『中原逐鹿編11 ~冴えわたる曹操の智謀(河北平定)~』
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『冴えわたる曹操の智謀(河北平定)』

今回は、官渡の戦い後の河北平定の話をしてみたいと思います。

【曹操、抜群の経営感覚を持つ】

官渡の戦いで勝利した曹操は、袁紹軍の戦利品の中から意外なものを見つけます。
それは曹操軍の武将たちが密かに袁紹に当てて出した密書です。
当時は紙がまだありませんから、竹簡といって竹を細く切ったものを紐でつないだものに文字を書いていました。
その密書を見つけた曹操が取った行動が驚きです。
なんと、密書を誰が書いたものかを突き止めずに焼いてしまったのです。
理由は、官渡の戦いでは、曹操自身でさえも勝利を疑うほどの激戦だった。
総大将の曹操でさえ、そうなのだから部下たちであれば将来の行く末を案じて袁紹に通じても無理はない、そう思って密書を焼かせたのです。
なんと、腹の座った人物でしょうか。

あなたならどうしますか?
自分を裏切ろうとした人を簡単に許せますか?
眼をつぶって無き事にできますか?
なかなか簡単には出来ないことです。

このエピソードから学ぶべきことがあります。
誰が密書を送ったのかを調べてしまったら、それ以降その人物たちを疑ってしまい、用いることをためらってしまう。
その人物が有能であればあるほど曹操軍にとっては損失になる。
曹操は驚くほど経営感覚が優れていたと思われます。
組織にとって何が損で、何が得なのかを、迷いなく嗅ぎ分ける能力を備えています。

また、それは曹操軍の内部において疑心暗鬼を生み出し、派閥争いの種になる。
(密書を書いた人たちと、密書を書かなかった人たちの間で)
そうすると、袁紹軍のように内部分裂を起こしかねない。
なによりも人物の才能を愛した(求めた)曹操だからこそ、有能な人物たちを処罰するのは、忍びない、それはまことに惜しいと思ったのでしょう。
天下統一はまだまだ先がある。
そのために有能な人材は必要だ。
だから、気持ちは揺れたが、反省して今後曹操に仕えるのならば許そうと思ったのでしょう。
まさに、曹操らしい器の大きさを示すエピソードであり、大業を成そうとするリーダーの手本となる采配と言えましょう。

【河北、後継者問題勃発】

 200年、天下分け目の官渡の戦いに勝利した曹操は、翌年「倉亭の戦い」に勝利し、袁紹と連携していた劉備を豫洲(よしゅう)から駆逐して、袁紹の本拠地へ侵攻する準備をします。

 しかし、202年5月、河北の反乱に手を焼いていた袁紹が失意のうちに病死します。
それによって、以前から争いの火種となっていた後継者問題がいよいよ前面に出てきたのです。
もともと袁紹は自らの支配地の河北3州を息子と甥に分割統治させていました。

長男袁譚 青州
次男袁煕 幽州
甥の高幹 併州
そして、三男の袁尚は、後継者にしようと手元に置いていました。
この体制からすると、袁紹は三男の袁尚に家督を継がせるつもりだったことが見て取れます。

けれど、長子相続にこだわった辛評、郭図、沮授らが袁譚(えんたん)を後継者にしようとするのに対して、審配、逢紀、淳于瓊らは袁紹の意思を尊重しようと三男の袁尚を押していました。
こうして参謀、武将間で対立していたのです。

【曹操、河北を平定す】

202年9月、曹操は袁家の内紛を見て取り河北平定に乗り出します
宿敵曹操の侵略に対して、袁家の兄弟たちはとりあえず共闘体制を取りますが、袁譚の派遣要請に袁尚は少数の兵しか送りませんでした。
それでも袁譚と袁尚は黎陽という地で約半年間曹操軍と戦いましたが、破れてそれぞれの本拠地に撤退しました。
曹操は袁尚の拠点の「ぎょう」に進軍します。
しかし、周辺で麦を奪って、陰安を陥落させたと思ったら、一転して許都に引き返してしまいます。

これは参謀の郭嘉(かくか)の進言によるものです。
征伐を急げば袁家の兄弟たちは助け合うが、手を緩めて時間を作ればやがて兄弟同士で争いが起こるだろう、ということです。

いわゆる内部分裂を狙ってのことです。
こうしたことが兵法の手なのです。

曹操の思惑通りに兄弟は争って袁尚が袁譚を攻めます。
窮地に陥った袁譚は曹操に同盟を申し入れます。
曹操は息子の曹整(そうせい)と袁譚の娘の婚姻を約束して同盟の証とします。

