『赤壁大戦編5 ~智謀と仁義が合わさったとき(諸葛亮と劉備)【後編】~』
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『智謀と仁義が合わさったとき(諸葛亮と劉備)【後編】』

 前回は、十万の曹操軍を軍師孔明が迎え撃った話をしました。
 今回は、孔明の智謀と劉備の仁義の話をします。 

【敗軍の将は敗戦に学ぶ】

 十万の大軍を持って新野の劉備軍を攻めたにも関わらず大敗をした夏侯惇は曹操の前に自らの身を縄で縛った状態で晒します。
曹操は、夏侯惇に敗戦の理由を聞きます。
軍師孔明の火計にやられたと報告する夏侯惇は、敗戦の責任を取って斬られる覚悟をしていました。
ですが意外なことを曹操は十万の大軍を失わせた夏侯惇を許します。
「縄を解いてやれ!」
そういうと、夏侯惇に「お前に十万の兵を与える。この機会に負け戦の汚名をそそぐのだ」
と、再起のチャンスを与えるのです。
なんと、太っ腹なんでしょうか!
これが、曹操という男です。

 これは偉大なる永遠のローマを築いたローマ軍の伝統に共通した対処法です。
ローマ軍は、敵に負けた将軍を処罰したりせずに、左遷したり降格したりして時間を与えておいて、しばらくして頃合いを見て再度その将軍を戦に復帰させます。
そこにはある考えがあってのことです。
それは一度手痛い敗北をした将軍は、その敗戦から学び同じ負けをしないだろうというローマ人独特の伝統的な考え方があったのです。
そうしたシステムがあったために有能な人材が目減りすることなく生き残り、カルタゴのハンニバルをも撃退して、偉大なるローマを作り上げることが出来た一因となったのです。
曹操のやったことは、そのやり方と同じです。

【孔明、曹操軍50万を迎え討つ】

ここでこのブログをお読みの方に伝えます。
曹操が惨敗した夏侯惇をどう処遇したのかという、エピソードをよ~く覚えていてください。
すっと後になりますが、この事例と対峙するようなエピソードが出てきますので。
それはそのときにお話しします。

十万の軍勢でもって攻めたにも関わらず大敗をした曹操は、怒り心頭で命を発します。
ほぼ曹操軍の全軍にあたる五十万の大軍を動かし、劉備と呉の孫権を打つべく南方攻略に動くのです。

曹操軍五十万の大軍を迎え撃つ劉備軍の軍師孔明はまたも智謀を発揮します。
孔明の策は、
劉備の根拠地である新野城捨てて樊城へ移る。
関羽は白河という川の上流に潜み流れをせき止めて待つ。
下流で兵馬の声が聞こえたら一気に土壌を取り除き激流と共に攻め込む。
張飛は一千騎を率いて白河の流れが浅い地点で水攻めにあった敵が逃げてくるのを叩く。
趙雲には、新野城の至る所に燃えやすいものを用意して翌日の夕方に強風が吹いたら火を放つ。その時に軍勢を率いて西門北門南門から攻めて東門に追い込む。
夜明けになったら関羽と張飛は合流して樊城に入城する。
さらに領民の避難の手配まで考えています。

結果は孔明の作戦通り、曹操軍に大勝利をおさめ領民たちと一緒に樊城に行きます。

二度の敗戦で怒り心頭に達した曹操は、使者を立てて劉備に降伏を迫ります。
当然劉備は従うはずがありません。
天才軍師孔明がいて大勝利をしているのですから。

敗れたにも関わらず、降伏を迫るとは、曹操、強気ですね!

【智謀を駆使する孔明と仁義を重んじる劉備】

 そこで曹操は三度目の出陣を命じます
領民を抱えた劉備軍は、樊城では曹操軍の総攻撃を防ぎきれないと判断し、劉キのいる江夏に行くことにします。
しかし、新野の領民たちが劉備を慕って軍についてきたため、その行軍は一日に十余里しか進まなかったと言われています。
劉備軍の行軍が遅いことを知った曹操は、精鋭の鉄騎五千を選び自ら指揮を執って出陣します。
領民(民間人)を抱えた劉備軍に曹操の精鋭が迫ります。

