【曹操の魅力】
ひとりの人間をどう評価するか。
「魅力とは何か」と考えていると、それは二つあると思う。
私は曹操の魅力を二つの観点から考えてみたい。
それは、「才能などのその人が持っている実力(能力)」と「性格からくるその人の人間性の魅力」である。
簡単にいうと「才能」と「性格」である。
《曹操の才能》
〈権謀術に長けている〉
曹操に限らず、群雄割拠する乱世で活躍し、天下取りに名乗りを上げるためにはこの“権謀術に長けている”という能力は絶対的といってもいいくらい必要な才能である。
もし、本人に権謀術の才がない場合は、権謀術の才を持つ者の協力者が必要となる。
(劉備における諸葛亮のように)
“権謀術”というものは、きれいごとだけでは済まない。
むしろ“清廉”という言葉の対極にあるものであると言っていいだろう。
「悪どさ」「えげつなさ」「図々しさ」「嘘」「騙す」などの要素が入っているからだ。
曹操の場合は、ペテン師スレスレのところがある。
曹操には、人との駆け引き、政治上の権謀術に優れた才能が見て取れる。
〈用兵の大才がある〉
乱世の英雄に必要な「才」は当然のごとく「軍事的才能」である。
曹操は、『孫子の兵法』などの兵法書を読み込み“兵法に精通”していた。
現代のわれわれが『孫子の兵法』を学ぶことが出来るのも、曹操のおかげといっていい。
現存する『孫子の兵法』は、曹操が注釈を記した『魏帝注孫子』によるからだ。
『孫子』のテキストを現在の形に整理し、注釈を施したのが曹操なのである。
私たちが目にする『孫子』は、基本的に曹操の『魏帝注孫子』から出ているのだ。
曹操は、兵法書(代表的な兵法書は七つある)の中でも『孫子』を一番優れたものとして、常に孫子の兵法書を手放さなかった。
曹操は、若いときから中原に覇を唱えてからも、常に書物を手放さなかったほどの読書家であったが、その中でも一番読み込んだと言われているのが『孫子の兵法』なのである。
しかも、孫子の兵法を闇雲に信じるだけではなく、曹操独自の考えを注釈として書き記したのだ。
だから、平和な世の中であれば一流の兵法学者となる才能を持っていたのだ。
また、もし、曹操が無欲で謙虚な性格であったなら、歴史に残る「名軍師・名参謀」として名を残しただろう。
正史『三国志』の記述では、「曹操の用兵は孫呉の兵法に則り、その時々の情況に応じた臨機応変な戦い方を得意とした」とある。
さらに、曹操には「辛勝」が無かったという。
「辛勝」とは、ラッキーな勝利という意味だ。
裏を返せば、偶然に勝利したことはなく、孫呉の兵法に則った臨機応変、変幻自在な戦い方をすることで勝利した、ということである。
(注:孫呉の兵法とは『孫子の兵法』と並び立つ兵法書『呉子の兵法』の二つを合わせていう)
つまり、曹操の勝利は常に実力勝ちであるということだ。
ただ、曹操は一度も負けたことのない常勝将軍ではない。
赤壁の戦いなど、何度か手痛い敗北をしている。
しかし、曹操の曹操たるゆえんは、敗北体験から学び、同じような負け方を二度としなかったことにある。
負け戦から必ずなにかを学んだのだ。
負けてもさらに強くなって立ち上がるのが曹操という男なのである。
〔曹操の用兵の姿〕
正史のなかの曹操は、『孫子』の理念と兵法に則った様子が見て取れる。
魏の王沈はこの述べている。
