『鳳凰死す』
前回は、真実を見極められない愚か者という話をしました。
今回は、落ちた鳳凰という話をしてみたいと思います。
【孫権、遺言に従って遷都】
妹(孫夫人)を取り戻した孫権は、劉備の留守を狙って荊州に攻めこもうと考えます。
そこへ意外な知らせが入ります。
それは、曹操が赤壁の仇を打つために四十万の大軍を率いて南下を開始したというのです。
さらに悪い知らせが続きます。
孫権が最も信頼していた重臣のひとりである張紘が病で亡くなってしまったのです。
張紘は孫権に対して遺書を残していました。
その遺書の内容は、居所を「まつ陵」という土地に移せば大業が成し遂げられるというものでした。
孫権は、張紘の遺志に従って、都を移します。
このときに名を建業と改名し、白頭城を建築します。
(建業は後の南京です)
白頭城の工事を昼夜問わず進めた結果、曹操の大軍を迎え打つことが出来ました。
頑固な守りを見せる白頭城には出城が築かれていて、さしもの曹操も攻めあぐねました。
(戦いは長期化し、年を越し、食料が乏しくなったことで最終的に曹操は許都に引き上げて行きました。)
【長松の裏切り発覚】
呉に曹操が攻め入ったことは劉備と龐統の元へも知らされました。
そこで龐統は劉備にある策を提案します。
それは成都へ戻ってしまった劉璋の本心を探ろうというものです。
さっそく劉備は劉璋に手紙を送ります。
その内容は、呉の孫権から助けを求められている。
孫権とは姻戚関係であるから駆けつけなければならない。
しかし、曹操軍を破るには兵力と兵糧が不足しているから、同族のよしみとして精兵三万と兵糧十万石を用立ててもらいたい、というものです。
この要求に劉璋がどうでるかで、劉璋が本気で劉備を信用しているのか、それとも疑っているのかを探ろうとしたのです。
知らせを受けた蜀では、劉備を天敵としている黄権などが大反対します。
そのなかで張松だけが劉備を疑ってはならないと主張します。
劉備を迎い入れたのは蜀の側なのだから、その恩を忘れてはいけないと劉璋を説得するのです。
迷う劉璋でしたが、結局は重臣の反対意見を取り入れる形の曖昧な対応を取ります。
つまり、精鋭兵ではなく老兵を四千と兵糧を一万石だけ送るというものでした。
この劉璋の心無い対応に劉備の迷いは消えました。
劉備とすれば益州(蜀)を奪い取りたいのはやまやまなれど、同族の劉氏から奪ってしまっては仁義に劣ると考えていたのです。
しかし、劉璋の礼を失した対応に蜀を取る覚悟を決めます。
このときに張松に不幸が起きます。
劉備への密書を書いていたときに兄の張粛がやってきたのです。
二人は酒を飲みかわします。
そのとき弟の様子を不審に思った兄の張粛は張松を酔い潰させて徹底的に調べたのです。
すると劉備に宛てた密書を見つけます。
それを即刻劉璋に報告してしまったのです。
報告を受けた劉璋は、張松の裏切りに憤り、首を刎ねてしまいました。
(このときの張松の密書の内容は劉備軍が荊州に帰還すると聞いて、それを止めようとしたものでした)
【龐統の三つの策】
蜀攻略に当たって龐統は劉備に上・中・下の三つの策を進言していました。
「上策」・・・成都を急襲する策。
「中策」・・・荊州へ帰還すると見せかけて、すでに指揮下にあった白水関の楊懐(ようかい)、高沛を斬ってから成都へ向かう策。
「下策」・・・白帝城まで撤退し、荊州までゆっくり帰還しながら情勢を見る策。
劉備は、「中策」を取ったのです。
いよいよ被っていた羊の皮を取り除いた劉備は成都へ向かって進軍します。
進軍した劉備の前に立ち塞がったのは劉章の子劉循が守るラク城です。
劉璋も蜀の武将たちを援軍に送り込みます。
ラク城を取られまいと蜀の武将たちが劉備に襲い掛かります。
(ラク城は成都と劉備が拠点とするフウ城と中間地点にあります。)
劉備陣営も黄忠、魏延が競い合うようにして戦い、蜀の武将たちを次々と打ち取っていきます。
黄忠、魏延の活躍で蜀の武将冷苞(れいほう)を生け捕りにします。
捕らえられた冷苞は、ラク城を守る武将の張任とは旧知の仲なので、城を明け渡すように説得すると言い出します。
