『単刀会』
前回は、成都陥落の話をしました。
今回は、単刀会について話をしてみたいと思います。
【一気に巨大化した組織の課題】
建安19年(214年)、念願の蜀(益州)を手に入れた劉備は、蜀の文官武官たちをもれもなく厚く賞して官職を与えました。
劉璋には振威将軍に任じて荊州の公安に赴任させました。
驚くべきことに、最期まで劉備に抵抗した劉璋の側近である黄権でさえも、劉備は蜀の高官として迎い入れたのです。
黄権という人物は、徹底的に劉備に抵抗した人物です。
その人物を自分の部下に迎い入れるというのはなかなかできることではありません。
黄権はとても有能であり、黄権の統治能力があったからこそいままで蜀の経営が成り立っていたのです。
劉備は、黄権の有能さを惜しんだのです。
劉備に許された黄権は、その後劉備に仕えて劉備陣営の重要な存在となっていくことになります。
こうした人材登用には、一気に巨大化した劉備陣営の人材における人材不足の問題があったからなのです。
つまり、劉璋の部下をすべて廃して、それまでの劉備陣営の人材だけではとても蜀の経営が出来ないのです。
人材不足もいいところです。
ですから、現地の人材を登用するしかなかったといえば、その通りなのです。
それと、不満を持たせ、後の反乱を起こさせないためでもあります。
【劉備、五虎大将軍を任命する】
劉備は、さらに劉璋が貯めこんでいた食糧を住民たちに配給し、取り上げられていた土地を民に返却しました。
こうして、蜀の民と官僚たちはこぞって劉備を受け入れたのです。
もちろん、蜀攻略の実績をあげた部下たちの処遇も大事にしました。
その中でも、新たに「五虎大将軍」という全軍のなかでも抜きんでた武将を五人選抜しました。
その五人とは、関羽を筆頭に、張飛、趙雲、黄忠、馬超です。
荊州に駐屯する関羽にもこうした論功行賞の知らせが入りました。
そこで関羽は、孔明に手紙を書いてある疑問をぶつけます。
それは「五虎将軍の中に新参者の馬超がいるが、やつはどの程度の人物なのか? 五虎大将軍にはふさわしくないのでは?」と馬超の五虎将軍就任に不満をもらします。
関羽の手紙を受け取った孔明は、「馬超は優れた武将ですが、美髭公にはとても敵いません」と関羽を持ち上げます。
自慢の髭を褒められた関羽は、孔明の手紙を読んで機嫌をよくしたと言われています。
関羽も子供みたいですね!
自分が一番でないと許せないのでしょう。
【単刀会】
しかし、劉備が益州(蜀)を平定したことで孫権が動きます。
諸葛瑾を使者として送り、荊州返還を要求します。
(諸葛瑾は孔明の実兄)
このときに荊州返還をめぐっての呉の魯粛と荊州を守る関羽との間で起きた会談を「単刀会」と言います。
この「単刀会」については「小説の演義」と「正史」ではだいぶ違っていますので、その違いを見てみます。
「単刀会」とは。
単刀とは、護身用の一刀だけを帯びて会見に臨んだことで、そう呼ばれました。
〈小説三国志演義の単刀会〉
益州を得たら荊州を返還するという以前からの約束を果たしてもらうために、孫権が諸葛瑾(しょかつきん)を使者として成都に送ります。
その際に、諸葛瑾の一族を人質としました。
諸葛瑾は、荊州返還を迫りますが、当然劉備はしぶります。
一族を人質に取られている諸葛瑾は手ぶらでは帰れないと、自らの家族が人質になっていることを孔明に打ち明けます。
実弟の孔明は、一族が人質に取られていることを知って、劉備に荊州を返還するように頼みます。
信頼する軍師の頼みもあって、劉備は思案します。
そこで劉備は、長沙、零陵、桂陽の3郡の返却を許します。
諸葛瑾は荊州3郡の返還の書かれた書状を持って荊州に駐屯する関羽のもとにやってきて交渉をします。
しかし、関羽は返還を拒みます。
なおかつ軍を呉との国境付近に配備します。
そんなとき呂蒙が関羽のところへ乗り込んできて、3郡を返せと迫ります。
関羽は、「お前では話にならぬ。魯粛をよこせ」と傲慢な態度にでます。
呂蒙は「大都督は病のため、遠出ができない」と主張します。
ならばと、関羽は自ら呉の魯粛に会いに陸口まで出向くと言います。
といういきさつがあって、陸口での関羽と魯粛の会談が設けられたのです。
関羽を出迎えた魯粛は、長沙、零陵、桂陽の3郡の返却を強く求めます。
それでも関羽は「うん」と言いません。
交渉は座礁に乗り上げてしまいました。
そんな中で呂蒙は、頑なに3郡返却をしない関羽を暗殺しようと企んでいました。
呂蒙の計画を察知していた魯粛は、酒を飲みかわすふりをして関羽に近づいて、「わたしを盾にして逃げろ」と危機を知らせます。
関羽は、魯粛に刃を突きつけて船着き場まで逃げ延びます。
そこで魯粛を開放すると、こう言います。
「呉には英雄はおらぬと思っていたが、魯粛という英雄がいた。3郡はお返ししよう」
魯粛の男気に感じ取った関羽が3郡返還を承知するのでした。
こうして、呉は荊州の長沙、零陵、桂陽の3郡を得た、という話になっています。
〈正史三国志の単刀会〉
益州を得たら荊州を返還するという以前からの約束を果たしてもらうために、孫権が諸葛瑾を使者として成都に送ったところまでは同じです。
