『群雄割拠編13 ~無二の親友~』
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『無二の親友』

今回は、孫策の活躍と周瑜という親友についての話をします。

【孫策、父孫堅の志を継ぐ】

江東の虎」と恐れられていた父孫堅が死んでから、息子の孫策は父孫堅の志を引き継ぎ、孫一門の再興を考えていました。
しかし、父孫堅以来の武将たちは孫策のもとから引き離されて袁術の配下となっていたのです。
もともと父孫堅は袁術の指揮下に入っていたからです。
袁術は欲深い男でしたが、袁紹よりも人物を見抜く力は多少あったのかなと思います。

『正史孫策伝』には袁術がため息まじりに語った言葉が記録されています。

「もし私に孫朗(孫策)ほどの息子がいれば、思い残すことなく死ねるのだが」

袁術は孫策の武勇と武将としての才能を買っていたのです。
ですが、孫策の才能に気づいたからこそ、自分の手元から離さないように、孫家の武将たちから切り離していたのです。
(袁術、器が小さ~い!)

それでも孫策は孫一門再興を願い行動に出ます。

【孫策、独立をめざす】

三国志演義では、揚州の母から手紙が来て助けを求められたため、叔父を助けるという名目で出兵を願い出るのです。
丹陽の太守をしていた叔父の呉景が、揚州の劉繇という人物にその座を奪われて苦難の日々を送っていたからです。
袁術は孫策の才能が惜しくて手放そうとしません。
兵馬は貸せぬと突き放します。

孫策はそうした袁術の考えを見抜いていたので、袁術を口説き落とす秘策を用意していました。
それは父孫堅が手に入れた『伝国璽』を袁術に譲ると持ち掛けることです。

『伝国璽(でんこくじ)』とは、皇帝用の印鑑『玉璽(ぎょくじ)』といい、中国の歴代王朝に代々受け継がれ、これを持っていることが皇帝の証となっていたほど大切なものです。

孫策は兵馬など要らぬから、代わりに父孫堅の代からの忠臣である程普、黄蓋、韓当らの歴戦の猛将たちを連れていくことを願い出ました。
すると袁術は、『伝国璽』に眼がくらみ、孫策が揚州に行くことを許可します。
(アホだな!)

また、『山陽公載記』には「袁術は孫堅の妻、つまり孫策の母親を人質に取り、孫策から玉璽を奪った」という記述があります。

孫策と袁術の二人の考えには全く対照的でした。
孫策にとって伝国璽はなんの意味のないもので、袁術にとっては大出世(皇帝になること)のチャンスと考えたのです。
袁術は伝国璽を手に入れれば自分が皇帝を名乗れる。
つまり大チャンスだと考えたのです。

一方、孫策は伝国璽などに頼るのではなく、実力で天下は取るものと思っていたのです。
伝国璽を捨てて、父孫堅以来の武将たちを選んだのです。
つまり、名前だけの無価値な象徴としての皇帝の証よりも、命を投げ出して戦いを共にしてくれる仲間を選んだのです。
こうした判断が重要です。

こうした「なにを重要とするかという判断」は、現代のビジネスにおいても同じです。

孫策の目的は、袁術の配下から抜け出して江東の地を取り戻し、独立した勢力を築くことだったのです。
そのために印鑑(象徴)ではなく、人材が必要だと判断した、ということです。

【孫策、無二の親友を得る】

さらにこの時に孫策にとって大切な人物が孫策のもとへやってきます。
それは周瑜です。

周瑜は後に三国志の合戦のなかでも有名な「赤壁の戦い」で魏の曹操軍を破る武将です。
実は周瑜と孫堅は同い歳の幼馴染だったのです。
父孫堅が黄巾の乱平定のために出兵したときに、家族を疎開させていました。
そこが周瑜の故郷であったため、孫策と周瑜は家族同然の付き合いをしていたのです。

孫策と周瑜の間柄を表すことわざが残っています。
断金の交わり」です。
意味は、「かたい金属をも断ち切ってしまうほど、強固に結ばれた友情のこと」です。
断金の交わりとは、金属を断つほどの強い結びつきだということです。

三国志には現代の日本でも知られている、または使われている諺がいくつもありますが、この「断金の交わり」もその一つでしょう。

三国志にはたくさんの人間関係があり、厚い友情や義理固いエピソードがありますが、孫策と周瑜のこの友情は他に例がないほど強い絆であると思います。
兄弟の絆、義兄弟の絆、部下と上司の絆、などはたくさんあるのですが、同じ世代での男と男の友情は意外に珍しいのです。
しかも、この二人は江東の地において美人で有名な姉妹をそれぞれ妻とするほどの仲の良さなのです。
孫策の妻が姉の大喬で、周瑜の妻が妹の小喬です。
(どんだけ仲がいいんだー!)

