『智謀と仁義が合わさったとき(諸葛亮と劉備)【前編】』
前回は、孫家に起きた家督継承問題の話をしました。
今回は、智謀の諸葛亮と仁義の劉備が合わさったときという話をしてみたいと思います。
【曹操、新野の劉備を攻める】
諸葛亮と云えば智謀の才、劉備と云えば仁義の人。
劉備の「三顧の礼」によって諸葛亮を軍師に迎い入れたことで、二人はタッグを組むように活躍していくことになります。
その始まりが「博望ハ」という場所で行われた戦いです。
(博望ハの「ハ」がワードで表示されないためカタカナ表記とします)
兄孫策から江東の後継者として指名された孫権は数年後に行動を起こします。
孫権は軍勢を動かし、荊州の江夏という地を攻めるのです。
それを知った曹操は動きます。
劉備が孫権の動きに気を取られている隙に、劉備を叩いて荊州攻略に乗り出そうとしたのです。
しかし、天下統一の迫った曹操の逸る気持ちに冷や水を浴びせた人物がいました。
それは参謀の荀彧でした。
荀彧は、劉備は弱小といえども臣下の忠義心は厚く、関羽、張飛などの一騎当千の武将がいて、さらに諸葛亮という大賢人を軍師に招き入れたので、うかつに攻めるのは危険だと述べます。
そう言われて曹操は考え込みますが、歴戦の武将の夏侯惇が勢いづいて、出陣を促します。
「劉備軍など、この夏侯惇が叩き潰してくれる!」
天下の奇才だと言われて恐れる曹操ではありませんから、夏侯惇に十万の軍勢を持たせて新野の劉備を攻め滅ぼせと命を下します。
【諸葛亮の防衛策とは?】
曹操軍十万の大軍が攻めてくると知った劉備は慌てます。
それを見て義兄弟の関羽と張飛は「兄貴の大好きな『水』でもぶっかけてやれ!」というのです。
『水』というのは、稀代の軍師諸葛亮を得た劉備が孔明を厚遇するのを見て嫉妬した関羽と張飛に対して、「わたしが孔明を得たのは魚が水を得たようなものだから、嫉妬するな」と諫めたことを皮肉ってのことです。
慌てる劉備に対して、諸葛亮は、あらかじめ用意してあった策を自信満面で伝えます。
その策とは、
「博望ハ」の左に豫山(よざん)という山があり、右には安林という林があります。
関羽に一千騎を与え豫山に隠れさせ、敵の通過を待って後陣を攻撃し兵糧を奪って火を放つことを命じ。
張飛には、同じく一千騎を率いさせ安林に潜み、火の手が上がったら打って出て敵の中陣を叩き「博望ハ」を焼き払うことを命じ。
関平と劉封には、後方から攻め込んで火を放つことを命じ。
趙雲には、先鋒を命じますが、勝つことなくわざと負けて敵を深く誘い込めと言い聞かせます。
最期に劉備には「博望ハ」の麓で陣を構え、敵が逃れて来たところを打ち倒せと指示します。
つまり、正面から勢いづく敵に負けを装って目的の場所に引き込み、後方と側面より火攻めを仕掛け退路を断たれた敵が混乱したところに総攻撃をかける、という作戦です。
では、軍師殿はなにをするのかと、張飛に聞かれた孔明は、「わたしは城を守っております」と答えます。
「冗談じゃね~!」と息巻く張飛に、孔明は劉備から預かった軍権の象徴である剣と印を示して、「殿に代わって命令を下しているのです。聞けぬ者は斬って棄てる」と強気の姿勢と崩しません。
【諸葛亮、軍権を掌握する】
実は、このことはあらかじめ劉備と諸葛亮とで打ち合わせをしていたことでした。
孔明の策が曹操軍を撃ち破るものだとしても、この時の孔明にはひとつだけ心配ごとがありました。
それは、劉備の弟分であり、歴戦の強者である関羽と張飛が実戦経験のない年若い孔明の命令を素直に聞くかどうか、ということです。
数々の戦を戦い抜いてきた関羽と張飛はまったく孔明を信用していませんでした。
どうせ、田舎学者にしか過ぎない。実戦経験のないただ口先だけの若造だと思っていたのです。
そう考えて、孔明の考え(作戦)が失敗に終わったら、追い出すか首を撥ねてやろうと考えていたことでしょう。
もし、孔明の作戦通りに関羽と張飛が動いてくれなければ、相手は大軍ですから劉備軍のほうが致命的な敗北をするのは必定だと孔明は読んだのです。
ですから、劉備に対して、本来劉備が持つべきすべての軍権の証である剣と印を使わせてもらうことを了解させていたのです。
この一事を見ただけでも、孔明は只者ではないことが分かります。
つまり、単に大軍を迎え討つ作戦を考えるだけではなく、それに関係する諸事までも把握して、作戦の成否を考えているのです。
軍権の象徴である剣と印を見せられては、関羽と張飛も引き下がるしかありませんでした。
剣と印という意味はそれほど重いのです。
総大将である劉備でさえ、軍権の証である剣と印を持つ孔明に従わなければならないからです。
劉備は、弟たちの前で孔明の命に従ってみせることで、暗に義兄弟の身勝手を抑えようとしたのです。
この辺の二人の息のぴったりあった出来事はまさに「水魚の交わり」と言えましょう。
【博望ハの戦い】
さて、戦いの結果はどうなったでしょうか?