「その行軍や用兵は、おおよそ孫子・呉子の兵法に依っていた。事に応じて奇を用い、敵を詐って勝ちを制し、その変化は神のようであった」と曹操の軍事的才能を高く評価している。
また、正史『三国志』の著者陳寿は「韓信・白起の奇策に通じていた」と古(いにしえ)の名将になぞらえている。
さらに正史によれば曹操は『接要』という自らの兵書を編纂したという。
曹操軍の将軍たちは出征する際に、みな曹操の兵書を携えたと言われている。
トップ(君主)個人の兵学研究の成果を軍の幹部たちが共有し、実戦に用いていたのだ。
これが曹操軍の“強さの秘密”でもあった。
(これは世界史の中でも珍しいことである)
軍を率いる曹操の姿は、陣頭指揮型である。
指揮官の曹操は、常に兵士と行動を共にした。
だからこそ厳しいワンマンであったにも関わらず兵士や百姓たちがついてきたのだ。
采配ぶりは、好機とみればいっきにたたみかけるが、形勢不利と見れば、けっして無理押しをしない。
つまり、勝負の機を見るに敏なのである。
〔曹操の戦い方〕
曹操の戦い方には3つの特徴がある。
1.曹操は『孫子の兵法』を徹底的に研究し、実戦に活用した。
曹操の戦い方は孫子の兵法にきわめて忠実で、戦略・戦術の基本は、まさに孫子の兵法そのものであった。
2.曹操は同じ負け方をしなかった。
曹操は生涯に約30回戦いを交えているが、勝率は8割ほど。
曹操は敗北を喫すると、そのたびになぜ敗れたのか、なぜ勝てなかったのか、敗因を徹底的に分析し、そこから教訓を引き出して、次の戦いに生かしている。
3.曹操は、撤退戦の決断力に優れていた。
つまり、戦いの“見切り”が素早いのである。
これ以上戦ってもいたずらに損害を増やすだけだとみるや、サッと撤退して戦力を温存し、次のチャンスを待つ。
実は、戦で一番難しいのが撤退戦である。
(これは会社経営でも同じ)
曹操は、形勢不利と見れば素早く撤退の決断をした。
この“素早く”という点が大事なのである。
形勢が不利なのか有利なのか判断できずに、ズルズルと戦を長引かせた末に敗戦してしまう武将は多い。
だが、曹操は“進むか退くか”の判断が早いのだ。
これは意外と難しいことなのである。
人間はどうしても欲が出て、楽観的に物事を期待してしまうところがある。
勝負を客観的に見られずに主観的な期待を込めて捉えてしまう。
そうすることで撤退するチャンスを逃して被害を拡大、あるいは敗北となってしまうことがある。
曹操には、それらがほぼないのだ。
唯一、赤壁の戦いが例外かもしれない。
曹操の戦い方は、機動性や運動性を得意とした。
進むのも早ければ、退くのも早い。
曹操の性格が反映された曹操軍は基本的に少数精鋭主義だった。
〈その他の才能〉
曹操は歴史上稀に見る多才の持ち主である。
兵法・武芸・文学・儒教・音楽・建築学に優れた才能を持つほか、草書・囲碁が得意で養生の法を好んだ。
中国史でも最高の知識人といっていい。
曹操は薬や処方にも詳しかった。
本草学の知識を通じて、民間の医療ないし食糧事情をよく理解していた。
日本の戦後時代の最終的勝利者である徳川家康も自分で薬を煎じていたが、曹操もそれに通じている。
〈まとめ〉
「軍事的才能と権謀術に長けている」
(兵法の大家であり、天才的軍師でもある)
「政治家としても外交官としても一流」
「文学の才、学者の才などの大才の持ち主」
「中国史上でも最高の知識人」
《曹操の性格(人間性)》
〈自我意識が強い男〉
