『曹操伝1 ~若き日の曹操~』
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【曹操の個人データ】

生没年・・・西暦155年~220年(享年66歳)

出身地・・・豫洲ハイ国礁県(しょうけん)

字(あざな)・・・「孟徳」

幼名・・・阿まん、吉利

父親・・・曹崇(そうすう) 字「巨高」 大尉(三公の一つ。宰相職)

祖父・・・曹騰(そうとう) 字「季興」 中常侍(宦官の侍従職)、大長秋(皇后の侍従長)

妻・・・正室丁氏(玉英)、側室卞氏(阿厚)、劉夫人、環夫人など。

子供・・・曹昂、曹丕、曹彰、曹植、曹沖、他複数。

姻戚・・・曹仁、曹洪、曹純、夏侯惇、夏侯淵。

肩書・・・騎都尉、司空(三公の一つ)、丞相、魏公、魏王。

【曹操の幼少期】

 ハイ県随一の名門に生れた吉利(曹操)は、なにひとつ不自由のない幼少期を送っている。
祖父曹騰が学問好きであったために、家には書物が溢れていた。
幼少期の曹操は、学問と武芸を磨いた。

 少年時代の曹操は、頭が切れて、血の気が多く、手のつけられないいたずら坊主であった。
幼少期から青春期の曹操には、大きなコンプレックスがあったとみられる。
それは、「宦官の孫」というコンプレックスだ。
(宦官とは、去勢され男性としての機能を失った人)

 祖父曹騰(そうとう)は宦官で、そこへ養子に入ったのが曹操の父である曹嵩(そうすう)である。(父曹嵩の実家は夏侯氏である)
宦官は、朝廷での官位こそ高かったが、世間からはまともな人間とは見なされなかった。
つまり、社会的な地位はあるが、世間(民衆)の間では軽蔑される存在だったのだ。
そうした評価のギャップを若き日の曹操は味わっている。

 しかし、コンプレックス(劣等感)は、出世や成功するための原動力となることが多い。
若き日の曹操も、宦官の孫として世間の冷たい目を気にすることでグレてしまったのかもしれない。
そしてコンプレックスを跳ね返すことを原動力としたことは曹操においてもあったと思われる。

 ちなみに、少年期の曹操は袁紹といたずら仲間(竹馬の友)であった。
名門の出である袁紹とつるんで悪さをしていた。
少年期の曹操は、手のつけられない悪童だったのだ。

 『魏書』武帝紀に「少(わか)くして機警(機智があって、さとりのはやいこと)にして権数有り」と記されている。
つまり、幼いころから、智謀の片鱗を見せていたのである。

【若き日の曹操】

《若き日の理想像》

 漢王朝末期には名士たちが各地に存在した。
その名士の中でもスター的存在が李膺(りよう)という人物である。
李膺は『登龍門』の語源となった人物である。
(詳しくは『三国志の諺』をご覧ください)

 漢王朝は儒教を国教とする国家。
儒教を学ぶ書生たちが己の目標としたのが李膺である。
当時、李膺の活躍は“士”の鏡、羨望の的だった。

 李膺は、河南尹(河南群の行政長官)に抜擢されると、腐敗した役人や豪族を一網打尽にし、軍を自ら率いては鮮卑族と戦った。
李膺は自身の持つ力を最大限に使い、可能な限り宦官の不正を摘発した。
十常侍と呼ばれる宦官の最高位の一人である張譲の弟である張朔(ちょうさく)を貪欲非道の理由で洛陽の牢獄にぶち込み、取り調べ後、皇帝の勅許を得ずに自らの判断で処刑した。

 李膺は、腐敗を憎み、権力者を恐れず、厳格な法の適用をもって正義を実現した士なのだ。
悪は許さないという強い信念を持ち、肝のすわった人物であった。
その「義の心」「勇の心」「正義の心」はまさしく正義のヒーロー像そのものである。
若き日の曹操がこの李膺に憧れを抱くのは自然なことである。
曹操に限らず当時の青年たちのスターだったのだ。
なお、李膺に認められた“士”の多くが、のちに曹操の軍事・政権に参加することになる。

