『赤壁大戦編3 ~覇業を継ぐ者(孫策と孫権)~』
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『覇業を継ぐ者(孫策と孫権)』

 前回は、劉備が孔明という軍師を得た話をしました。
今回は、時間を少し戻して江東の地に勢力を持つ孫家(孫氏)に起きた家督継承問題にタイムスリップしてみます。

 

【孫策、呉の地盤を築く】

 三国志というのは、『魏の曹操』『蜀の劉備』そして『呉の孫権』の三者、三勢力が揃ってこその歴史であり、物語なのです。
三国志をみると、曹操と劉備のことばかりに気がいってしまいがちですが、呉という勢力孫権という人物抜きには三国志は成立しないのです。

 

これは、西暦200年の出来事です。
孫堅という豪傑が亡くなり孫家の勢力が袁術に吸収されたため、孫堅の息子の孫策は袁術のもとで悲嘆の日々を過ごしていました。
やがて袁術をうまくだまして父孫堅時代から仕えていた家臣を引き連れて袁術の支配から脱します。
向かったのは江東の地

孫策という人物は、袁術が「もし孫朗ほどの息子がいれば、思い残すことなく死ねる」とまで言わせたほどの英気みなぎる人物だったのです。

父である孫堅が亡くなったとき孫策は18歳の若者でした。
孫策という人物は容姿端麗で英雄の気質を備えていたと言われています。

陳寿の「呉書(孫策伝)」には、気概と実行力があり、勇猛で鋭敏さは並び立つ者がないと評価をしています。
まさに英雄の気質といえましょう。

孫策が袁術のもとを去った時が23歳で、その後わずか3年で江東の地をみごとに平定しています。
その手腕はまさにやり手のリーダーです。
三国志の呉という勢力の地盤を築いたのは孫権ではなく、兄の孫策だったのです。

【孫権、歴史の表舞台に登場する】

この辺の事情が曹操と劉備との違いでしょう。
曹操は裸一貫から一大勢力を築きましたし、劉備も地盤も地位も初めから持っていませんでした。それどころか劉備は各地を流浪する始末でした。

そんな中で地盤を持っていたのが孫策のあとを継いだ孫権です。
それは兄の孫策に悲劇が起こったからでもあります。

孫策は武勇の才に恵まれ、天下を狙うほどの大志を抱いて江東の地を平定していきましたが、ある日狩りに出かけていた時に、かつて殺した許貢の部下に襲われてしまいます。
その時にうけた傷がもとで亡くなってしまうのです。
このとき孫策26歳の青年でした。
父孫堅の後を継ぎ、天下に覇業(天下を取る)を成そうとしていた矢先の出来事でしたから、その無念さはあまりあるものがあったでしょう。

死に臨んで孫策は、弟の孫権を跡継ぎに指名するのです。
つまり、孫家のすべての権力を弟の孫権に禅譲したのです。
このとき孫策には孫紹という息子がいました。
しかし、まだ幼子だったようです。
そこで弟の才能を読み取っていた孫策は、自らの覇業を告げるものは孫権しかいないと、思い孫権を後継者に選んだのです。

兄孫策から江東の地と孫家の実権を譲られたとき孫権は18歳です。
それは兄孫策が父孫堅のあとを継いだのと同じ年齢だったことは不思議としかいいようがありません。
孔明よりもふたつほど年下となるはずです。
ですから曹操、劉備と比べればずいぶん年下です。
しかし、現代とちがって三国志の時代では、18歳という年齢は若くとも立派な大人とみなされたのでしょう。

【継承権の争い=派閥争い】

人間の集団があればいつの世でも派閥が生じます

この時の孫家でも同様です。
孫策の息子孫紹が後を継ぐべきだと主張する勢力があったようです。
彼らの言い分は、息子孫紹が後を継ぐべきだ。そしてまだ幼い年齢なので、孫策の妻の大喬が実権を握って支配すればよいというのです。

しかし、反対する人たちも当然います。
その反対側の論理は次のようなものです。
それは、漢王朝が衰退した原因と同じことになるというのです。
漢王朝では、皇帝が亡くなり次に幼い皇帝が即位すると、その実権を先帝の妻である皇太后が握ります。
すると、皇太后の親族(外戚)が権力を握って権力を私物化する。
こうして混乱が生じて、王朝が衰退していくということになったのです。

結局、一部孫権が後継者となることに反対した者はいましたが、孫策の遺志(遺言)があったため、家督は孫権が継ぐことになりました。
そして、周瑜を呼び寄せて外交と軍事を任せるのです。

孫策は兵を率いて勢力を拡大する才はありましたが、人を使って事業を成すことに関しては弟の孫権のほうが上であることを認識していたのです。
ですから、志半ばで去る自らの理想を弟の孫権に委ねたのです。

