
『戦うべきか? 降伏すべきか?』
前回は、長坂坡の戦いにおける趙雲の活躍と臣下を想う劉備の話をしました。
今回は、危機的状況の中でトップとその臣下がどう対処するのかという話をしてみたいと思います。

【矛盾する命題への対処】
荊州を攻略した曹操が次に狙うのは当然のごとく長江(別名揚子江)の南、つまり江東(後の呉)であることは明白となっています。
曹操にしてみれば、江東の孫権を降伏させれば、ほぼ天下を統一出来たといえる状態まできていたのです。
そのことは江東を治める孫権やその臣下たちもよく自覚していました。
江東の勢力は孫権の父である孫堅と孫権の兄である孫策の二代に渡って治めてきた土地です。
そうした状況の中で孫権の幕僚たちの意見は真っ二つに分かれていました。
それは次の二つです。
・曹操に帰順し、江東の地を維持する。その場合和平を結ぶか、降伏し領地の安泰を計る。
・曹操の軍勢を迎え撃ち、撃退することによって、領地と孫権を含む政治勢力を保つ。
つまり曹操の大軍と戦って活路を見出すのか、それとも戦わずして降伏し己の命の安泰を計るのか、という矛盾する対処法の対立の問題です。
人間の集団があれば必ず意見が分かれるのは、どこの国でもどんな集団においても同じことです。しかし、その違う意見や考えのどれを取るかによって、滅びに到ることも繁栄が訪れることもあります。
その選択によって180度違う結果が出ることもあります。
ですからその選択を迫る問題が大きければ大きいほど慎重に判断しなければならなくなります。
この時期の孫権の置かれた状況もそうした非常に不安定で一歩間違えば大失敗につながりかねない状況であったのです。

【苦悩の中の光】
一方、追い詰められた劉備は孔明に今後のことに訊ねます。
孔明が劉備に示した戦略は、江東(呉)の孫権を味方につけるというものでした。
孔明の考えは以下の通りです。
曹操と孫権が戦って、もし孫権優勢になれば味方して荊州を手中に治める。
逆に曹操が勝つようなら隙を見て江南を手に入れる。
つまりどちらに転んでも劉備にとっては地盤を手に入れることができる。
それが独自の勢力では立ち向えない劉備陣営の作戦であるということです。
そんなとき、依然として苦境に立たされている劉備陣営に江東からの使者が訪れます。
それは魯粛(字は子敬(しけい))という人物でした。
この魯粛は、孫権陣営の中でも抜きんでた人物であり、ある意味で孔明が唱える孫劉同盟と同じことを考えていたのです。
この魯粛が江夏に来た目的は、曹操軍の戦力を探ることだったのです。
しかし、孔明はそれを好機と見て、魯粛とともに江東へ赴き、孫権を説き伏せ曹操との決戦に持ち込もうと画策するのです。
【降伏論と交戦論の違いの根源】
そんなとき曹操は檄文を何千通も書かせ長江に流します。
孫権はもちろん江東の民をも恫喝するためにです。
これは兵法に長けた曹操ならではの策です。
つまり、実際に戦闘する前に敵の心を攻めたのです。
その檄文を読んだ孫権は怒り心頭したはずです。
しかし、このとき兄孫策から江東の権力を引き継いで数年、年齢はまだ二十代半ばであった孫権は悩んだのです。
ここが三代目の苦悩です。
初代、つまり創業者であれば自分の考えを強く押し出したでしょう。
しかし、三代目の孫権の周りには、父の代からの忠臣たちも多く、彼らの意見を無下にも出来ずにいたのです。
そんななかで孔明を迎えることになったのです。
魯粛とともに江東に着いた孔明は、主孫権と会う前に幕僚たちと論戦をすることになります。
孫権の幕僚の多くは降伏論。
交戦派は少数です。
だいたい歴史的にみるとこういう時に文官は降伏論を唱えることが多く、武将は交戦を主張することが多いのです。
歴史を見る限りいくつかの特徴が表れてきます。
だいたい文官というものは頭が良いので物事を考えることが悲観論に偏ります。さらに自分の身分や財産を維持することを第一に考えて自己安泰を計ることが多いのです。
降伏して江東の地での戦争を避ける。最悪君主(この場合孫権)の首は撥ねられても、自分たち臣下たちは身分を保証されていままでと同じ生活ができるかもしれないと考えるものです。

これに対して武官である武将たちの役割は戦うことですから、そもそも降伏論を主張することは自分たちの役割を放棄したことにもなりかねません。
それに武将というひとたちは、主君(上司)をまもろうとする気概を持っていることが多いのです。
武将の考えは、たとえ負けたとしても勇敢に戦い最後まで主君を守り、家族の住む領土を守るという気持ちが強いのです。
この水と油ともいえる別人種の集団をまとめ上げるのがトップ(君主)の役割なのです。
ここにリーダーシップの要諦があります。
つまり、リーダーシップのリーダーシップたるゆえんはその決断力にあるのです。

