三国志の雑学3『建安文学』
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『建安文学』

 今回は、『三国志の雑学』ということで、『曹操が文学に込めた新たな価値観』について話をしたいと思います。

『曹操の意外な一面』

 曹操というと兵法に通じる武人のイメージが強いのではないでしょうか?
実は、曹操という人物は常に本を手放さないことで有名な人物だったのです。
いわゆる読書家なのです。
それは兵法書や歴史書に限らず、儒教の書や文学などあらゆる分野に及んでします。

 曹操が三国志の英雄たちの中で違うのはこの文学を愛する点なのです。
つまり、曹操という男は文武両道に優れた才能を持っていたのです。

『銅雀台』

 曹操は、官渡の戦いで袁紹に勝利し、その後河北を平定してからは都の許都とは別にかつての袁紹の領地であった「ギョウ」という土地に活動拠点をおいていました。
その「ギョウ」に『銅雀台(どうじゃくだい)』という壮麗な宮殿を造営しました。
210年のことです。
その銅雀台に文官、武官をすべて集めて宴を催します。
そこで武官には弓を射ることを競わせ、文官には賦(ふ)を読み比べさせたのです。
(賦とは韻を踏み対句を用いて表現された文体で作られた詩)
しかし、その宴には欠席者が多数いました。
宴に欠席するということは曹操の権威を認めないという意思表示の現れなのです。

 曹操は漢の丞相(総理大臣)ですが、いまだ漢王朝の皇帝は存在しています。
つまり、曹操の勢力内部においても、各地の名士たちの間でも漢王室を尊ぶ風潮がまだまだ残っていたのです。
それは儒教的価値観の文化を中心として世を治めようとする考えの人たちなのです。
その古き儒教的価値観の元、漢王朝を尊ぶ思想の元で曹操が丞相として権力を振るうことには同意しても、曹操が漢王朝を滅ぼし、皇帝を名乗ることには反対する思想を持っている名士たちがたくさんいたのです。

 曹操の右腕である荀彧(じゅんいく)も銅雀台の宴に欠席した者の中の一人です。
荀彧は、漢王朝を堅持する考えなのです。

 この銅雀台での宴は曹操が天下に曹操ありと権威を示すことであり、同時に曹操に仕える臣下たち及び名士たちの本音を知るために催されたものだったのです。

賦の読み比べ』

 このときに曹丕と曹植が賦(ふ)の読み比べをしたことは三国志の物語のなかでも有名なエピソードです。
曹植はたいへん文学的才能に恵まれていて、このときも優れた賦を読みました。
その賦には曹操が皇帝になることを暗に含めた内容が込められた賦だったのです。
反対に曹丕の賦は曹植とは逆に漢王室への敬意を遠回しに含めたものでした。
このとき優れた賦を呼んだ曹植は褒美として平原公の地位を与えました。

 曹植には及ばないとしても曹丕も文学的な才能を持っていました。
父の曹操と三人をあわせて「三曹」と呼ばれていました。

『文化的価値観の変革』

 曹操は、単に武力で天下を治めるだけではなく、文化的価値観をも変革しようとしていたのです。
銅雀台は、儒教的価値観を持つ名士たちへの挑戦を世間に知らしめるものだったのです。

 武力制圧だけでなく文化的な変革を考える英雄は世界史の中でも珍しいです。
漢王室は儒教的価値観で成り立っていますから、その価値観を文学的な新たな価値観に置き替えようとしたのです。
その証拠に、銅雀台が完成した年に曹操は「才能のみが推挙の基準」とする求賢令を公布しています。
儒教的価値観に基づいて評価される仕組みを破壊しようとしたのです。
つまり、新しい価値秩序に従えと臣下と世間に迫ったのです。

 曹操という文学に理解のある人物が中原で権力を握っていたので、196年~220年の建安年間に「建安文学」と呼ばれる文化が花開きます。
「建安の七子」と呼ばれる文化人を輩出しています。
その中のひとりに、孔融という人物がいました。

 孔融は、儒教の祖孔子の子孫であり、儒教的価値観を代表する人物です。
孔融は名士たちからの指示があつく、いつも周囲には人であふれていました。
そんな血筋と名声を得ていた孔融は、傲慢なところがあり、曹操は「我慢の出来ない相手」と密かに言っていたようです。
そのことが正史に記載されています。
史実にも残っているように権力者曹操に対して逆鱗に触れるようなことを幾度も行っていました。

 曹操は初め孔融の才能、学識を認め利用していましたが、新しい価値秩序を建設しようとしたころには邪魔な存在となっていきました。
孔融は、勤皇の志があつく、漢王室の再興を悲願としていましたから、曹操と馬が合うわけがありません。

 結局、曹操は孔融の罪(曹操を誹謗した)を摘発する弾劾状を作らせて処刑してしまうのです。
(曹操らしい!)

 案の定、孔融の死後に曹操は名士層から多くの反発を受けることになりました。
しかし、曹操としては、単に武力による権力の交代で済ませるのではなく、時代の価値観そのものを変革するつもりだったのです。
そのために古い価値秩序を持つ名士たちと対立したのです。
新しい価値秩序として文学を利用しようとしたのです。

いつの時代でも時代に先駆けた変革者の前には、古い価値秩序の番人が立ちふさがるのです。
曹操という男は、乱世には珍しく、全方位的な改革者としての顔を持っているのです。

戦乱の時代に文化的興隆があることは珍しいのです。

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

 

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