劉備はその申し出を受け入れます。
二度と帰ってこないと龐統は言いますが、劉備は聞く耳を持たぬどころか、「疑いが過ぎる」と戒めるのでした。
龐統は、劉備の寛大な心に触れて、孔明や関羽、張飛などが劉備に深く忠誠を誓う気持ちが理解できたのです。
しかし、龐統の予想通り冷苞はラク城に入ると劉備に捕まったことなど一切口に出さず、それどころか敵将を斬って逃げてきたと嘘を並べます。
さらに冷苞は成都の劉璋に二万の援軍を求めました。
冷苞は、この後黄忠によってふたたび捕らえられ今度は劉備も許さずに首を斬られて終りました。
【鳳凰、落ちる!】
そんなときに荊州の孔明からの使者として馬良がやってきました。
孔明が知らせてきたことは、天文を占ったところ凶が出ているので気をつけろというものです。
劉備は不吉なことが起こるかもしれないという孔明の手紙に不安になって、荊州に戻って孔明に直々に問いただしてみたいと言い出します。
龐統は劉備の言葉に窮してしまいます。
それは軍師である龐統が劉備の目の前にいるのに孔明を頼りにすることへの寂しさです。
龐統は、劉備と孔明の強い信頼関係をまざまざと見ると同時に孔明への嫉妬を感じたのです。
龐統はこんなことを考えてしまいます。
それは益州を落しかけている龐統の功績を孔明が妬んでいるのではないかと。
そこで龐統は、自分も天文を心得ているが、孔明の占いとは解釈が違っている。
益州陥落を目前にして撤退してはならない、速やかに進軍すべきである、そう劉備を説得します。
龐統の自信のある言葉に劉備は不安を払拭し、成都攻略の意志を固めます。
そこで軍を二手に分け、ラク城の東門を龐統に、劉備は西門から攻めることにしました。
挟み撃ち作戦にでることにしたのです。
このとき龐統が馬に乗ろうとした際に落馬してしまいます。
出陣するタイミングでの落馬は不吉だと、劉備は龐統に自分の馬と取り替えさせます。
(劉備の馬は白馬)
ラク城では、劉備軍が攻めてくると知って張任が待ち伏せする作戦に出ました。
間道を進軍する龐統に部下が危険を察知します。
両側から山が迫り、木々がこんもりと葉をつけている地形だったからです。
当然伏兵がいると思われたのです。
龐統が、「ここは何という場所だ」と訊くと、返ってきた言葉に驚きます。
その場所は「落鳳坡(らくほうは)」。
(鳳凰が落ちる場所という意味)
龐統はすぐに馬を返して迂回するように指示しますが、時すでに遅し上空から大量の矢が降り注ぎ龐統は亡くなります。
白馬に乗っていたので劉備と間違われたのです。
鳳凰、落ちる!
孔明と並び称された稀代の軍師龐統は、蜀攻略の前に命を落としてしまいました。
ただし、これは『三国志演義』のエピソードですが、これは史実でない可能性が高いです。
実際は、ラク城を包囲しているときに流れ矢に当たって命を落としたという説が有力です。
「落鳳坡」といういかにも龐統のために用意された死に場所で命を落としたということは出来過ぎた話です。
実際に、この「落鳳坡」を訪れた人の感想では、開けた地形をしているので伏兵にやられるということは考えにくいということです。
ですが、「落鳳坡」という場所でなくても、龐統が成都攻略の前に流れ矢に当たったことは間違いありません。
惜しい~!
実に、惜しい~!
龐統の死に劉備は落胆するとともに、龐統の弔い合戦をすると決意するのでした。
詳しくは別の機会に譲りますが、龐統の死は、劉備の大業と三国志の歴史を大きく変えてしまったのです。
後世のわれわれからすれば、龐統がここで死んだというストーリーしかありませんが、もし龐統がこのとき命を落としていなかったらと考えると三国志のストーリーはまったく違ったものになったはずです。
運命の悪戯なのか、それともこれが龐統の宿命だったのか?
とにかく、龐統という謎の多い英雄はここで歴史の表舞台から姿を消したのです。
【今回の教訓】
「人生には、“まさか“というアクシデントがある」
「過信、油断は命取りになる」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。