【論戦、孔明対張昭】
話を孔明と幕僚たちとに戻すと。
幕僚の中でも切れ者の張昭という人物が孔明に牙をむきます。
(ここでは「三国志Three kingdoms」よりその論戦を引用いたします)
張昭
「劉備が三顧の礼を取って臥龍先生を迎えた。その後水を得た魚のごとく意気込み、荊州を平らげ覇業を成さんとした。なのに、荊州は曹操の手に落ちた。」
孔明
「わが主君が荊州を取るのは簡単でした。同族の劉表がたびたび譲ると言ってきた。けれど主君は同族から領地を奪うことをためらったのです。その隙に曹操が荊州を奪ったのに過ぎないのである。主君は邪な野心を持たないのである」
張昭
「管仲、楽毅は国を助け、世を治める才があった。されど孔明殿は風月を楽しみ、唄をたしなむことが取柄でしょう。劉備殿は孔明殿を迎える前は領地を持っていたのに、孔明殿を迎えてからは戦に敗れては逃げまわってばかりです」
孔明
「燕や雀が林ではなく、こんなところに集まっていたとは意外でした。兵は一万に足りず、武将は関羽、張飛、趙雲しかおりませんが博望坡の戦いでは曹操の50万の大軍を火攻め水攻めで殲滅しました。これは管仲や楽毅の采配に勝るとも劣らず。追手と長江に挟まれ民の歩みは遅く進めるのは数十里。されど敗北しようとも民を捨てなかった。かくも仁義に厚い君主がどこにおりますか。大言壮語する輩こそ目を閉じ、耳を塞ぎ、見れども見えず。いざ敵に臨めどもなにも役に立たない。それでは天下の物笑いです」
孔明は並みいる幕僚たちからの論戦を真正面から受けてたち、打ち負かしました。
孫権の幕僚たちは、孔明などは名ばかりの若造だろうと思っていたのでしょう。
それと孔明を軽く見て、恥をかかせてやろうと考えていたのです。
しかし、孔明の持つ知恵の刃は切れ味抜群だったということです。
【けし掛ける孔明、決断を迫られる孫権】
翌日、孔明は主君の孫権に会います。
(この二人は年齢が近くほぼ同世代です。)
孔明は孫権から曹操軍がどれくらいの勢力を持っているのかと訊かれます。
孔明は、曹操軍が百万の大軍を持っていることを伝えます。
それは魯粛から言うなと口止めされていたことだったのです。
孔明があえて魯粛の意見に逆らったのには、深い考えがあってのことなのです。
孫権はさらに、交戦か降伏かのどちらがいいのかを孔明に問いただします。
孔明は、こう答えます。
「もし江東の勢力で曹操に立ち向えるのならば一戦交え、不可能ならば潔く鎧を脱いで頭(こうべ)を垂れるのです。ご自分で判断なさい」
その挑発的な孔明の発言に孫権はなぜ劉備が降伏しないのかと訊ねます。
孔明は「主君と将軍(孫権)とは違います。我が主君は漢室の末裔です。天が避け、地が崩れ、この世が滅び、たとえ命が奪われようとも断じて降伏はいたしません。」
ずいぶんと生意気な発言に聞こえます。
これは孔明が孫権の置かれている状況をよく把握して、なおかつ孫権の性格を読み取った上であえて孫権のプライドをくすぐるように言葉を発したのです。
つまり、孫権が持っている勢力と比べてもわずかな兵力しか持たない劉備とて逆賊曹操に降ることなく戦う気概を見せているのだ。
なのに、長江という地の利を得、数十万の水軍を擁している孫権がなにを脅えているんだ。
本当は戦うことを望んでいるのだろう、ためらうことは臆病者だ。
男なら潔く戦ってみろ。
負け続けてわずかな勢力しか持たない劉備が命を懸けて戦う覚悟をしているのに、江東の地で戦力を保持したままで臆病風に吹かれて降参するのか。
そう孔明は孫権に問いかけたのです。
しかし、よくやりましたよね。
こんな挑発的な論戦(発言)は、ほんのちょっと間違えば命を失っていまします。
ただし、孔明の主君である劉備陣営は風前の灯火となっていますから、孔明とすれば乾坤一擲の論戦であり、主君を含めた劉備陣営の命運を掛かけての発言だったのです。
まさに命がけです。
ただし、孔明はこうした論戦について、事前に想定問答をしていたはずです。
幕僚たちが指摘する意見、論点などを想定して、その論を撃ち破る考えを練っていたはずです。
さらに孫権という男の性格と孫権陣営が置かれている現状を分析していたはずです。
それが孔明という男です。
この孫権と孔明の論戦は三国志という歴史(物語)の中でも見所のひとつです。
【時を練る曹操】
さて曹操は、劉備が江夏に逃げ延びたのちすぐに進軍をしませんでした。
それは江東の孫権軍が持つ水軍と戦うために、水軍の調練と軍船の製造が必要だったからです。
曹操は急ぎ軍船の製造を命じるとともに、水軍の訓練をさせて来るべき孫権軍との決戦の準備を着々と進めていきます。
さぁ~赤壁の大戦が近づいてきました。

【今回の教訓】
「リーダーシップのリーダーシップたるゆえんはその決断力にあり」
「難度の高い交渉は、相手の性格と置かれた状況を読み、相手の心を刺激してこちらのペースに巻き込め」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。