『才能を蝕む害虫』
前回は、分裂の危機の中で孫権が決断する話をしました。
今回は、大戦前の火花を散らす頭脳戦の話をしてみたいと思います。
【孔明、兄を説得する】
呉軍の決戦が決まったある日、孔明のところに兄の諸葛瑾(字 子瑜(しゆ))が訪れてきました。
それはもちろん周瑜が裏で糸を引いているのです。
注) 江東と呼んでいた呼び方を今後は「呉」という言い方に変えます。
孔明には実の兄がいて、孫家に仕えていました。
その兄が弟(孔明)を訪ねました。
兄の諸葛瑾は久しぶりに会った弟と茶を飲みながら取り留めもない話をします。
「わたしはよく思うのだ、弟と朝夕ともに過ごせたらと」
そんな兄の言葉から訪問の意図を汲み取った孔明からこう切り出します。
「兄上、劉玄徳殿は漢室の末裔、天子の公淑です。愚弟あえてお願い申し上げる。劉公淑にお仕えを! 兄上の才能なら漢室に偉大な功績を残せましょう。それにわれわれ兄弟も共に過ごせます」
それを聴いた兄の諸葛瑾は言葉を失います。
自分が弟を孫権に仕えるように説得しようと来たのに、逆に説得されてしまったからです。
孔明には、超能力があるようにしか見えません。
マインドリーディングつまり読心術を使っているとしか思えません。
見事に兄の訪問の意図を読み取り、それを兄思いの弟の言葉で封じ込めたのです。
それは兄の説得を見事に打ち砕くと同時に、説得に失敗した兄の立場を悪くしないという離れ業だったのです。
大したものです。
【周瑜の暗殺計画】
さて、孫権から軍権を預かった周瑜はさっそく出陣して、長江の三江口付近に布陣しました。
そこへ劉備陣営からの使者が訪れます。
使者は麋竺で、孔明のことを心配した劉備が送ったのです。
その役割は可能ならば孔明と共に戻り、無理ならば孔明の安否を確かめるということでした。
しかし、周瑜は使者の麋竺に孔明を会わせるどころか早々に追い返してしまします。
さらに劉備に相談事があるからこちらに来るようにと要請します。
劉備は孔明のことが心配だったこともあり、護衛の関羽と二十名の兵を引き連れて周瑜の元へやってきます。
そこで酒の席を用意されます。
周瑜が劉備を宴席に招いたのは劉備を密かに暗殺しようとしたからなのです。
周瑜は孔明の見識の高さと劉備の存在が呉の将来にとって災いになることを予想して今のうちに消してしまおうと考えたのです。
それで部下たちに命じて宴席に紛れて劉備暗殺を謀ったのです。
しかし、劉備のすぐ後ろには羅生門の鬼のような関羽が護衛についています。
そのうち殺気を感じた関羽が劉備に合図を送り、それを察した劉備は宴席から退出したのです。
周瑜は引き留めようとしますが、劉備にへばりつくように守っている関羽の闘気に圧倒されて引き留めることが出来ませんでした。
【周瑜の策略】
劉備が船で引き上げるのを待っていた孔明は劉備にあること伝えます。
それは「11月20日趙雲に船を出させて南岸に待機するように指示してください。東南の風が吹きますから、そのときわたしは殿の所へ戻ります」という予言のような話でした。
劉備は孔明の話を信じて戻って行きました。
劉備暗殺に失敗した周瑜は孔明を呼び出して、策を授けてくれと言い出します。
周瑜は、数年前、曹操と袁紹が戦った「官渡の戦い」において勝敗の鍵がどこにあったのかと、あたかも教えを乞うような質問をしました。
孔明は、「曹操が烏巣に夜襲を掛け敵の兵糧を焼き払った。袁紹軍はこの夜襲で大混乱に陥りました」と答えます。
それを聴いた周瑜は、やはりわれわれも敵の兵糧を断つべきだと主張し、孔明に曹操軍の兵糧の拠点に夜襲を掛けるよう軍令をだすのです。
しかも鉄騎を二千騎与えるから孔明自ら関羽らを引き連れて夜襲を掛けろというのです。
孔明は深く考えてから「大都督の軍令受けぬわけにはいきません」と言って劉備軍の武将たちに書状をしたためると約束してしまうのです。
これはどう考えても周瑜の策略です。
曹操は誰よりも兵糧の重要さを深く理解しています。
その曹操軍の兵糧の拠点を攻めるというのは死に行くようなもの。
(ここで「三国志Three kingdoms」よりそのやり取りを引用いたします)
孔明を疑っている周瑜は、魯粛に孔明が本当に戦支度をするのか確かめさせます。
魯粛が孔明の陣に行って確かめると、大都督の軍令には逆らえないといいます。
