『決戦の勝敗を分けるもの(1)【官渡の戦い】』
今回は、決戦の勝敗を分ける要因という話をしてみたいと思います。
【曹操による袁紹という将の評価とは?】
袁紹は天地と先祖を祭って逆賊曹操を打つために70万の大軍を率いて出兵します。
袁紹は4州を支配しており、当時の中国大陸で最大勢力を持っていました。
袁紹は天下を手中に治めるために曹操のいる許都へ出陣したのです。
ここに官渡の戦いの火ぶたが切って落とされました。
対する曹操は7万の兵力です。
つまり10倍の兵力差ということになります。
兵力そのもので見る限り曹操に勝ち目はないと誰もが思うでしょう。
現代に生きる私たちは歴史の結果を知っているから、10倍の兵力差だと言われても曹操の勝ちと分かっていますが、西暦200年のこの時代の人たちはどう考えたでしょうか?
袁紹の軍に所属する将や兵士は自分たちのほうが遥かに大軍なのですから勝つに決まっていると思い、勝利を信じて出陣したことでしょう。
一方、曹操陣営の将や兵士たちは不安だったでしょう。
曹操が兵法に長けていることも類まれなるリーダーシップを持っていることも知っていたでしょうが、相手は70万の大軍ですから、負けることは十分に考え、覚悟もしたことでしょう。
出陣前の二人の心境を比べてみましょう。
曹操が出陣の際に、部下を前にして語ったと言われているセリフから読み解いてみます。
(ただし、史実かどうかは判明しません)
「20代のころは、わしはやつを尊敬していた。しかし、40になるとわしはやつを軽蔑するようになった」
「袁紹は、人の上に立つには度量が乏しく、見識が浅い、外面は寛大だが内面は嫉妬深く、頑固で疑り深い、統率者でありながら策に溺れ度胸に欠ける。そのくせ兵の数ばかり頼り、指揮は不統一、将兵たちも命令に従わない。さらに身内ばかりを重用する。袁紹は指揮官として決して人の上に立つ器ではない」
曹操という男は冷静に袁紹を分析しているのです。
それでも曹操にしてみれば初めから袁紹を最大のライバルと考えていたのです。
いずれ来るであろう袁紹との決戦のために逆算して戦略的に行動していたのです。
それは数年前から(10年近く前)から袁紹との決戦を想定してさまざまな準備をしていたのです。
袁術を打ち、徐州を手に入れ、江東の孫権(官渡の戦いが起きた時点では兄の孫策が死んで弟の孫権がその後を継いでいた)と同盟を結んで徐々に対袁紹戦に備えていたのです。
一方、袁紹の勢力は拡大していましたが、袁紹自身の心の中に問題がありました。
袁紹と曹操は若い頃からお互いをよく知る間柄だったのですが、袁紹は代々漢王朝の高官を務める名門の家柄で、曹操の祖父は宦官(宦官とは去勢した男性のこと)、両者の地位からみれば袁紹の方が遥かに立場は上だったのです。
ですから袁紹の心の中には曹操を卑しい身分の人間と“見下す気持ち”があったことが見て取れます。
要は、袁紹の心には慢心があったのです。
うぬぼれです。
名門出身の袁紹は下積みの時代もなく、苦労らしい苦労はほとんどなく今の地位を得ています。
そういった人間に共通して言えるのが、「謙虚さの欠落」です。どうしても自分を他人と比べて自らを上に見てしまい、他人の実力を客観的に評価することが苦手なのです。
(名門出身の人がすべて袁紹のようではないことは述べておきます)
しかも、袁紹のほうが10倍の兵力を擁しているのですから、まさか負けるなどとは思っていないでしょう。
袁紹の性格から考えて、少しでも負ける要素があると思ったら挙兵しなかったでしょう。
しかし、大軍であるから必ず戦に勝利するとは限らないのが歴史の鉄則です。
現代とは違って、この時代の戦には兵の数ということが勝利のためには重要であることに間違いはありません。
けれど兵の数よりも大事なのが「兵の士気」と「兵の質」です。
この点において曹操の率いる兵の質のほうが高かったのです。
周到に準備をしてきた曹操と、数を頼りにして相手を見くびっている袁紹の二人で将同士の比較をすれば、明らかに将としての勝敗は曹操にあがります。
