
『曹操、魏王になる』
前回は、曹操が漢中を平定する話をしました。
今回は、曹操の魏王襲名の話をしてみたいと思います。
【曹操、魏王への布石】
この時期の曹操は呉の孫権と合肥でにらみ合いながら、漢中へも戦線を展開しなければならなくなっていました。
あの広い中国大陸で東南と西域の両方に敵を迎え撃つということはとても難しいことです。
これはいかに中原を抑えた魏に国力があり、人材が揃っていたということの証です。
実質上の権力者である曹操の周辺では、曹操を魏王にしようとする動きが出ていました。
(このときの曹操の肩書は「丞相(漢の)」であり「魏公」です。)
献帝(劉協)はその動きを恐れます。
なぜ恐れたかというと、「王」になるということが特別な意味があるからです。
漢王朝を立てた高祖劉邦はある決まり事を設けました。
『異なる姓に王を名乗らせず』
それは「劉氏」でなければ「王」の称号を与えない、ということです。
つまり、劉邦の子孫でなければ皇帝の次の位である「王」にしてはいけないという決まりを残していたのです。
それは後漢の時代になってからも守られてきた慣例だったのです。
高祖劉邦がなぜ劉氏以外の者を「王」に就けてはいけないと決めたのかというと、謀反、反逆を防ぐためです。
もし、野心を持った劉氏以外の人物が王という権力を握ったら、皇帝の権力が弱まっていき、やがては皇帝にとって替わられてしまい、漢王朝が滅んでしまうと考えたのです。
中国の歴史では、漢王朝の時代までに易姓革命(王朝が変わること)がいくつも起きています。
ですから、劉邦は自ら築いた王朝を臣下によって奪われないようにするために慣例を定めたのです。
こうした漢の皇帝からすればありえない不遜な動きを警戒することは当然です。
なぜなら、「王」の称号を得たものが次に狙うのは「皇帝」だからです。
つまり、皇帝になるためのステップとしてのワンクッションとして「王」になるということなのです。
【曹操、魏王となる】
こうした動きに対して漢王朝の献帝(劉協)の妻である伏皇后が反対しました。
伏皇后は、曹操の権力がこれ以上強大になることをおそれて、父親である伏完(伏皇后の実父)の力を借りて曹操を討とうとします。
しかし、この企みが曹操に知られてしまいます。
結局、伏皇后は謀反人として捕らえられ殴り殺されました。
それだけにとどまらず、伏一族二百余人が皆殺しにされました。
中国の歴史には、この一族皆殺しという残酷な行いがいくつも起きています。
曹操を暗殺しようとした伏皇后と父親の伏完とそれに加担した者を処刑するならわかりますが、なぜ一族を根絶やしにするのでしょうか。
当然、暗殺にはまったく関与していない、なんの罪もない人たちが多くいたはずです。
実態は、二百余人のうちのほとんどが無実の罪で殺されたことになります。
これには「見せしめ」という意味と、後の世での「復讐」を避ける意味とがあります。
曹操は、才能ある者を求め優遇する優れたリーダーの側面を持っていますが、一方では敵対する者を許さないという残酷さを同時に持っています。
ですから、曹操によって一族を殺された人たちが多く存在します。
こうした曹操の残忍さが彼のもつダークな一面です。
これがあるから曹操は人気がないのです。
皇帝の正妻を殺した曹操の悪行はまだ続きます。
なんと、曹操は自らの娘を献帝に嫁がせたのです。
そうすることで皇帝の義理の父親という立場を得たのです。
献帝が可哀想ですね。
自分の妻を殺した男の娘を嫁にしなければならないのですから、こんな屈辱はないでしょう。
それでも実質的な権力のない献帝は曹操に逆らえなかったのです。
曹操に逆らうということは、
・皇帝自身の命を取られる。
・献帝を罪に問うことで王朝を簒奪することが予想される。
こうしたことがあって、形だけでも漢王朝を存続させるために献帝は曹操の操り人形になるしかなかったのです。
本心では、曹操に王の称号を与えたくはなかった献帝でしたが、曹操の臣下たちはそれを許しませんでした。
曹操を「魏王」にする機運が高まっていきました。
漢の文武百官が集まり、献帝に対して曹操を魏王にする会議が開かれます。
集まった臣下たちはみな曹操の権力に恐れを抱いている者たちばかりです。
「丞相(曹操)を魏王に」
という大合唱のなかで献帝は困り果てます。
その中で曹操は沈黙を守ります。
それはそうです、自分から王にしてくれとは、さすがに厚かましくていいだせません。
そこで臣下の共通の願いという形をとって献帝に訴えているのです。
献帝もこの状況では拒否できません。
とうとう曹操を魏王に任じるとの命を発してしまいます。
建安21年(216年)の出来事でした。

【曹操と荀彧の決別】
しかし、たった一人だけ、曹操の魏王就任に反対した人物がいました。
それはなんと、荀彧です。
長らく曹操の片腕として活躍し、曹操を支えてきた荀彧でしたが、このときは大反対の立場を貫きます。
その理由は、荀彧という人物は漢王朝へ厚い忠義心を持っていたからです。
荀彧が曹操の力となっていたのは、漢王室を再興するためであって、そのための権力と考えていたのです。
ですから、曹操が漢の丞相となることは賛成だが、王になるということには反対だったのです。
この時期になると曹操は隠し持っていた野心をさらけ出していきます。
そのことによって荀彧の心が曹操から離れていったのです。
曹操もあれだけ信頼していた荀彧に対してあからさまな不信感、嫌悪感をあらわします。
荀彧と曹操の関係は完全に冷え切っていたのです。
魏王就任に反対の立場を貫いた荀彧は、曹操に殺されることを悟って、自ら毒を飲んで生涯を閉じました。
荀彧ほどの大功労者に対する処遇ではないですよね。
しかし、片や魏王を足掛かりとしていずれ皇帝の地位を狙う者と、あくまで漢の皇帝あっての曹操だと考える荀彧では、どこまでいっても平行線。
対立は避けられません。
どう考えても、相反する考えは両立しません。
結末はこれしかなかったのかもしれません。
荀彧の忠義心は見事です。
漢王朝への忠義を尽くす荀彧の男気は男が惚れる男であります。
曹操とすれば、できれば荀彧を失いたくないと思っていたでしょうが、あくまでも反対するのであればやむを得ないと思っていたのでしょう。
曹操の中には天下統一への焦りの気持ちがあったはずです。
赤壁の戦いで大敗し、その後荊州を奪われ、呉に幾たびも攻め入るが、呉の領地を奪えない。
もう一人の宿敵の劉備は蜀という肥沃な領土を得て、その勢力を拡大させた。
高齢となった曹操には、自分の命が尽きる前にできるだけ宿敵を倒し、中国大陸を統一したいという気持ちに駆られていたのです。
魏王になった曹操は、自身の本拠地であるギョウに魏王宮という宮殿を建設し、長男の曹丕を跡継ぎと決めて、その権力をゆるぎないものとするのです。
曹操が魏王となったことは同時に漢王朝滅亡へのカウントダウンが始まったことを意味します。

『今回の教訓』
曹操のように、己の権力に逆らう人の命を奪う者は、後世の人から恨みを買う。
荀彧のように、たとえこの世的に敗れたとしても、忠義を貫けば、後世の人から忠義ある人物という評価を得られる。
「過ぎた権力欲と忠義の心は、いつの日か正しく評価される。」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。