『群雄割拠編11 ~三国志のターニングポイント~』
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『三国志のターニングポイント』

今回は、三国志のターニングポイントについての話をします。

【曹操の迂回作戦】

話は少し戻りますが、曹操は自分の地盤であるえん州を呂布から取り戻そうと徐州から引き上げるときのことです。
参謀の荀彧の進言に従って、東の陳国へ向かいました。

えっ、なぜかって?

本当ですね。なんで自分の領地奪還に直接向かわなかったのか?
それは、いつの時代でも戦争では兵糧(補給)が続かなくては兵力を維持することはできないからです。
曹操は兵糧に困っていたのです。
そこで策士荀彧が知恵を巡らすのです。
陳国ではいまだに黄巾賊の残党が出没していて強盗、略奪を繰り返していました。
黄巾賊を打ち倒せば朝廷から認められ、黄巾賊が蓄えた食料を奪うことが出来ます。
さらに民心を得ることが出来る。
という一石三鳥の作戦だったのです。
これにより、曹操は自軍の息を吹き返すことができ、呂布からえん州を取り戻すことに成功したのです。

三国志の中では、軍師、参謀といえば諸葛孔明、司馬仲達などがまず思い浮かべますが、「王佐の才」と言われた荀彧も両者に劣らぬ知恵者であるのです。

【曹操、皇帝を奪還、その意味とは?】

一方、都長安にいる董卓の部下の李かく郭しらは略奪強姦の限りを尽くしていました。
(人間じゃね~!)
さらに長安の西の城に献帝(皇帝)を幽閉しました。
しかし、皇帝に仕える側近たちの尽力により、城を脱出、かつての都である洛陽に落ち延びたのです。

その情勢を見抜いた荀彧は、天子を迎え入れろと曹操に進言します。
かくして曹操は大軍を率いて、董卓の部下の残党(李かく、郭し)を打ち倒します。
そして、曹操は献帝から司隷校尉(軍権を預かる者)に任じられるのです。

この意味は重要です。

皇帝から鉞(まさかり)を授かったということは、滅びゆく朝廷にありながらも正式に漢王朝の軍権を曹操が握ったということなのです。

これと似たようなことが日本の戦国時代に起こっています。
それは織田信長が、足利幕府の将軍の弟であった義昭を将軍の座に就けることによって天下取りに一番乗りしたのと同じパターンです。

権威は衰えたとはいえ、正式に権力を握るということは大義を持っているということと同義です。

幕末に薩摩、長州が天皇の御旗を掲げて徳川と対峙したため、最後の将軍慶喜は江戸に逃げ帰ったことにも似ています。
つまり、錦の御旗に鉄砲を向ければ徳川は反乱軍(賊軍)となるからです。

実はこの時、袁紹も参謀の許攸(きょゆう)から「誰よりも先に天子の元に駆け付け、お守りしろ」と進言されますが、別の人物の田豊からまったく逆の進言を受けます。
田豊は、天子なんかほっといて、青州と幽州を奪えというのです。
漢王室はすでに地に落ちているので、天子を迎え入れれば厄介ごとを招き入れることになると。

しかし、許攸はくい下がります。

「天子は厄介者などではなく、諸侯たちに呼びかけるための旗印全軍を統率するための軍旗そのものです」と。

この相反する進言に対して、袁紹は田豊の進言を取り入れ戦支度をするのです。
袁紹は名家の出ではありましたが、やはり判断力が弱かったといえます。
判断力においては曹操のほうが圧倒的に優れていたと言えます。

【三国志のターニングポイント】

実は、ここが三国志の大きなターニングポイントであったのです。

黄巾賊をほぼ打ち倒し、独裁者董卓を亡き者にし、宙ぶらりんとなっていた天子(皇帝)を誰が担ぐのか?

