『関羽伝2 ~神になった漢(おとこ)、関羽~』
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【関羽にまつわるエピソード】

《関羽の「義の漢(おとこ)」という評価を決定付けたエピソード》

199年6月、袁術討伐を名目にして曹操から離脱した劉備は徐州を再び手に入れた。
関羽に下ヒ城を任せ、袁紹と連携しながら曹操挟撃の作戦に出ようとしていた。
だが、200年1月、予想に反して曹操が自ら大軍を率いて徐州に攻め込んできた。
小沛にいた劉備と張飛は敗走し、劉備の妻子は捕虜にされた。
下ヒ城を守っていた関羽は降伏するしかなかった。

天下の豪傑であり、忠誠心の強い関羽を帰順させた曹操は喜んで偏将軍に任命し手厚く礼遇した。
だが、金銀財宝や名誉をいくら与えても、関羽は心を曹操に許さなかった。
関羽は、曹操から贈られた金銀財宝などに一切手をつけず、すべてを封印した。

ただ、義に篤い関羽は曹操の心意気を痛いほど感じていた。
劉備の妻子を殺さず逆に厚遇してくれたことにも感謝していた。

曹操は何度も関羽の心を掴もうとして関羽と親交深い張遼に命じて関羽を曹操の部下になるように説得をつづけた。
だが、関羽はそのたびに「曹公が私を厚遇してくださるのはよく知っていますが、しかし、私は劉将軍から厚い恩義を受けており、一緒に死のうと誓った仲です。あの方を裏切ることはできません」ときっぱりと断り続けた。

義理堅い関羽は、官渡の戦いにおいて袁紹配下の武将顔良を討ち取ることで曹操から受けた恩義を返すことにする。
関羽はこの功績によって漢寿亭侯に封じられている。

「受けた恩は必ず返す」
「何があっても決して裏切らない」

義の漢(おこと)関羽の真骨頂である。

《関羽を手放した曹操の度量》

関羽が劉備の元へ旅立つとき、曹操の周りでは関羽を追って連れ戻そうと主張する者たちがいた。
だが、曹操は「彼は彼なりに、主君のためにしているのだ」
といって、部下の追跡を許さなかった。
このエピソードを裴松之は『関羽伝』の注においてこう記している。

「王者・覇者の度量がなければ、誰がこれほどの態度をとれようか。これは実に曹公の偉大さである」

裴松之は、再び敵となる関羽を無条件で手放した曹操の度量に賛辞を贈っている。

《度肝を抜く度胸》

関羽の豪傑ぶりを示す有名なエピソードがある。

関羽はあるとき流れ矢にあたり、左腕を射抜かれたことがあった。
その後、傷口は塞がったものの、梅雨時になると決まって骨がうずいた。
医者が言うには、「矢尻に毒が塗ってあったので、その毒が骨に染み込んだのです。腕を切開し、骨をけずって毒を抜かなければ、この痛みは治りません」
すると関羽は、すぐさま腕をさし出して切開を命じた。
そのとき、たまたま配下の将軍たちを招いて宴会を開いていた。
切開が始まると、血が吹き出して鉢に溢れたが、関羽は炙り肉をむしり、酒を酌み交わしながら、平然と談笑を続けた。

このとき麻酔またはそれに代わる対処がなされたかは不明である。
もし、麻酔無しで腕を切られ、骨を削られるとなると、通常では人間が耐えられるものではない。
これは少し大げさな表現にされていると想像されるが、それでも関羽の豪傑ぶりを表わすことには変わりない。
関羽が、生まれ持っての豪傑であることをこのエピソードは示している。

《関羽の子孫》

正史『蜀書』によると、関羽の子孫は蜀滅亡の際に、関羽が樊城で破った龐徳の子・龐会により滅ぼされている。

【神になった漢(おとこ)、関羽】

《関帝廟の総本山・洛陽関林堂》

日本においても中国においても、歴史上実在した人物がその功績を評されて「神」として祀られる事例がある。
そのなかで中国において群を抜く存在が「孔子」と「関羽」なのだ。

孔子が「文の代表」であるのに対して、関羽は「武の代表」と見られている。
中国では「文」と「武」、つまり学問(知恵)と武力(軍事力)が統治の2大原理とされているのだ。
関羽は、武の代表として国家の守護神であると同時に財神としても崇められている。
また、道教においては「関聖帝君」の称号も贈られている。

後代になって関羽の出身地山西省の商人の活動により、関帝廟は中国各地に設けられるが、その総本山となっているのが、洛陽の関帝廟だ。
(関羽の首塚跡は八角亭)

麦城での関羽の死後、孫権はその首を曹操が滞在していた洛陽に届けた。
曹操は丁重にその首を葬った。
それが現在河南省洛陽市関林鎮にある首塚をともなった関帝廟である。
関帝廟の一帯で柏の木に囲まれた林の中で関羽は神として祀られている。

《武の神から商人の神へ》

圧倒的な武勇から守護神として祀られた関羽だが、もう一つ、別の神としての側面を持っている。
それは「商業の神」「商人を守る神」という神の称号だ。

昔から、商売には敵(ライバル)がいる。
ある意味では、商売とはライバルとの勝負に勝利して利益を勝ち取るものという見方もできる。
そのライバルから守ってくれ勝利を与えてくれる神として関羽は商人に信仰されていった歴史を持つ。

商売はすなわち戦争であり、戦上手は商売上手に通じる。

商売で成功するために一番守らなければならないことは“信義”だと華僑の人たちは代々伝えている。
先に述べたが、もともとは山西省の商人が地元出身の英雄(関羽)を称えたところから始まった。
山西省の商人たちが、自分たちの商売がうまく行くようにと、守護神として関羽を崇拝したことによって関羽は「商売の神」となった。
決して裏切ることなく忠誠心を持ち、無類の強さを誇る関羽に商売成功の願いを託したといえる。
関羽の商売の神としての信仰は、華僑によって世界中の中国人の商人の間で広まっていった。

日本においても、中国出身者の中華料理店に行けば、必ずといっていいほど関帝廟の屏風や置物が置かれている。
特に横浜、神戸、長崎など、戦前からのチャイナタウンに行けば関羽を祭った関帝廟が必ずある。
もし、中華料理店に行かれる機会があったら、よくお店の中を見てみるといいでしょう。
きっと、関羽が鎮座していることでしょう。

関羽伝3につづく。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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