
【曹操の残虐性】
曹操という男を考える上で、避けて通れないのが彼の持つ「残虐性(残虐行為)」だろう。
中原に覇を唱え、魏王となり、三国志の中で一番の実力を持ち、歴史上稀有な存在と呼べる曹操だが、なぜか人気がない。
曹操の才能は誰もが認める実力者。
だが、なぜか庶民に愛されない。
その理由が、曹操の持っている「残虐性」であることは間違いない。
ここに曹操が行ったとされる残虐行為を記す。
〈呂伯奢殺害事件〉
曹操の残虐性を決定づけている事件である。
呂伯奢殺害事件とは?
正史『三国志』には、この呂伯奢殺害の話はない。
それは正史『三国志』が魏を正統な王朝とみなしているからだ。
呂伯奢殺害事件は、王沈(おうしん)の『魏書』に記述がある。
董卓殺害に失敗した曹操が董卓の手配から逃れるために逃走していたときのこと。
呂伯奢のもとを訪ねた曹操を呂伯奢の子供たちが食客とグルになって脅し、馬と持ち物を奪おうとしたため、曹操がこれを殺害したと記されている。
これだとすすんで殺人をした、というより、強盗にあって正当防衛的に相手を殺害したということになる。
しかし、正史『三国志』と『魏書』のどちらも曹氏の魏を正統としているため、曹操に非がないように書かれた可能性もある。
しかし、曹操を残忍な男としてのイメージはこの呂伯奢事件によって出来上がったといっても過言ではない。
進んで殺したかどうかは確かな証拠はないが、似たような事件が起こったことがあるに違いないと思われる。
〈徐州虐殺事件〉
曹操が父曹嵩を引き取ろうとしたことがあった。
曹操の願いに応えて曹嵩は一家老幼を従えて曹操の元へ向かった。
途中、徐州を通ったとき事件が起こる。
徐州の太守陶謙がそれを聞きつけて自ら出迎え、盛大な宴会を二日間も設けて歓迎する。
ところが、曹嵩一行を送り出すために部下を護衛につけるのだが、あろうことか部下たちは曹嵩に贈った食料や財宝に目がくらみ、曹嵩一行を殺してしまったのです。
事件を知った曹操の怒りは、怒髪衝天をつきます。
父の恨みを晴らすため、曹操は徐州へ大軍で攻めこみます。
世にいう「徐州虐殺」です。
このときの虐殺は日本では考えられないほど悲惨な出来事でした。
犬や鶏まで殺され、死体の山で川の流れが止まったと伝えられています。
大人も子供も、年寄りも女人も殺されました。
いくら父親の仇とはいえ、なんの関係もない領民や動物たちまで殺戮した「徐州惨殺」は曹操の残虐性を一番よく現わしたエピソードであるのです。
〈荀彧の死〉
三国志『荀彧伝』には「憂いを以って死んだ」という文章が記されている。
荀彧は曹操が中原を治めるのに最も信頼し、頼りとした人物である。
曹操は荀彧がやってきたときに「わが子房来たる」と感激した言葉をはいている。
(子房とは、漢王朝を建国した三傑の一人である張良のあざな)
荀彧に大きな信頼を寄せていた曹操のはずだったが、曹操が漢の丞相になったころから二人の間に溝ができ始める。
荀彧は漢王朝への忠義心があり、曹操の天下取りを助けたのも倒れかけている漢王朝を再興するためだった。
荀彧は「忠貞」や「徳」といった儒教的理念を掲げていたので、曹操が魏公になることに猛反対した。
漢王朝で魏公、魏王へと昇ろうとする曹操とそれに反対する荀彧との対立は決定的となった。
つまり、二人の最終目標がずれていたことが露呈したのだ。
さすがに曹操は直接荀彧に対して処罰をしなかったが、荀彧が病で寝込んでいるとき、曹操が食べ物を贈ってきた。
荀彧があけてみると、空の容器だけで中には食べ物どころか何も入っていなかった。
荀彧はそこに曹操の意思(メッセージ)を読み取った。
「おまえは役に立たない。自分でどうすればよいのか考えてみよ」という問いかけだったのだ。
荀彧の死にはいくつかの説があるが、薬を飲んで自殺したというのが一番有力である。
これが真実であれば荀彧は、曹操から処刑されたのも同然である。
荀彧ほどの功績がある人物でも自分に逆らう者は許さない、という曹操の残忍さがそこにある。
荀彧が亡くなった翌年に曹操は魏公に就いている。
〈孔融を処刑した〉
孔融は曹操の中に眠る漢王朝を簒奪する野望を見抜いていた。
漢王朝に忠義を尽くす孔融は、曹操を常に批判した。
漢王朝は「儒教」を正式に国教としている。
その漢で儒教の始祖孔子の子孫として孔融は儒学者の尊敬を集めていた。
また、自身もそのことにプライドを持っていたと思われる。
それが曹操には不遜に映っていた。
孔融は、曹操を批判したことで処刑される。