曹操は各地から精鋭を選りすぐって訓練を繰り返していたのです。
よって兵の質は袁紹軍よりはるかに高いと言えます。
【戦の要とは?】
袁紹は黄河を渡って陽武という場所に陣を張ります。
対する曹操はその南の官渡に兵を集結させます。
曹操軍の問題点は兵の数だけではありません。
一番の問題は兵糧です。
袁紹は70万の大軍を擁していながら、兵糧に十分な余裕があります。
兵糧で考えるなら、袁紹は戦が長引いても戦を継続できるが、曹操軍は短期決戦に持ち込むしか勝機はなく、長期戦になると不利になります。
先の太平洋戦争で日本が敗北した理由の一つが兵站つまり補給を軽視したためであることは明らかです。
古来、戦とは兵糧(補給)の継続ということが重要なのです。
【戦の勝敗と決める最大の要因とは?】
そして、戦の勝敗を決める最大の要因とは、実は「将の器」、「将の実力」なのです。
これは現代の企業間のビジネス戦争に当てはめても同じことが言えます。
1万人の大企業と500人の中小企業とが同じ土俵でまともに争ったら中小企業に勝ち目はありません。
しかし、必ずしも大軍や大企業が勝利するとは限りません。
それは組織や集団を率いる将の力が違うからです。
結局、組織は将(リーダー)次第で強くもなれば弱くもなります。
リーダー次第で、勢いを増すことも士気を落すこともあるのです。
曹操は、袁紹との決戦において現実的には出来るだけ領地を広げ、兵の訓練を積んで精兵として準備をしてきたのですが、決戦を制する最大の要因は兵の数ではないと見抜いていたのです。
曹操は、戦に勝利するのに一番大事なのは「智謀」であると考えていたのです。
もちろん、基本的には兵力の多いほうが戦には有利で勝利する可能性が高いですが、そこに別の要素が加わったときには、劣勢のほうが勝利することが起きてくるのです。
別の要素とは、兵の質、部下の質(武将、参謀の実力差)、作戦の優劣などです。
地位や兵の数、兵糧の多さだけで戦は勝利出来ないということが、曹操と袁紹が対決した官渡の戦いの教訓です。
そしてなによりも重要なのは、将の存在なのです。
「将の智謀こそ決戦を制するものである」
【官渡の攻防】
そうはいっても初戦では曹操軍は激戦の末、陣を後退させています。
大軍を擁する袁紹は多少の兵の損失にもびくともしません。
さらに袁紹は、陣を引いた曹操軍前に木材で組んだ櫓を50も築き、その櫓の上から雨のごとく矢を降らせました。
曹操軍は、それに対抗して大きな岩を発射できる投石車を作って、土山の櫓めがけて反撃して櫓を破壊する作戦にでます。
そこで袁紹軍は坑道を掘って曹操の陣地に攻め込む奇襲作戦に切り替えます。
しかし、曹操軍はそれを察知して陣の周囲に塹壕を掘って、敵の奇襲作戦を退けます。
こうして戦は膠着状態となります。
70万の大軍と、その10分の1の7万の兵力とが対等に戦えることが常識では考えられません。
そこには曹操のしたたかな事前準備と臨機応変な兵法がありました。
そもそもなぜ曹操が関羽を自分の部下としたかったのか、各地から才能のある人材を求めたのかといえば、この時のためと言っても過言ではないでしょう。
曹操という男はそのように先を見越して戦略や計画を立てられる人物なのです。
「先を見通す力」こそ、将の持つ智謀のひとつです。
その点で袁紹は曹操の足元にも及びません。
袁紹は、名門の出自というプライドで曹操という男の実力を見誤ったのです。
やはり、軍隊においても企業においてもリーダーの資質というのが、勝敗をわける最大の要因なのです。
三国志のなかでも最大級の合戦でもある官渡の戦いの話は次回に続きます。
【今回の教訓】
「将の賢さこそ、ライバルとの決戦を制するものである」
「戦の勝敗を決める最大の要因は、将の器と実力である」
「リーダーは先を見通す力を身につけろ!」
『中原逐鹿編10 ~決戦の勝敗を分けるもの(2)【官渡の戦い】~』につづく。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。