曹操の性格に見る特徴は、自我意識が強いことである。
何事につけても自己中心的でないとすまないことだ。
曹操のリーダーシップは、極端なワンマンタイプである。
曹操という男を知るうえで大事なポイントは、他人の才能を求める点だ。
しかし、それは利用価値のあるうちは相手を大事にするが、利用価値がなくなると、たとえ過去にいかなる功労がある人間であっても、斬って捨てる残酷な面を持っている。
(もっとも分かりやすい事例は、荀彧を死なせたことだろう)
だから、他人の才能も曹操にとって役に立つかどうか、という自己中心的な判断がそこにあるということだ。
司馬懿(仲達)の才能を認めながら、曹操は司馬懿の野心を警戒し、曹操在世のときは司馬懿に軍事の役職に就けていない。
曹操ほどの男が、司馬懿の軍事的才能に気がつかないわけがない。
なのに、司馬懿を軍師や将軍として使用しなかったのはなぜか。
それは司馬懿に大きな軍権を与えてしまうと、曹操の魏を脅かす存在となると腹の底で読んだからだ。
つまり、司馬懿の軍事的才能は曹操(魏)の政権にとってマイナスとなると判断したということだ。
〈多くの意見に耳を傾ける男〉
曹操という男の性格的特徴で優れたところでもあり、曹操を中原の覇者たらした要因がある。
それは「正しいと思った意見は、面子にこだわらずに取り入れる」という性格(人間性)である。
曹操は、自分で軍略を立てられるほどの智謀を持っている。
なのに、必ず部下に意見を求める。
そして優れた意見があれば、それに従う。
度量が大きいと言えるし、部下の教育にもなる。
一石二鳥である。
才能(能力)があるということは、自信があるということだ。
実力がある人間は、自分の判断に自信を持つものだ。
自分の知力(判断力)に自信を持っていれば部下がよい策を進言しても、拒絶してしまうことが多い。
これは“できる男”の共通の姿だ。
だが、曹操にはそれはない。
実に驚くべきことだ。
〈大義名分を大事にする男〉
曹操は大義名分を大事にした。
曹操に関して大きな疑問がある。
それは「曹操はなぜ皇帝とならなかったのか?」ということだ。
日本の戦国時代に大義名分を大事にした代表的な武将がいる。
越後の上杉謙信だ。
関東管領として関東甲信地方の秩序を保つための戦をしていた戦国時代でも珍しい武将です。
“義”という旗印を持ち、戦をした武将でした。
上杉謙信の戦をするかしないかの判断基準が「義があるか、ないか」だった。
それほど“義”というものは乱世と英雄から切り離して考えられないものなのです。
ではなぜ“義”が大切とされるかというと、後の世で“汚名”をかぶりたくないからなのです。
それと義がないと人の心が離れてしまうからです。
あいつは私利私欲のために権力を行使している、と思われたら、必ずそれを倒そうとする人物や勢力が現れてきます。
そういった事態を引き起こさないためにも大義(正当な理由)が必要とされるのです。
また、“大義をかかげる”ことで、多くの人の心を一つにまとめ上げ、集団(組織)の勢いを増すことができます。
大義なくしては、どんなに優れた人物であっても多くの人の協力を得られないからです。
この戦国の世に見られる大義というのは、現代社会においても使われている手法でもあります。
現代社会の大義はどこにあらわれているかというと「理念」です。
企業であれば、自社はなんのためにあるのか?