さらに周瑜の進言に従い江東に「二張」ありと言われた賢者の張昭、張紘を参謀として迎え入れたのです。
かくして孫策は揚州の劉繇を攻めるのですが、相手は多勢で苦戦します。
しかし、敵側から孫策側に味方する裏切りなどがあって戦いは孫策側有利に展開します。
この戦いで孫策はさらに人物を得ます。
劉繇の部下の太史慈という豪傑の武将と一騎打ちをし、劉繇軍を撃破したときに太史慈を捕らえて自分の配下になってくれと話を持ち掛けます。

孫策は個人的にも武勇や格闘技に長けていたのです。
太史慈は孫策の人柄に魅了されて孫策に仕えることにします。
太史慈とは、豪傑な武将で、劉備で例えれば、関羽、張飛などに匹敵するほどの猛将です。
(ゲームの中では有名でしょうか?)

しかも太史慈は戦で離散した劉繇の部下を引き連れてくると約束します。
孫策は太史慈の言葉を信じて太史慈を行かせます。
このとき、孫策自身が袁術のもとを去ったように、孫策から去っていくことも想像できたでしょうが、太史慈を信じて待ったのです。
すると、太史慈はみごとかつての劉繇の部下たちを引き連れて帰還します。
(こんなおいしい話あるのか?)

こうして勢いを増した孫策軍は次々と江東の地を平定していったのです。

孫策の活躍は、起業したてのベンチャー企業が、あっという間に発展して、ライバル企業に迫るようなものではないでしょうか。

知者の参謀を得、歴戦の武将を得、新たに猛将を得、大親友であり優れた軍師を得た孫策は天下を取ってもおかしくない人物だと思います。
要するに、孫策は「大事業に必要な一通りの人材をそろえた」ということです。

ビジネスにおける成功も、その事業に必要な人材をいかに確保するかがキーポイントとなります。
乱世における天下取りも同じなのです。

ですが、三国志ファンの方ならご存知のはずですが、この後孫策には悲劇が待っているのです。
その話はまたの機会にします。

それにしても、うらやましいのは孫策と周瑜という男と男の友情でしょう。

友達は何人いますか?

と聞かれれば、誰しも頭の中に数人の友達は思い浮かぶでしょう。
でも、その友達はどんな間柄ですか? と聞かれればどうでしょう。
一緒に遊ぶとか、いつも一緒にいるとか、いつもメールをしているとか、そういった友達も大事です。

古い言い方ですが、やはり大親友と呼べるのは苦楽を共にしてこそ得られるものだと思います。
特に楽しみを共有するよりも苦難を共にしてこそ本当に心と心とで強い結びつきが生まれると思います。
そうした大親友がいる人生と、一緒に遊ぶだけの友達しかいない人生では、やはり人生の味わいが違ってくると思います。

たった一人でも自分のことを理解してくれて、苦しい時もそばにいてくれて支えてくれる
どんなに落ちぶれても必ず手を差し伸べてくれる。
辛い時には一緒に泣いてくれて、うれしい時にはともに笑ってくれる
それでこそ真の友情ではないでしょうか!

ちょっと古い話ですが、日本の企業にもそういった強い結びつきと思われる人たちがいます。
本田技研の本田宗一郎と藤沢武夫。
ソニーの井深大と盛田昭夫。

何事も大きな事業をするためには、単なる仲間だけではだめで、心を通わす大親友片腕が必要なのです。
大親友、自分の分身とも呼べる存在を得ることがとても大切なのです。

【今回の教訓】

「人生に必要なのは、苦しいときも落ちぶれたときも、共にあり、手を差し伸べてくれる親友」

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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