その言葉を聴いて魯粛は言います。
「そなたは曹操軍に夜襲をかけて成功すると思っているのか」と。
孔明が答えて、
「わたしは臥龍の異名を持っているものです。周瑜殿とは違います」
すると魯粛がさらに聴いてきます。
「教えていただこう。そなたと周瑜とはどこが違うのか?」
孔明はためらいもなく言い放ちます。
「この孔明には水上での戦、歩兵や騎馬を使っての戦、いずれも出来ぬものはない」
自慢話のようなことを言った後にさらに付け足します。
「周公瑾殿は水上戦しか出来なくて、他の戦法は不得手なのだ」と悪態をつきます。
魯粛は、その話を周瑜に報告します。
すると怒った周瑜が夜襲は俺が行くと言い出しました。
孔明は、軍令に逆らわずして、周瑜の罠から上手く逃れたのです。
後から魯粛に、軍令が撤回されなかったらどうしたのかと訊かれましたが、孔明はその場合は、借りた鉄騎二千を失って、ほうほうのていで逃げ帰って大都督に許しを乞うたでしょうと笑って答えました。
このへんのやり取りは孔明と魯粛の腹芸です。
魯粛は孔明の口から、「周瑜が水上戦しか出来ない」と聴いたときに孔明の意図を読み取っていたのです。その上で、あえて周瑜に報告に行ったのです。
つまり、いま孔明を死なせては良くないと思っていたので、孔明の言葉を周瑜に伝えれば軍令を撤回すると踏んでいたのです。
魯粛が孔明を死なせたくない理由は、孫劉同盟を持って魏に対抗する戦略を魯粛が描いていたからです。
このように周瑜が孔明を陥れようとしても、するりするりと抜けていってしまうのです。
魯粛は孫劉同盟を指示する立場なので、孔明の存在が必要とされていたのです。
【魯粛なくば、孫劉同盟もない】
三国志に登場する人物の中で英雄気質な人物たちはたくさんいますが、この魯粛という男は大変重要な人物で賢く人格も優れているのです。
この魯粛という人物がもしいなかったら孫劉同盟は結ばれなかったかもしれません。
周瑜と孔明の間に魯粛という緩衝材があったからこそ赤壁の戦いで勝利を得ることができたのです。
もちろん水軍を率いる周瑜の軍事的才能も絶対的に必要ですが。
これは日本の幕末の明治維新における薩長同盟における坂本龍馬に近い存在と言えます。
劉備と孫権が同盟を結ぶためには魯粛という優れた戦略家が必要だったのです。
そういう意味では、もっと歴史は魯粛を評価するべきでしょう。
【エピソードからの学び】
これらのエピソードにおいて学ぶべきはなんなのか?
一言でいうとするならば、それは
「嫉妬は才能を潰してしまう」
ということです。
(潰してしまうのは当然嫉妬する方の才能です)
周瑜は明らかに自分よりも物事の先を読み、深く人心を知り、高い見識を持つ孔明に嫉妬しているのです。
その嫉妬がゆえに、自分よりも賢い知恵者がいるのが気に食わないから、それを権力で取り除いてしまおうとしたのです。
名門の家に生れて、容姿端麗で、賢者として名声を得ていたプライドから自分よりも優れた知恵者の存在を認められなかったのです。
いや、認めたくなかったのです。
あまりにも高過ぎるプライドです。
周瑜ほどの才能があるにも関わらず、孔明や趙雲などと比べて人気があまりないのはこの辺の暗い部分が影響しています。
頭の良さ、賢さの使い方を間違えています。
知恵は人を生かすために使うものです。
人を陥れるため、あるいは殺すために使ってはいけないのです。
それが周瑜の間違いです。
その反作用は自身の精神を蝕み、やがて若くして死することにつながるのです。
嫉妬心やそこからくる恨み心などは人間の精神を破壊します。
それらのマイナスの感情を持っていると肉体にも悪い影響がくるのです。
周瑜はそのことを理解できませんでした。
周瑜ほどの知恵者が孔明と団結して魏(曹操)と対峙していれば、曹操の野望を打ち砕き、中原を攻め取ることも可能だったでしょう。
その場合、歴史は大きく変ったことでしょう。
実に惜しいです。
【今回の教訓】
嫉妬の心を持つとそこから向上しません。成長しません。
他人の才能に嫉妬するのではなく、それを手本とし、自らの努力と変えるべきなのです。
「嫉妬は才能を蝕む害虫」
「知恵は人を生かすために使うもの、人を落し入れるためのものではない」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。