ということを明確にすることで、社員の士気を高め、組織の指針とし、目的地を目指すことができるようになります。
「若き日の曹操」でも述べましたが、曹操は漢の将軍として天下に平和をもたらすという大義をもって立ち上がったのです。
端的に表現すれば「大義なきは英雄にあらず」と言えましょう。
経済社会的に言えば「大義なき事業は発展する理由を持たず」と言えます。
〈冷徹な男〉
曹操は冷徹な男である。
これが三国志に登場する多くの英雄たちと比べても実力が飛びぬけているにも関わらず人気がない理由である。
簡単に言ってしまうと「賢いが冷たい人間」なのである。
だが、この特徴は歴史を改革するイノベーターに必須の条件でもある。
歴史の英雄の中には大きく分けると二つのタイプがある。
「古い時代を破壊する者」と「新しい時代を創造(建設)する者」である。
曹操はその両面の才能を持つが、どちらかと言えば前者の「時代を破壊する者」の役割を歴史から与えられた存在といえる。
“冷徹さ”がなければ古い時代を破壊することなどできないともいえる。
この冷徹さが曹操のイメージとして定着している。
情に流されていては古い時代を破壊することは出来ないのである。
そして、なぜか冷徹さを持つ英雄が天下を取ることが多いのも歴史の事実である。
〈親孝行な息子〉
冷徹な性格の中に見せた一辺の情がある。
曹嵩(父)が旅行中に陶謙の部下(護衛兵)に裏切られて惨殺されてしまう。
曹嵩一行は財物を持って移動していたので、その財物目当てに殺されてしまったのだ。
現代的に言えば、強盗殺人事件にあってしまったということ。
曹嵩一行には息子の曹徳がついていたが、父曹嵩とともに命を奪われた。
(曹徳は曹操の弟で、このとき15歳か16歳であったと言われている)
この父親の死に対して曹操は常軌を逸するところがあった。
訃報を聞くと人目を気にせず号泣し、その場に倒れ伏して、拳を大地で叩きつけた。
衣服は泥まみれになったが、いっこうに気にしないどころか、父の死に号泣し続けたと言われている。
現在残っている歴史書の中でこのように感情を爆発させる曹操の姿は皆無だ。
普段の曹操は冷徹な姿を見せている。
だが、このときの曹操は号泣、嘆き、憤怒の感情を吐き出している。
後にも先にもこのような姿はない。
それほど曹操にとっては曹嵩という父親が大きな存在だったのだろう。
つまり、曹操は父曹嵩が大好きだったのだ。
もしかしたら、曹操は父親っ子だったのかもしれない。
曹操という男にはあまり“情緒”というものを感じないが、父親への愛情は深かったということだ。
曹操は理解していたのだ、自分に愛情を注いでくれた父のことを。
そして、父曹嵩がいなければ自分の出世(成功)はなかったことを。
情緒に欠ける曹操が見せた唯一の情かもしれない。
真実として言えることは、曹操は間違いなく親思いの人間(親孝行)だったことだ。
〈『実学』を大事にする男〉
曹操は、『孫子』などの兵法書や歴史書など読書家として知られているが、それはあくまでも現実の天下取りに役立つものとして学んでいたと思われる。
曹操は、あくまでも「実学」の人なのだ。
役に立たない学問は軽蔑してやまない性格をしている。
これは合理的な性格といえる。
つまり、「役に立つか役に立たないか」を強く意識する性格だったということだ。
漢王朝に仕えていた孔融という人物を曹操が嫌っていたのも、彼の学問が儒教を根本としていたが実際に乱世を終わらせ、世を治める力がないと思っていたからだろう。
曹操は、孔融の「学」を机上の空論と思ったのだ。
(孔融は、儒教の祖である孔子の子孫)
三国志の時代(漢王朝末期)は、「清談」と呼ばれる名士たちによる政治談議が盛んになっていた。
(竹林の七賢と呼ばれる士が有名)
曹操は、そうした議論のための議論、実権をともなわない学問を唾棄(だき)していた。
実に合理的で現実的な性格をしている、ということだ。
〈『厚黒学』からみた曹操の性格〉
中国には、『厚黒学(こうこくがく)』という珍書がある。
この本の中で、乱世を生きるためには「厚」と「黒」の二つの条件が必要だと述べている。
「厚」とは、面の皮の厚さ、「黒」は、腹黒いという意味である。
この『厚黒学』では、「黒」の代表各として、魏の曹操を挙げている。
つまり、曹操は“腹黒い”というわけである。
では、「厚」は誰なのか? というと、実は劉備なのである。
(劉備に関しては『劉備伝』に譲る)
“腹黒さ”も曹操についてまわるイメージだろう。
たしかに、曹操は腹黒い男だったといえる。
〈まとめ〉
曹操という男は
「小事にこだわらぬのに疑い深い。寛容に見えて用心深い」
(多くの人から意見を求め従うが、その人物を心の底から深く信用することはない)
「合理的で腹黒く、情緒がない」
「親孝行であるが、冷徹な性格である」
「大義を大切にするが、自己中心的な男である」
『曹操伝5』につづく
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。