これによって曹操、劉備、孫権という三国志の三大勢力の英雄が揃うことになったのです。

ここにあるのはいわゆる家督問題です。

これまでも、家督問題はこのブログでも何回かでてきましたが、時代が変わっても後継者問題というのはいつの時代でも起きてくることで、非常に大事な問題なのです。

後継者を間違えると、せっかく築いた事業が台無しになったり、国であれば一国が滅ぶこともあったりします。
逆に後継者選びが正しければ、事業が継続し、さらに発展していくことになります。
一代で事業を築いても後継者が私欲にまみれたり、能力が欠けていたり、人を使えなかったりすると事業はつぶれてしまうのです。

歴史とは、結局人間の思いと行いの集積です。
歴史を作っているのはそのときその時代の人間の営みなのです。

ですから、事業の継承ということは、人物の選定ということであり、この問題はとても重要な意味を持っているのです。

歴史を見る限り、この後継者問題がごろごろと転がっています。
日本の戦国時代でも、戦国最強とうたわれた武田氏は信玄のあとを継いだ勝頼が織田信長に滅ぼされています。
豊臣政権が滅んだのも、一番大きな要因は結局のところ後継者問題にぶつかります。

逆に、現代のビジネスにおいても、倒産の危機にある会社がまったく別のところから経営者を向かえることによってV字回復を成す、なんていうことも多く起きています。
これは経営者が交代したら、倒産寸前だった会社が蘇ったということですから、結局その組織を率いるリーダー次第で事業の成否も集団の存亡もそれにかかっているということを意味しています。

孫策は、若いがゆえに、才能があるがゆえに、思わぬ落とし穴(恨みを買う)に落ちて非業の死を遂げましたが、後継者の選別という点においては成功したといえるでしょう。

【歴史のifを考える】

ただ、歴史にもしはないと言いますが、歴史を学ぶときにこの「もし」ということを考えないのなら、歴史からの学びは半減すると思います。
もし、孫策が長生きしたならばどうなっていたかということは大変興味深いことです。

諸葛孔明が劉備に授けた「天下三分の計」が成立したかどうか?
曹操が天下統一をかけて攻めてきた「赤壁の戦い」はどうなったのか?

呉の勢力を率いるのが孫権でなく、孫策であったらならばと考えるのは歴史好きにとってはたいへん面白いことであります。

孫策は軍事的才能がありましたから、「赤壁の戦い」での勝利は同じ結果となったことでしょう。孫策ならば曹操に降ることも籠城することもなかったことでしょう。
さらにもっと前の曹操が袁紹と覇を争っていた「官渡の戦い」のときに孫策は、曹操の本拠地を狙って攻め上ろうと考えていたのです。
もし、本当に孫策が曹操の本拠地の許都を攻めていたら曹操軍は袁紹軍に勝利しなかった可能性が出てきます。
すると、歴史は大きく変わってしまったでしょう。

では、どうして孫策は許都を攻めなかったのか?
「官渡の戦い」が起きたのが西暦200年です。
そうです、孫策はその年に亡くなったのです。
曹操を襲おうとしていた矢先にその生涯を閉じたのです。

これはわたし個人の私見ですが、もし孫策が長生きして呉を率いていたらならば、曹操の天下統一の前に大きな壁となって立ち塞がったと思われます。
ただし、劉備と孔明の天下統一にも待ったをかけたことは間違いないでしょう。
すると魏、呉、蜀の三国志の形はとったかもしれませんが、蜀の勢力が少し削られた形となって、増々劉備と孔明の漢王朝再興の志が遠のいたことでしょう。
もちろん曹操の中国大陸と統一の夢も儚いものに終わったかもしれません。

歴史の皮肉とはよく言ったもので、才能だけでは天下をとったりすることが出来ないことがあります。
一見愚鈍に見えても長生きしたり、最後まで生き残ったりする人が最後の最期で天下を取り大業をなすことがあるのです。

孫策は、戦国の世(中国の)の覇王と呼ばれた項羽に似ていると評され小覇王と呼ばれていましたが、非業の死を遂げるところまで似てしまいました。
こうした覇気があって大業を夢見て勇者のようにばく進するような人物は、その志半ばで倒れるということが歴史上多く見られます。

とにかく、現代にも通じることは後継者選びを間違えてはいけないということです。
血縁とか、派閥とかによるのではなく、純粋にその集団、組織の目的、目標を達すためにふさわしい人物を選ぶことが大切であるということです。
それを間違えるとその組織は衰退したり、滅んだりしてしまうということです。

【今回の教訓】

「事業の継承は、親子の私情を捨てて、実力主義で行う」

『赤壁大戦編4 ~智謀と仁義が合わさったとき(諸葛亮と劉備)【前編】~』につづく。

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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