相手を侮って勢いと兵力の多さに頼った夏侯惇は、正面の趙雲が孔明の指示通り、敵を引きつけ、夏侯惇はそれに引っかかり火攻めに合い、伏兵の関羽と張飛にさんざんに打ち取られて、結局一晩で十万の曹操軍はほぼ全滅でした。
孔明の策は、少数の兵力でまともに大軍を渡り合わずに奇襲作戦と火攻めを合わせる作戦でした。
孔明は、曹操軍の十万の大軍を迎え撃つのに「博望ハ」という地を選びました。
兵法にあるように、戦に勝つには「地の利、天の時、人の和」の三つが揃ってこそ勝利を得ることが出来るのです。
孔明の采配はまさにその兵法に適ったものでした。
このとき孔明は「地の利」つまり戦の場所を有利に運んだ者が勝利するということを特に大事にしたのです。
この時代の戦は、第一に場所の選定が重要です。
特に劣勢の勢力が大軍と戦うには必須と言っていいでしょう。
「人の和」という点でも孔明は手を打っています。
つまり、関羽と張飛が軍師孔明の命令を聞くように仕向けたことです。
(戦が始まる前の時点では心底言うことをきいているわけではありませんが、命令違反をしないように手を打ったということです)
これを智謀と呼ばずになんと呼びましょうか。
諸葛亮、まさに智謀の天才軍師です。
【謙虚さが生んだ勝利】
この戦の勝利で、関羽と張飛はすっかり諸葛亮に心酔するようになりました。
大軍を相手にみごとな勝利を見せつけられたのですから、それはそうですよね。
しかし、遅いよ! と言いたいです。
関羽や張飛、このとき対決した夏侯惇などの武勇を誇る男たちには、大きな欠点があります。
それは、武勇に頼り過ぎる、ということです。
武勇一辺倒になりがちなのです。
こうした男たちは智謀を持っている相手には敗れることになるのです。
そこへいくと劉備は、大した武勇を持っているわけでもないし、曹操のように智謀があるわけでもない。ですから、謙虚にならざるを得ないのですが、逆にそれが長所、武器となるから不思議です。
謙虚さも大いに武器となるのです。
武勇も智謀も持ち合わせない劉備だからこそ、孔明の才を見抜き、信用して用いることで勝利を勝ち取ったのです。
この勝利は孔明の智謀による勝利ではありますが、わたしの考えはその奥に注目します。
つまり、孔明の才能を見抜いて抜擢し、信用して用いた。
これによって勝利が生れたのですから、勝利を生み出した源流は劉備が作ったと言っていいでしょう。
ですから、これは一見なんの取柄もない劉備が生み出した勝利なのです。
こうした勝利の姿は、自らが智謀を持っていながら参謀を用いて勝利を掴む曹操とはまったく違います。
面白いですね~!
【荊州、跡目争い勃発】
こうした戦の最中に荊州では跡目争いが勃発していました。
荊州の太守劉表が病でいつ命を失うかという事態になっていました。
劉表は初め長男の劉キを可愛がり後継者にしようとしていましたが、途中から後妻である蔡氏の生んだ劉ソウに後を継がせるようと心変わりをしていました。
蔡氏の弟の蔡瑁は、もちろん劉ソウを後継者にして、蔡氏一族が荊州を支配しようと企んでいました。
すると長男の劉キは邪魔な存在となりますから、劉キは命の危険を感じました。
この時期に、長男の劉キが自分の身の振り方を相談しに孔明を訪ねています。
孔明は、春秋時代の故事(申生と重耳)を持ち出して、政争から遠ざかって距離を置くことを勧めています。
孔明の勧めもあってか、劉キは江夏太守の黄祖が孫権に打ち倒されてその座が空白になっていることに理由をつけて、江夏太守の座に願い出て許されていました。
やがて、劉表は病が重くなりこの世を去りますが、そのことで劉備と諸葛亮とで考えが分かれます。
孔明にとって荊州は「天下三分の計」の要の地。
劉表亡きあとは、劉キと劉ソウどちらが継いでも、南下してくる曹操に飲み込まれてしまうと見ていました。
だから、曹操に取られるなら劉備が荊州の地を取るべきだと考えていました。
ここであるエピソードがあります。
それは、劉表が遺言で劉備に荊州を譲ると言ったら、それを受けるようにと孔明は劉備に諭したという話があります。(史実かどうかは不明)
それに対して、劉備は「劉表は親戚にあたる人物。流浪の身の自分に大恩を与えてくれたのだから、混乱に乗じて襄陽(荊州)を奪うなど仁義に劣る。いくら軍師殿の提案でもできません」ときっぱりと断ります。
孔明は重ねて劉備を説得しましたがそれには理由があります。
それは荊州の地があれば曹操に十分対抗できると計算していたからです。
しかし、劉備は「わたしは仁義を通したい。曹操とは違うのです。義に背くよりは死を選びます」そう言ってあくまでも孔明の指示に従おうとはしませんでした。
まさに仁義の人劉備です。
仁義の人を別な言い方をすれば「愛の人」と言えるでしょう。
孔明の頭の中では智謀が働き対曹操の策略が浮かんでいながら、劉備の仁義の心に敬服するのでした。
難しいところではあるのですが、すべて孔明の指示通りに劉備が動いたらならば、三国志の歴史は変わったでしょう。
ですが、劉備という仁義を重んじる男には、どうしても守りたい信念があったのです。
それが、逆に天下を取ることを遅くし、曹操に対抗することを弱めることに繋がっていくのに。
そこが、劉備の魅力なのです。
【今回の教訓】
「智謀は愛に従う」
「大将は、勝利を生み出す源流であれ!」
『赤壁大戦編5 ~智謀と仁義が合わさったとき(諸葛亮と劉備)【後編】~』につづく。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。