三国志の雑学1『字(あざな)』
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三国志の時代に使われていた本名以外の名

今回は、『三国志の雑学』ということで、『字(あざな)』について話をしたいと思います。

まず三国志に登場する人物の名前に日本人だと少し違和感を持ちませんか?
日本人は『苗字(姓)』『名前』とで人物の固有名詞としますが、古代の中国では『姓』『名(いみな)』以外に『字(あざな)』というものがありました。

 例)

劉備玄徳 : 劉(姓)備(名) 玄徳(字)
関羽雲長 : 関(姓)羽(名) 雲長(字)
張飛翼徳 : 張(姓)飛(名) 翼徳(字)
曹操孟徳 : 曹(姓)操(名) 孟徳(字)
孫権仲謀 : 孫(姓)権(名) 仲謀(字)
諸葛亮孔明: 諸葛(姓)亮(名)孔明(字)
周瑜公瑾 : 周(姓)瑜(名) 公瑾(字)
趙雲子龍 : 趙(姓)雲(名) 子龍(字)

などです。

『字(あざな)』とは?

『字(あざな)』とは、成人した男子が実名(本名)以外に自分でつける名前です。

もともと中国では「名(いみな)」は軽々しく用いることは忌避されていました。
そして、日本では「いみな」は「忌み名」と訓じられました。
そのため年長者や特定の目上の人だけが「いみな(名)」を使用し、それ以外の人が「いみな(名)」を呼ぶことは無礼なこととされてきました。

ですから目上の者がわざわざ「字(あざな)」で呼ぶということは、相手に敬意を示しているということなのです。
なので、本来は『姓』『名(いみな)』『字』を続けて連呼することはないのです。
日本人だと平気で「劉備玄徳、諸葛亮孔明」などと言ってしまいますが、それは中国の文化からすると正しい人の呼び方ではないということです。

『字(あざな)』は『いみな(本名)』を呼ばないように配慮して使われていたのです。
ですから、成人した人の呼び名としては原則として『字(あざな)』が用いられたのです。

しかし、逆に自分の方からは『字』を自称せずに『いみな(名)」で自称して謙虚な態度をしめすことがマナーでした。

『字(あざな)』以外の別名

この『字』とは違いますが、朝鮮半島では、儒者がやはり『姓』『名』以外に使用する『雅号』というものがあります。
これも中国大陸で使用された『字』と似たような意味合いを持ちます。
ただ、こちらは儒教を学ぶ儒者だけが用いるもので、『雅号』をつけること自体が儒者と名乗ることと同義となります。

例えば、朝鮮王朝を建国した中心人物のチョン・ドジョンという人は、『三峰(サンボン)』、その友人のチョン・モンジュは『圃隠(ポウン)』という雅号を使用しています。
この雅号も字(あざな)と同じように他人がその人を呼ぶときには、『雅号』で呼びます。
儒教という孔子の教えを奉じる人が使用する名前ですから、仏教徒が出家したときにつける『法名』、クリスチャンが洗礼を受けたときに付けられる『クリスチャンネーム』と基本的に同じ意味だと思えばいいでしょう。
違うところは、字(あざな)と同じように他人でなく自分で名をつけることです。

現代に残る別名文化

現代では、ネット上で使用する『ハンドルネーム』が使用されていますが、ブログやSNSを使用するときに本名とは違う名前を用いることが多いのではないかと思います。
事実、わたしもこのブログを書くために『tsubasa』というブログ名を使用しています。

また芸能人には『芸名』があり、プロレスラーには『リング名』が、ホステスには『源氏名』などがあります。
特定の職業をするために本名とは違う名前で仕事をするという文化はいまでも残っています。
なぜかというと、名前は単なる名前ではなく、その人の情報そのものだからです。
だからその職業にふさわしい意味響きのある名前をつけるのでしょう。

字(あざな)の意義

話を元に戻しますと、『字』という呼び名を使用する文化というものは、複雑な人間関係のなかで、尊敬や謙虚さ、親しさ、礼儀を守るために考え出された人間の知恵なのかもしれませんね。

本名というものは、生まれたときに親などが付けてくれるものです。
ですから、自分で決めた名前ではないのです。
成長して自分の名前が自慢だったり気に入ったりしている人もいるでしょうが、中には違う名前のほうが良かった、なんて考える人もいるかもしれません。
そんなときに自分で自由に付けられる『字(あざな)』があったら面白いと思います。
(ただし、親が付けた名前は子供の幸せなどを願ってつけるものなので、あまり不平をいうのはどうかと思います)

【雑学からの教訓】

『名前や呼び名には、人としての礼儀や尊敬、親しさを伝える意味がある』

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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