことのできない必須条件である。
だが、実際に的確な撤退の判断をタイムリーに下すのは至難の業だ。
この戦における「撤退」という考え方が中国人と日本人では違っている。
中国人は、進む決断はやさしく、退く決断は難しいと考える。
やみくもに進むだけのリーダーを軽蔑する。
これを「匹夫の勇」と呼ぶ。
退く決断を素早くしかも的確に判断できるのが傑出したリーダーだと考える。
曹操はまさにそれに当てはまる。
リーダーシップの有る無しが一番はっきりと現れるのが「危機的状況時」である。
危機的状況時こそ、リーダーシップが問われると同時に、その人物のリーダーシップの力量が見えてくる瞬間なのである。
戦争において危機的状況時の際たるときが敗戦である。
戦いに敗れた時、敗れそうなとき、どの段階で(いつ)「撤退」するのか、ということがリーダーシップの要諦である。
有利なとき、勢いがある時、運に恵まれたとき、リーダーとして君臨することは簡単である。
だが、一旦非常事態となったときに「優柔不断」「過った方向性を示す」または「決断を避ける」といった人物が出てくる。
そうした人物は本来リーダーとしての資格はなかったのだ。
神輿の上に胡坐をかいていただけなのだ。
リーダーのリーダーたるゆえんは、「緊急時の対応」にこそある。
緊急時、非常事態のときこそリーダーの資質が問われると同時に求められるのだ。
乱世で撤退戦を間違えて、その後天下を取った人物は皆無である。
曹操の戦における勝率は8割。
つまり、2割は負けている。
リーダーの資質を見抜くには「勝利をつくった」こと以上に「負けたときどう判断、対処したか」という点に着目することだ。
曹操は、赤壁の戦いや漢中の戦いで敗れはしたが、撤退の判断を過たなかった。
撤退の決断こそリーダーの使命であるのだ。
その点で曹操は優れたリーダーシップを持っていたといえる。
《曹操の人材登用》
曹操の人材登用の特徴は?
一言で言うとするなら「唯才主義」である。
その唯才主義に基づいて210年に「求賢令」を公布した。
曹操は、他人に仕えていた者、素行が悪い者、性格に難がある者でも、才能を認めれば積極的に登用した。
それによって曹操の元には荀彧をはじめとする多才な人材が集まった。
曹操は「才能」だけでなく、その人物が自分の覇業にどう役に立つのかを冷静に分析した。
つまり「この男はなにを俺に与えてくれるのか?」「この人物はなにに役に立つのか」ということを重視した。
これも曹操という男の特徴である。
例えば、袁紹に仕えていた荀彧を参謀として迎い入れたことは有名だが、その際に荀彧のもつ人脈を欲したのも事実だろう。
曹操には譜代の家臣がいなかった。
頼みになったのは父曹嵩の実家である夏侯家くらいである。
曹家は従兄弟などがいるが、一族としては自前の勢力を持っていない。
そこで自前の勢力を持つために人脈を持つ人材が必要だったのだ。
荀彧は潁川郡の名家の出である。
荀彧の一族は代々儒教を修めてきた家柄であり、英才たちと広く交友関係を持っていた。
曹操はその人脈が欲しかったのだ。
事実、荀彧は多くの人材を曹操に推薦し、荀彧に推薦された人物たちが曹操陣営の中心メンバーとなっていった。
曹操にとって荀彧が果たした役割は大きい。
荀彧を中心とする潁川人士は、曹操の参謀集団を構成した。
これは荀彧なくしてはありえなかった。
荀彧が曹操に推挙した潁川出身の一人が郭嘉(かくか)である。
漢代は儒教を身につけた者を官僚とする郷挙里選(きょうきょりせん)という制度をとっていた。
郷挙里選には、いくつかの登用科目があり、一般的に孝廉科(こうれんか)という親孝行であったり、清廉であるという儒教の徳目を基準として、その人物を評価して推挙する制度である。
曹操は、そうした儒教を基準とした国家の人材登用の根幹を改革しようとしたのである。
儒教的価値観から、才能主義へと価値観の転換をはかったのである。
《曹操は人材活用に優れている》
曹操は用兵術に優れた才能を持っている。
用兵術に優れているということは、リーダーシップ力に優れていることになる。
曹操は中国の歴史上の類まれなるリーダーシップを持った人物といえる。
曹操のリーダーシップでまず言えることは、「才能ある人材を強く求めた」ことと「才能ある人材を適材適所で使用した」ことである。
つまり、人材活用・人材育成に優れていたのである。
その人が持つ資質を正確に見抜き、その才能を十分に発揮できるようにした。
さらに曹操の人材活用の特徴は、能力があり曹操に忠節を誓うならかつて敵の陣営にいた者であっても、たとえ人間性に問題があっても、喜んで高禄をもって迎い入れたことである。
決して温情主義で人材を使用しないのである。
曹操という男の人材活用術は、決して感情におぼれて特定の人間をエコひいきすることはなかったことだ。
信賞必罰で処遇し、功績があれば重く用いて、利用価値がなくなれば、冷然と突き放す。
ときには死に追いやる。
合理的にして、非情で冷厳なのが曹操のリーダーシップなのである。
ただ、例外がある。
それは身内を優遇したところだ。
曹仁、夏侯淵、夏侯惇などの親族を重要なポジションにつけている。
幸いに曹操の親族には豪傑たちが揃っていたので、曹操に最後まで仕え、その後も魏の政権を支えて行くことになった。
もし、曹仁、夏侯惇、夏侯淵などの親族に力量がなかったら、曹操はどうしただろうか?