そこで曹操は袁尚の本拠地の「ぎょう」を攻略すべく行動を起こします。
「ぎょう」を守る審配と曹操とで知略を尽くした攻防戦が繰り広げられます。

曹操軍は地下道を掘って城に攻め込もうとしますが、審配は塹壕を掘らせてそれを阻止します。
審配の部下が裏切って小門を開けて曹操軍を城内に引き入れようとしますが、審配はそれを見破って城壁の上から大石を落して進路を塞ぎ曹操軍を殲滅します。
次に曹操は、城内に送られてくる兵糧を途中で封じる作戦にでます。
さらに周辺の城を陥落させて「ぎょう」を孤立させます。

それでも城は落ちないので、曹操は城の周辺40里に渡って壕を作らせます。
しかも曹操は、その壕をわざと浅く掘らせて、あたかも容易に越えることが出来るように見せかけます。
審配はそれを嘲笑し、作業を妨害します。
ところが、曹操はある夜、一気に工事を進めさせて広くて深い壕に仕上げ、近くの川を決壊させて城内に水を注ぎこみます。

曹操は呂布攻めのときも水攻めを使っています。
いつの時代でも城攻めは攻める側が不利でリスクが伴いますが、兵糧を断って水攻めをすると籠城している側は持ちこたえられなくなります。
まさに兵法の定石をいった戦い方です。

審配が守る「ぎょう」の危機を知って、袁尚は一万の兵を率いて援軍に駆けつけます。
審配は密かに城を出て、袁尚と合流し曹操軍の包囲を突破しようとします。
その動きは曹操軍に察知され城兵は破れ、兵は城に逃げ帰り、袁尚は降伏を願い出ますが拒絶され中山という地に逃亡します。

曹操は城内に入り、袁尚の印綬軍権の証となる器物を入手し袁尚の家族に見せます。
それで城内は一気に戦意を失います。
総大将の袁尚が敗れ去った事実を突きつけられたのですから、無理もありません。
審配も激しい市街戦を繰り広げた末に捕らえられて斬首されてしまします。

曹操は「ぎょう」を平定した後、袁紹の墓に出向いて丁重に祭礼を行い慟哭して侵略者のイメージを払拭しています。
この辺が計算高い曹操の姿がよく表れています。
曹操は常に自分が周りからどう見えるのかということを気にする男だったのです。

中山に逃げた袁尚を兄の袁譚が攻めて袁尚の軍勢を自身の勢力に加えてしまいます。
曹操は、盟約違反だと言って、袁譚討伐の軍を出します。
袁譚はここに終わります。

205年8月、曹操は袁氏残党の討伐に動きます。
袁尚、袁煕(えんき)の兄弟は北方遊牧民族の烏桓(うがん)を頼りますが、曹操軍に攻められて烏桓は降伏、遼東に逃げた兄弟は公孫康(遼東の太守)を頼りますが、公孫康は逆に兄弟の首を切って曹操に差し出してしまします。
この遠征で曹操軍は慣れない土地で冬将軍が近づく中、日照り続きで水がなく食料にも事欠く始末で、数千頭の馬を殺して食料にあてて生き延びる惨状でした。
これほどまでに苦労をしても戦いをあきらめない曹操に執念を感じます。

 これで袁氏一族は滅亡しました。

結局、官渡の戦いから7年を経て、ようやく河北平定を成し遂げました
この河北平定の7年間はドラマなどではあまり語られないところですが、じっくりと見ていくと曹操の苦労とともに天下平定に掛ける熱意兵法を駆使した曹操の凄さが随所に見られます。

本来は、こうしたところにもっとスポットライトを当てると、曹操のイメージも曹操というリーダーの業績や能力なども違った評価となることでしょう。
やはり、大実業家としての曹操像が浮かんできます。
官渡の戦いで勝利して、曹操が天下を取ったと思っている方も多いでしょうが、官渡の戦いの後の方が、曹操にとっては難行だったかもしれません。
こうして、かつての袁紹の領土と勢力を引き継いだ曹操の野望はさらに膨らんでいきます。
向かうべきは、荊州の地。
劉備という災いを取り除かんとして行動を開始します。

あ~劉備、危うし!
風雲は急を告げようとしています。

しかし、荊州の劉氏を頼った劉備に、争いごとと運命の出会いとが待ち受けていました。
この続きはまた次回。

【今回の教訓】

「疑うなら用いるな。用いるなら疑うな」

「内部紛争は外敵よりも怖い」

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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