しかも、孔融の妻と幼い子供たちも殺された。
孔融一家は、「棄市(きし)」といって、処刑後、遺体を市場に捨てるという刑(処分)にされたのだ。
曹操はそれだけで終わらせなかった。
遺体に近づくものがあれば連行してこいと命じていた。
もし、孔融の死を悼んで遺体になにかしようものなら、孔融と同等の大逆人として投獄して処刑するとした。
孔融の死さえも、自分に歯向かおうとする者をあぶりだすことに利用したのだ。
孔融と曹操の対立には、政治に対する根本的な違いが影響している。
孔融は、肉刑反対論者であり、曹操は猛政(厳しい処罰)を基本としていたからだ。
だが、それよりも曹操は孔融の高飛車な態度が気に入らなかったのだ。
権力を手に入れた曹操にへりくだらない孔融という人間が嫌いだったのだ。
〈崔エンを殺した〉
崔エンはもともと袁紹に仕えていた人物であるが、官渡の戦い以後、曹操に仕えることになる。
崔エンは河北に強い影響力を持つ儒教官僚であった。
だが、儒教的価値観を破壊しようとした曹操は、この崔エンも「唯才主義」の3度目の布告をする前年に殺害している。
〈華佗を殺した〉
中国は三千年のなかで数多くの名医を輩出してきた。
そのなかでも後漢末から三国時代にかけて活躍したのが華佗である。
華佗は名医として評判が高い。
華佗は、麻酔薬を使用した外科医学の開祖とされている。
華佗の医療知識は幅広く、内科、産婦人科、小児科、鍼灸、予防衛生、健康増進などの各分野にすぐれた才能を発揮した。
『魏書華佗伝』には、薬の処方に精通していたことが記されている。
華佗が、病状に応じて、数種類の生薬をとり合わせて煎じる。
それを患者に飲ませ、二、三の注意を与えると、それだけで病気が良くなったという。
こうした名医の評判は時の権力者である曹操の耳に入った。
曹操は、常に持病である頭痛に悩まされていた。
そこで華佗を召し出したのだ。
華佗が針を打つと曹操の発作はたちまち治まったという。
曹操は、発作がひどくなるにつれて、片時も華佗を手放せなくなった。
しかし、華佗はあくまでも士人だと意識していたので、医者としてしか見られないことに不満をおぼえた。
そこで華佗は、曹操のもとを去ることにする。
故郷に帰った華佗に曹操から治療にくるよう催促が届くが、華佗は妻の病気を口実に帰京を引き延ばした。
曹操は、なんども帰京をうながした。
それでも華佗は曹操のもとへ行こうとしなかった。
怒った曹操は、華佗の様子を調べさせた。
その際に、本当に妻が病気なら小豆四十石を見舞に贈り、期限を決めてもう少し暇(時間)を与えてもいい、だが、嘘だったらただちにひっ捕らえてこいと命じたのです。
こうして華佗は、護送されて都の獄につながれ、取り調べの結果、罪を認めた。
華佗の医術を惜しむ声は都でも多く、荀彧も「華佗の医術は世にならびなきもの。大勢の人の命が彼の腕にかかっています。それを考えれば殺してはなりません」と忠告した。
だが、曹操は、「かまわん。医者など天下に掃いてすてるほどおるわ」と言って、華佗を獄死させてしまった。
華佗は、いまわの際に一巻の医書を獄吏に差し出してこう語った。
「これがあれば、人の命を救うことができましょう」
しかし、獄吏は後に禍となることを恐れて医書を受け取らなかった。
華佗も無理強いはせず、火を借りて医書を燃やしてしまった。
華佗を殺したあとも曹操は相変わらず頭痛に悩まされた。
華佗を殺してしまったがゆえに、赤壁の戦いの最中に曹操は頭痛で悩まされることとなる。
因果応報なのだ。
〈その他の謀反を起こした人たち〉
200年、董承が反曹操のクーデターを起こすと、曹操は鎮圧し、董承の一族一党をことごとく誅殺した。
董承の娘は後宮に入り、帝に寵愛され懐妊していたが、曹操は「謀反人の子を生ませることはできない」といって子を宿した側室を処刑してしまった。
楊脩も曹操に処分されたひとりである。
もともと曹操は楊脩を気に入らなかったのではないかと思われる。
それは楊脩の父は大尉を務めた漢王朝の名門の家系の出であり、秀才で名門の楊脩の言動に傲慢なところがあったことが原因と思われる。
曹操が漢中の戦いで劉備に破れ撤退するときにおもわずつぶやいた「鶏肋」の意味を理解し、兵に撤退の命をだした楊脩に強い警戒感をもった。
楊脩も難癖をつけて処刑されたひとりである。
これが、曹操が庶民に愛されない理由である。

『曹操伝9』に続く。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。