しかし、劉備は、「涼州を平定したら荊州をそっくり返す」と返答します。
(別の説では、漢中を取った後に荊州返還を約束しています)
返還の意志が無いと見て取った孫権は、長沙、零陵、桂陽に太守を送り込みます。
しかし、関羽に追い払われてしまいます。
孫権は怒り、3郡奪取を命じます。
魯粛に1万の兵を与え巴丘で関羽と対峙させ、孫権自らは陸口に進出して総指揮をとります。
呂蒙の勧告により、長沙と桂陽は戦わずして呉に降ります。
さらに零陵太守に劉備の援軍が来ないと騙して降伏させます。
荊州を奪われると思った劉備は成都から大軍を率いて荊州の公安に到来します。
資水という川を挟んで、関羽率いる荊州軍と魯粛、呂蒙率いる呉の軍勢が対峙します。
こうした緊迫した状況を打開するために魯粛は関羽に会談を申し込みます。
それぞれの軍を100歩離れた地に留め、会談が始まります。
ここでの会談は魯粛が関羽を終始圧倒して、正論をはいています。
正論をはく魯粛に関羽は受け身であったと言われています。
さらに「演義」ではお人好しのような人物に描かれている魯粛でしたが、このときの魯粛は声も顔つきも極めて厳しかったと言われています。
このとき魯粛は「貪欲なことをして義をないがしろにすれば、必ず災いを招く」と言っています。
つまり、関羽の言い訳を許さずに激しく叱責したのです。
結局この会談では結論が出ませんでした。
両軍の対峙はさらに続きました。
しかし、このとき曹操が漢中に迫りつつあったので、劉備はいつまでも荊州に釘付けにされるわけにはいかなかったのです。
215年、曹操が漢中に侵攻したので、劉備は孫権に和平を申し込み、孫権もそれに承諾しました。
これによって荊州は長江の支流湘水を境に東西に分割されることになりました。
江夏、長沙、桂陽を劉備が、南郡、武陵、零陵を孫権が治めることになったのです。
〈単刀会の相違点〉
以上のように小説である単刀会と正史の単刀会では、まったく違っています。
一番の相違点は、「演義」では関羽のほうから魯粛のところへ行っていますが、「正史」では魯粛が関羽のところへ乗り込んできたことです。
史実を見る限り魯粛は勇ましく行動力があり、なおかつ戦略眼を持っています。
〈魯粛の構想〉
ここで難しいのは呉と蜀が完全に敵対関係になってしまってはよくないということです。
それが魯粛の方針です。
魯粛は孔明に似た「天下三分の計」を構想していますが、少し違うところがあります。
それは、劉備が益州を手に入れるまでは曹操に対抗するために荊州を劉備に貸してもいい。
劉備が益州を手に入れたなら、荊州を奪還し、孫劉同盟を結びつつ北の曹操に当たる。
魯粛は呉単独では曹操に当たれないと見ていたのです。
ですから、劉備の存在を必要としていたのです。
このときの魯粛は、軍事的に大きな損害を出すことなく、自陣営の領土拡大を果たし、曹操と敵対する勢力との関係を維持するという離れ業をやってのけたのです。
魯粛は大局観と交渉、外交におけるバランス感覚が優れている人物なのです。
一方、小説の「演義」では劉備を良く描きすぎている点があります。
荊州をめぐる騒動では、やはり呉に正論があります。
荊州返還については、劉備の不誠実さが目立ちます。
ただ、乱世ですから。
劉備にとって荊州は孔明が示した「天下三分の計」の要の地です。
隆中に孔明を訪ねたときから、孔明の示す構想の実現に向けて戦ってきた劉備とすれば、どうしても荊州を手放したくなかったのでしょう。
また、天下三分の計をもって曹操を打倒するためには、どうしても荊州が必要だったのです。
これは、その後の孔明による北伐を見れば「荊州の意味」がはっきりとわかります。
この時点での最重要地域が荊州だったのです。
「荊州を取る者は天下を取る」、そう言っても過言ではないでしょう。
【今回の教訓】
人材不足の会社は多いでしょう。
どうしたら人材が集まってくるでしょうか?
なかには嘘に近いことを言って人を集めて、実際働いてみたら、全然違ったなどという会社もあります。
それを「不誠実」というのです。
そうした会社は、いつになっても良い人材が集まらないでしょう。
やはり良い人材を集めたいなら、いかに報いるのかを考えることが大切です。
良い人材は求めるが、他社より劣る待遇では、いっこうに優れた人材を得ることはできません。
現代社会で「報いる」とは何でしょうか?
福利厚生、残業がないこと、休日が多いこと、やりがい。
それもあるでしょう。
しかし、もっとも大事なのは「給料」でしょう。
働く人の目的は給料を稼いで家族を養い豊かな生活をすることなのですから。
ですから、給料をケチっているようでは、良い人材は集まりません。
歴史上の人物でケチな人物が天下を取ったケースはほぼありません。
「人材不足を解消したいなら、人材を求めるだけではなく如何に報いるかを考える」
「不誠実なことをすると、いつか反作用が返ってくる」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。