曹操の場合は、それらの質問は愚問となる。
なぜなら、親族でも裏切り者でも忠臣でも、「役に立つ」なら使い、「役に立たない」と思えば捨てるからだ。
使える者は使う。
使えない奴は捨てる。
それが曹操という男なのだ。
曹操が中原に覇を唱えることができた最大の理由は、「強過ぎるほど人材を求めたこと」、「集まった人材の才能、力量を見抜いた上で人材使用した」からだ。
《曹操の人材活用術》
曹操ほど才ある人材を強く求めた人物はいないであろう。
歴史上でも曹操に匹敵するほど能力主義で人材を求めた英雄は珍しい。
曹操という男の不思議がここにある。
曹操という男は大才を持つ男である。
軍事的才能、政治力、変革者としての先見性、文学の才能、どれを取っても一流である。
なのに、才能ある他人を求めたということが曹操の曹操たるゆえんである。
普通、才能ある者は才能のある他人をそれほど求めない。
むしろ、才能がないがゆえに才能ある他人の力を借りようとして才能ある人材を求めるものだ。
そういった点で、歴史上、曹操という男は他に類を見ない英雄である。
曹操の人材活用術は、一にも二にも「能力本位の選別主義」である。
まず、部下に仕事をさせてみて力量(実力)をはかる。
能力があるとわかるや、前歴がどうであれ、たとえ人殺しであろうとも、盗っ人であろうとも、どしどし抜擢登用する。
反対に経歴や人柄がどんなに立派でも、能力がなければ見向きもしなかった。
徹底した能力主義なのである。
日本の戦国時代の覇者、織田信長も徹底した能力主義で人材を登用し活用した人物である。
もしかしたら信長は歴史書(三国志)を学び、曹操の人材活用術を真似たのかもしれない。
「魏書」武帝紀に「功なくして施しを望むものには、分ごうも与えず」とある。
曹操の論功行賞は極端である。
曹操は、功績を立てた者に賞を与えるときは千金を惜しまなかったが、功績もなくて賞を欲しがるものには、びた一文も与えなかったのである。
曹操は、高い能力に恵まれた人物でありながら、人材を集めることに熱心だった。
幕下に集めた人材に対しては、徹底した能力本位、メリット制で臨み、ダメ人間はどんどん淘汰されていき、選りすぐりの人材だけが残るようになった。
功があるかないかで、曹操の評価は極端に違っていた。
人材活用術を三国志の他の英雄たちと比べて特徴的なのは、曹操は人格に問題があっても、才能さえあればその人物を採用したことだ。
実はこうした人材活用術を用いる人物には共通する特徴がある。
それは「天才型」であることと「既存の常識を破壊し、その時代の価値観をひっくり返すタイプ」であることだ。
日本の戦国時代の覇者織田信長やアップルの創業者スティーブ・ジョブズなどが同じタイプである。
曹操という男の人材活用術は、他人に仕えていた者、素行が悪いもの、性格に難がある者でも、才能を認めた人物は積極的に登用した。
それによって多種多様な人材が集まった。
《まとめ》
曹操の人材活用術は一言で言うと「唯才主義」である。
(注:唯才主義とは、才能だけを基準にして登用すること)
要するに曹操の人材活用術は、
「才を惜しみ求めるが、その才は自分だけのために使う」ということだ。
これは優れた面と残虐な面の両方が含まれている。
つまり、「曹操に従えば厚遇するが、逆らえば許さぬ」という二面性があるからだ。
■曹操という男は才能のある人間からみれば、チャンスを与え高い評価を与えてくれる良いトップだが、凡庸な才能しかない者にとっては“恐ろしい男”なのである。
『曹操伝6』につづく
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。