『群雄割拠編16 ~呂布の最期~』
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『呂布の最期』

今回は、出処進退を誤った呂布の最期についてお話します。

【曹操、呂布を説得?】

曹操軍に攻め込まれた呂布は下ひ城に立て籠ります。
そこで曹操は、城壁から見下ろす呂布に話を持ち掛けます。

「わしにとって天下で唯一恐ろしいのは呂布殿しかいない。わしはおぬしに畏敬の念を抱いておる」
「わしらが手を結べば必ず天下を取れる。盟約を結ぼう」

と、言うのです。
曹操はさらに、

「そなたに兵馬の大権を与えよう。大都督としよう」
「わしらふたりは兄弟の契りを結ぼうではないか」

と、うまい話を持ち掛けます。
曹操は呂布を手なずけようとしたのです。
呂布の心はここで揺れます。
いくら虚勢を張っても大軍に包囲されて形勢は不利だからです。
しかし、陳宮が割って入ったので呂布は曹操の提案には乗りませんでした。
曹操は悔しがります。
あと少しのところで呂布という虎を自ら手での飼いならすことができると思ったからです。

【曹操という男の底知れぬすごさ】

曹操という男のすごさはここです。
曹操は人物を用いるのにその人の「才」のみ求めた。と言われています。
つまり、趣味が悪かったり性格に問題が多少あったりしても、何らかの才能が有れば自分の部下にしようとしたのです。

曹操の他人の才能を愛し、認め、人材を強く求める気持ちは底なしです。
三国志の英雄たちのなかに、曹操ほど人材を求めた者は存在しません

いや、世界史を観てみても非常に珍しいです。
ある意味、“異常なほど”とも呼べるでしょう。
天下を取るために、才能のある人物を広く集めようとする熱意は敬服に値します。
曹操が一早く中原を抑えて、天下取りに一番乗りした理由でもあります。

しかし、城を包囲した曹操でしたが、呂布はまだ兵力を温存して兵糧も蓄えてあります。
要するに、攻めあぐねていたのです。
そういった事情もあって呂布を手なずけようとしたのです。
そこで、参謀の郭嘉(かくか)水攻めを提案するのです。
下ひ城は河川に囲まれた城壁をしており、そのとき丁度雨季に入ろうとしていたのです。

陳宮も黙ってはいませんでした。
呂布が兵を率いて高台に陣を張る。
陳宮は歩兵を率いて場内を固める。
雨が止み、敵が呂布を攻めたら、陳宮が背後から曹操軍を攻めて挟み撃ちにする。
逆に曹操軍が陳宮のいる城を攻めたら、背後から呂布が攻めて挟み撃ちをする。
こんな作戦を立てます。
つまり、軍を二手に分かれて相手を誘い出し、曹操軍を挟み撃ちにしようというのです。

【陳宮の愚策】

これは明らかに愚策です。

曹操軍に知られないように城を出て高台に行くことも困難ですが、もっともいけないのは曹操軍より兵力で劣るにも関わらず兵力を分散しようとしたことはいけません。
「兵力において劣勢なほうは、その兵力を分散してはいけない」というのが孫子の兵法にあります。
だいたい、兵糧もあり籠城しているのも関わらず場外に兵力を出すこと自体が作戦の誤りです。

籠城戦は持久戦であり、兵糧に余裕がある場合は敵の兵糧が尽きることや兵の疲れを待つのが鉄則です。
さらに、肝心なのは援軍の要請です。

籠城しているのですから、敵の兵糧のほうが長くもてばやがて餓死してしまいます。
そういったことのないように援軍を要請して、城を囲んでいる兵力を背後から突かせ、敵の軍が崩れたら城門を開いてそれこそ挟み撃ちにする。
問題は援軍がくるかどうか、または兵糧などの蓄えがあり城が持ちこたえられるかどうかにかかっています。
やはり、陳宮は軍師として三流です。
雨季が近づいているのに河川で囲まれた城に籠城しているのに、水攻めのことを考えない。
諸葛孔明や司馬仲達なら敵の水攻めを見抜いたでしょう。

