『赤壁大戦【後編】(打ち砕かれた野望)』
前回は、赤壁の戦いについての話をしました。
今回は、赤壁の戦いの続きについての話をしてみたいと思います。
【曹操、知恵に溺れる】
華容道に進んできた曹操は分かれ道に出くわします。
華容へ通じる間道をいけば近道ですが、道幅が狭く悪路です。
反対の道幅が広い街道は遠回りとなります。
そのとき間道の先から煙があがっているのが見えました。
軍師の程昱などが、煙のある方向に敵軍が待ち構えているから街道を進もうといいますが、曹操はその反対をいいだします。
なぜなら、わざと山路の間道に狼煙を上げさせて伏兵がいるように見せかけて街道に追い込もうとしているのだと予想したのです。
こうして間道を進んだ曹操軍は悪路のおかげで兵も馬も疲れ切って倒れていき、いつのまにか兵士は減っていき、曹操の周りのわずかな数となってしまいました。
そんなときにまた曹操は笑い出します。
「世間では周瑜と孔明を智謀に長けた策略家のように誉めたてるが、二人ともただの能無しだ。ここは狭くて簡単には逃げられない場所だ。わたしのことを簡単に生け捕りにできるはずだ」
その様子を側でみていた程昱は心配になりました。
曹操が笑ったときは必ず劉備軍の武将たちが現われ襲ってきたからです。
【恩に報いるか? 軍律に従うか? 迷走する関羽】
すると狭い間道から蹄の音がゆっくりと近づいてきました。
姿を現したのは関羽でした。
「曹操殿、馬から降りられよ。我が陣営へ連れていく」
関羽はそう呼びかけました。
それに対して曹操は、以前の恩を忘れたのかと、問いかけます。
関羽は忘れてはいないが、その恩はすでに官渡の戦いにて返したはずだと突っぱねます。
曹操は、今度は激しく怒鳴ります。
「そなたは五官で六将を切った。忘れたか? それをわたしが見逃したからこそ黄河を渡って三兄弟と再会できたはずだ。その恩を忘れたのか?」
と、関羽の痛いところをついてきます。
これは、義に厚い関羽が返していない恩があるのだから、見逃せという曹操からの交渉です。
受けた恩を忘れない関羽の性格の弱点を上手くついたのです。
この辺が曹操の優れたところです。
相手の心理を読み、弱点を突く。
苦悩する関羽。
思い浮かぶのは軍師孔明と交わした誓書。
このまま曹操を見逃し、陣営に戻れば軍令によって罰(処刑)を受けることになる。
しかし、関羽は、息子関平が止めるにも関わらず曹操を見逃すのです。
覚悟を決めて関羽は陣営に戻ることにします。
この関羽が追い詰められた曹操を義の心で許す(逃がす)というエピソードが赤壁大戦においては重要な意味があります。
やはり、受けた恩は決して忘れないということが、人間が人としてあるためにはとても大切なことだと思います。
関羽のようにたとえ敵であろうとも、見逃せば自分が命を失うのにも関わらず、義を貫こうとする。そうした関羽の心に多くの人たちが感動します。
「受けた恩は決して忘れずに、その恩に報いる」
現代に生きるわたしたちも、関羽のようにありたいですね!
しかし、このエピソードから学ぶことは、曹操が関羽に対して「心理戦において勝利した」ということです。
実際の戦闘ではありませんが、心理戦という駆け引きにおいて、関羽は曹操に敗北した、ということです。
この論点は私独自の見解です。
他に指摘している人がいません。
つまり、曹操の強さの秘訣と関羽のウイークポイントが“ここにある”ということです。
【曹操の敗戦の要因とは?】
関羽を間一髪のところで説得し、窮地を脱した曹操は南群の城へ辿り着きました。
そのとき曹操につき従ってきた兵の数はわずかに二十七騎だったと言われています。
赤壁での曹操の大敗は黄巾賊討伐の挙兵依頼の最大の敗北となりました。
曹操は生涯でいくつかの敗戦を経験していますが、これほど完璧な敗戦は初めてのことでした。
さぞや悔しかったことでしょう。
天下統一を目前に控えて、自身満々で臨んだ戦に大敗したのですから。
この赤壁での曹操の敗戦をつぶさに見れば、そこに曹操側に敗因が見て取れます。
敗戦の原因
・最大のライバル袁紹を官渡の戦いで破り、河北を平定し、勢いにのった曹操の心に慢心があった。
・北国の兵力の弱点である水上戦で決戦に臨んでしまったこと。(水上戦が得意な相手の土俵で勝負してしまった)
・龐統による「連環の計」、黄蓋による「苦肉の計」などに引っかかってしまった。
(周瑜との知略戦に負けた)
人間は成功が続くとどうしても驕ってしまいます。
曹操も同じです。
慢心していたからこそ、年下の周瑜と孔明を軽くみてしまった。
だから、曹操軍に比べようもない兵力しか持たない呉軍をなめてしまった。
だからこそ、北方の兵が苦手な水上戦での決戦に臨んでしまった。
また、相手をなめているから周瑜たちの計略に騙された。
慢心というものは、一気に成功の座から引きずり降ろします。
それともうひとつ重要なポイントは、曹操がいままで相手にしてきたライバルは、周瑜や孔明ほどの知恵者(実力者)ではなかったのです。
つまり、実力が拮抗するライバルと本当に呼べる英雄たちと今回の赤壁では戦ったという点です。
これは曹操の落ち度ではなく、力関係が拮抗している相手と戦うと勝つことも負けることもあり、また勝負がつかないこともあるのです。
日本で例えると、川中島の戦いの武田信玄と上杉謙信のようなものです。
ただ、曹操にとって残念なのは、軍師(参謀)の郭嘉(かくか)がこの戦いの前年に病死してしまっていたことです。
曹操には数人の軍師(参謀)がいますがその中でも最も信頼していた参謀のひとりが郭嘉であったと言われています。
郭嘉は、官渡の戦いのときに敵将袁紹の戦力を正確に分析し曹操軍に勝利をもたらした人物だったのです。
赤壁の戦いで曹操のそばについていた軍師(参謀)は程昱でした。
(荀彧は大抵の場合、曹操の本拠地で留守を預かることが多い)
もし、郭嘉が生きていて、赤壁の戦いに参戦していたら、「苦肉の計」「連環の計」などで騙されずに、東南の風が吹く前(西北の風が吹いているタイミングで)に曹操軍から攻撃を仕掛けて呉に勝利したかもしれません。
郭嘉という軍事的才能を持った軍師を失ったことが一番の敗因かもしれません。
『赤壁の戦いでの教訓』
「慢心すれば痛い思いをする」
「成功しているときこそ謙虚に事を進める」
「自分の長所で勝負する」
「兵の数ではなく、兵の質を大事にする」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。