さまざまな歴史を見る限り、こうした場合一早く天子を担いだ者、または勢力が天下に号令しているのです。

歴史には必ずターニングポイントがありますが、董卓無きあと、誰が天子を擁立するのかというこの時点が三国志の大きな分かれ目でありました。

大義を得た曹操は、自らを大将軍武平候に任じ、部下たちを朝廷の重職に就かせるのです。
これで曹操は天下の大権を握り、天下取りに一番乗りしたのです。
董卓などとは違って、曹操ほどの男が天子をそばに置き、朝廷の大権を握ったら他のライバルたちがいくら頑張ってもその差を埋めるのは並大抵のことではありません。
事実、このあと曹操は中原の覇者となり天下統一に迫るのです。

曹操は権力を握ると民にお触れ(法)を出します。
自分で開拓した土地は開拓した者の所有となる。自分の牛で開拓すれば税金も安くする。
この法は絶大な効果をもたらします。
この頃、イナゴの大量発生などで作物は食い荒らされ餓死者で溢れていたのです。
曹操のこの政策で荒地は開拓され農地になり、人が定住し作物を収穫し、農民は税を納めるようになりました。
それによって漢の穀倉は満杯になったと言いますから、曹操の政治手腕は才知に長けた優れた者であることがわかります。
才能のある人物が権力まで手に入れたのですから、怖いものなしというところでしょうか。
この時点で曹操が持っていた兵の数は50万、将は1000だったと言いますから、まさに大軍です。

参謀の進言を聞き入れた曹操と、参謀の進言を退けた袁紹では、このときすでに勝敗はついていたと思います。
このあと曹操と袁紹は天下分け目の合戦をしますが、わたしから言えば、この時点で曹操が天下を取る伏線が張られています。

もし、このときに袁紹が許攸の進言を聞き入れて、献帝を擁立していたならば、曹操の天下取りを相当遅らせることになったでしょう。

さらに曹操は天子を擁して許都に遷都します。
要するに、曹操はこれで天下に号令を発する立場となったのです。

ビジネスにおいても、ライバル企業との間での競争においてターニングポイントが必ずあります。
そのターニングポイントを抑えるかどうかが勝敗の分かれ目となるのです。

【劉備はターニングポイントに気がつかなかった!】

それにしても、劉備はどうして曹操のように天子を擁護するために動かなかったのでしょうか?
わたしにはそこが不思議です。

たしかにこの時の劉備は徐州を得ていますが、徐州を得るのと天子を得ることと、どちらが重要かという判断がなかったのかもしれないという気がします。
劉備は漢王室の末裔なのですし、もともと領地も官職もなかったのですから、誰よりも天子を抑えるべきでした。
天子のそばに張り付いて離れなければいいのです。

もちろん天子のそばにいるためには官職が必要ではありますが、何よりも天子の信用を得て、天子のそばに存在することが重要であり、漢王室の末裔であるという劉備の素性を最大限に生かす道であったと思います。
もし、わたしがこのときに劉備に仕えている参謀だったなら、そう進言したでしょう。

残念なのは劉備には、関羽、張飛などの武将はおりましたが、知恵者である参謀がいなかったことです。もっと早く孔明と出会っていたなら、桃園の誓いで孔明も義兄弟として存在していたなら、曹操の天下統一に待ったをかけ、先に天子を擁立して漢王室の末裔である劉備が天下に号令を発していたことも十分考えられます。
そうすると三国志の展開はまったく違うものになったでしょう。
劉備は漢王室の再興を成し遂げた人物となり、後に皇帝の座禅定されたでしょう。
曹操との戦いは起きたでしょうが、たとえ曹操が勝利しても反逆者として歴史に名前が残ることになったでしょう。
あるいは、曹操との戦いが起きたその時点で諸葛孔明を得ていれば、大義のある劉備は天下の大軍を動かすことが出来るので、それに軍師孔明の兵法が加われば、さすがの曹操も敵わなかったでしょう。

しかし、歴史的事実は、董卓なき後の天子(献帝)を誰が擁するのかというレースに曹操が勝利したのです。
まさに乱世の奸雄ここにあり。

劉備は徳がありますが、時代の先を読むことは曹操より劣っていたと言えるのではないでしょうか。
だけど、だけどです。
だからこそ、この後、劉備を助ける助っ人として軍師諸葛孔明の出番が回ってくるのですから、歴史というのはよくできたものだな~と思います。

誰の人生にも、企業にもスポーツ選手にも、必ずターニングポイントがあります。
そのターニングポイントを見抜きつかむことが大切です。

【今回の教訓】

『一早く成功したいのなら、中心を攻めろ!』

『誰よりも早く重要ポイント(場所、人、タイミング)を抑えろ!』

『群雄割拠編12 ~部下を叱る~

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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