 こうしたときに、破れかぶれで出陣したり、意味もなく籠城したりするのではなく、生き残るために南下して江夏に退却するということを孔明は考えたのです。
いかに稀代の軍師といえども曹操自ら率いる五十万を相手では、まともに対抗することが出来ないと判断したのです。
孫子の兵にあるように「勝算なきは戦わず」です。
このへんも孔明らしい対処であると思います。

 しかし、曹操軍に追いつかれては元も子もありません。
領民が足かせとなっているのです。

 このとき孔明は、領民を逃がす手はずを整えていました。
城内にある金銭を分け与え、領民に逃げるように言いつけたのですが、領民たちは劉備を慕って劉備の治める土地で暮らしたいと願ってついてきたのです。
こんなことが、あるんですね!
歴史上稀にみる出来事だと思います。
土地に根差した日本の農民ではこういうことは起きなかったでしょうが、広大な中国大陸が育んだ漢民族では違うのでしょうか。
なにが違うかというと、領民は知っていたのです。
その土地を誰が治めるかで自分たちの生活がまるっきり変わってしまうということを。
劉備ならば、重い税金や労役を課すこともなく、善政を敷いて領民を大事にしてくれることを深く理解していたのです。

 大軍が後ろから迫ってくるにも関わらず、荷車などに財産を乗せて兵たちの後についていくのは大変なことであろうと思います。
当然、戦に巻き込まれて命を落とすことが十分考えられます。
それでも劉備について行こうとするのですから、よほど劉備を慕っていたのでしょう。
それは劉表の統治に不満があり、ましてや曹操が治める土地にはいたくないといいう拒絶の現れでもあるでしょう。

 ここでまた孔明と劉備とで意見が分かれます
孔明は劉備に言います。
「民を連れての行軍は無理です。道のりは数百里を越え、老人と子供を連れては一日に数十里しか進めません。曹操軍の鉄騎が追ってくれば劉備軍の兵が命を失います」と訴えます。
これは軍師とすれば当然です。
まともに戦って勝てないならば退却して活路を見出すことを見つけるのが軍師である孔明の役割であります。

 しかし、劉備は孔明の忠告を無視して領民を引き連れていくことにするのです。
この劉備の決断により、ドラマが生まれてくるのですが、戦の勝利を考えるならば孔明の指示に従うべきです
しかし、劉備には戦で勝利するよりも道義を重んじるときが多々見られるのです。
仁義の道から外れることを自らが自らを許さないのです。

 孔明とすれば、複雑な気持ちだったでしょう。
あくまで主君は劉備なのだから孔明とすれば従うしかないのです。

 このとき劉備が孔明に言った言葉が、

「民がわたしを見捨てても、わたしは民を見捨てぬ」です。

この言葉を聞いて孔明は改めて劉備という主君の素晴らしさを感じ取ったのです。
ここに曹操とは違う意味で、人を惹きつける劉備の魅力があるのです。

 智謀を駆使する孔明仁義を重んじる劉備

知恵を持って作戦を考え勝利を読む智謀と戦の勝利よりも自分の利益などよりも人としての大切な道を守る生き方をする仁義の心。
まったく違った要素を持つ孔明と劉備。
智の孔明愛の劉備

ここにあるのは、勝利をもたらしたり成功を掴んだりするには知恵(智謀)が必要だが、その知恵はなんのためにあるのか、ということでしょう。
仁義(愛)を発揮しようとしても智が弱くては、仁義(愛)の方向に人々を導いたり勝利を手にしたりすることは出来ない。

仁義を成り立たせるために智謀(智)があり智謀(智)は人びとを愛するために、仁義を地上に発揮するために必要となる
仁義の心(愛の心)と智謀(知恵)とは、人としての道を踏み外さずに勝利を掴むための両輪なのです。

劉備と諸葛亮、まさに名コンビ!
しかし、ひたひたと曹操軍が、領民を引き連れて行軍する劉備軍に迫ります。
さぁ、どうなるでしょうか。

【今回の教訓】

「仁義の心(愛の心)と智謀(知恵)とは、人としての道を踏み外さずに勝利を掴むための両輪」

「一人の人が両方を持っていないなら、トップは仁義(愛)取れ。そして知恵者の相棒を持て」

『赤壁大戦編6 ~赤子の守護神と臣下想いの主君~』に続く。

 

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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