【呂布の最期】

結局、曹操軍は堤防を決壊させて城を水浸しにします。
しかし、呂布は酒浸りで出陣しませんでした。
そうした中で呂布は部下の裏切りにあいます。

ここは諸説あります。

軍馬を盗んで曹操に投降しようとした兵たちを引き戻した部下が禁止した酒を飲んだため、ムチ打ち50回の罰を与え、恨みをかったという説。
それと、曹操軍が放った投降文を読んだ部下を疑い刑罰を与えたために恨みをかったというもの。
説はいろいろありますが、部下に辛くあたって逆恨みをかったことは事実でしょう。

裏切りにあって縄で縛られた呂布は曹操の前に跪きます。
そこで呂布は開戦前の曹操との会話を持ち出して命乞いをします。

「共に天下を取ろうといったではないか。わたしを大都督としてくれ」

それに対して曹操は笑いながら、

「あの時そなたは城の上にいたが、いまは囚われの身ではないか」

と、言い放ちます。
つまり、時すでに遅しということを言ったのです。

曹操軍が攻め寄せたときに曹操の提案に乗っていたら、呂布は将軍に迎え入れられて歴史に大将軍として名を残したでしょう。
しかし、歯向かったうえであなたに仕えるから縄をほどいてくれと言っても、はいそうですかとはいかないのです。

だいたい、呂布という人物は仕えた主君を何度も裏切ってきた人間です。
そのような経歴の人物の言うことを誰が聞きましょうか!

呂布はこうして最期を迎えました。

陳宮もまた同様です。
曹操は陳宮に対しても、その最後に自らに仕える気があるか問いただしますが、プライドの高い陳宮は曹操の申し出を断ります。
陳宮は誰が天下人かどうかとか、誰に仕えるべきかという発想は無かったようです。
逆に自分を誰が重く用いてくれるのか、誰が自分の言うことを素直に聞いて重要視してくれるのか、という判断基準で行動していたのです。
陳宮は、いつも「自分」「ジブン」「じぶん」なのです。
それが、陳宮という人物の特徴であり限界なのです。

【曹操という男の恐ろしさ】

曹操は、呂布も陳宮も部下として手に入れることは出来ませんでしたが、思わぬ拾い物をします。
それは、呂布に仕えていた武将の張遼を得るのです。
張遼は関羽、張飛に匹敵する猛将です。
曹操、食えぬ男です。

曹操という男は強く人材を求めていながら、もしその人材が曹操に仕えないのなら態度を180度変えてその人物を許しません。
寛厳自在というか、甘い言葉で人を取り込もうとするかと思うと、自分に忠誠を誓わないなら命を奪う。
曹操に仕えて才を生かすならいかようにも処遇はするが、逆に仕えないのなら生かしてはおかない。

この辺のところが劉備と徹底的に違うところです。
劉備はどちらかというと人に優しいのです。優しすぎるくらいです。
曹操のように自分に仕えないからといって命を奪ったりはしません。
いつでも「仁義」を重んじるのです。

しかし、曹操は大業を成すためになら、なんでもするというタイプなのです。
こうして考えると曹操が乱世の奸雄と言われたことがまさにぴったりきます。
まさに恐ろしい男です。

【歴史の出来事を自らに当てはめて脚下照顧する】

チャンスの女神には前髪しかないと言われます。
つまり、チャンスが来た時にすぐにそのチャンスをつかまないと、チャンスはつかめなくなるという諺です。
呂布と陳宮は歴史に名を残すチャンスがあったにも関わらずそれを自らの手で手放したのです。

こうしたことは三国志の古い時代だけのことでしょうか?
現代においても起きていることではないでしょうか。

やはり、自らの運命、実力を知って、チャンスを見逃さずに掴むことが大切だと、呂布と陳宮の人生から学ぶことが出来ます。
歴史で起こったことを他人事だと思わずに、その配役と時代、国や環境を変えてみて、その出来事の本質を観て、現代に生きる自らに当てはめてみることが大切なのではないでしょうか。

【今回の教訓】

「プライドに固執していると身を滅ぼす」

「チャンスが来たら、すぐにつかめ」

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました

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