 もうひとり若き日の曹操が理想像としたであろう人物がいる。
「西北の列将」に連なる橋玄(字は公祖)である。
橋玄は典型的な儒教的な儒教官僚であったが、子どもが誘拐されたときに、子どもごと誘拐犯を殺害するなど「猛政」を指向した人物である。
(注:猛政とは法律を厳格にし、厳しく処罰する政治姿勢のこと)

 橋玄は法に基づく厳格な猛政を行った人物である。
たとえ相手が豪族(漢代の大土地所有者)でも、その不法を許さず、外威・宦官とかかわりをもつ者でも必ず弾劾した。
末っ子の人質(誘拐事件)の後には、宮中に赴きこう主張した。

「人質事件があった際には、人質を解放するために財貨を用いて悪事を拡大させないようにいたしましょう」と。

 これは現代社会に翻訳してみると驚くべきことを言っていることに気がつく。
例えば、テロリストに人質を取られても、テロリストの要求に一切応じない。
たとえ人質の命を犠牲にしてでもテロリストを撃退(殺害)する。
そう言っていることと同じだからだ。

 若き日の曹操は、この橋玄の行動を自らの手本としていた。
曹操の青年期に橋玄を見習ったとされる出来事がある。
曹操が20歳の頃、洛陽北部尉となったときのことである。
夜間通行の禁(当時、夜間外出は禁止されていた)を破った貴人を捕らえて叩き殺すという厳格な処罰を行ったことがある。
これは棒叩きの刑だが、法に則った処置である。
曹操のやったことは法を厳格に守っただけであるが、当時としては非常に珍しいことであった。
というのも、権力のある者が法を破っても、下の者はそれを見て見ぬふりをすることが慣例であったからだ。
要するに社会が腐っていたのだ。
それを曹操は、地位があろうと関係なしに取り締まったのだ。
いや、相手が貴人であったからこそ、世の中への“示し”として厳罰にしたのだ。

 若き日の曹操は正義感あふれた男だったのだ。
若き日の曹操は理想とする橋玄と同じように、辺境で漢のために戦い、功績を上げることを人生の目標と考えていた。

『魏武故事』という書物には、曹操の若年期の志を自ら語った言葉がある。

「わたしが始めて考廉(官僚登用制度)に擦挙(太守に推薦されること)されたときは、年少で、もとより墓穴に暮らして(孝心を示す)名を知られた士などではなかったので、天下の人から、凡庸で愚かと見られることを恐れ、一郡の太守となって優れた政治と教化を行い、名誉を打ち立て、世の中の士にそれを明らかに知らせたかった」

「そののち墓石には『漢の故(もと)の征西将軍である曹侯の墓』と刻まれる、これがその志であった。しかるに董卓の難に遭遇し、義兵を挙げたのである」

 「漢の将軍」として墓石に刻む、と言っているのである。
青年期の曹操には、漢王朝の簒奪という野望はなかった可能性が高い。
あくまでも黄巾の乱および独裁者董卓によって乱れた世を立て直したいという理想に燃えていた、と思われる。
では、いつ曹操は変わってしまったのか・・・。
いや、変わっていなかったのか・・・。
それは、別の機会に譲ります。

 若き日の曹操は、この橋玄の紹介で許劭(きょしょう)という人物に逢う。
許劭は人物鑑定の目利きとして世に知られていた。
許劭は毎月一日に郷里の人々の品定めである「月旦評」を行っていた。
曹操は許劭の噂を聞きつけて、押し掛けて行き無理やり人物批評を迫った。
そのときの許劭の台詞が世によく知られた言葉である。

「きみは治世にあっては能臣(能力のある臣)、乱世にあっては姦雄(悪知恵にたけた英雄)ならん」

 要するに平和な世の中なら、有能な臣下なる。
だが、乱世なら悪い意味での英雄となる。
そう評価したのだ。
許劭のこの言葉を聞いた曹操は、大声で笑ったという。

《曹操の青春時代》

 十代の頃の曹操は、現代的な言い方をすれば、不良少年だった。
宦官の家に生まれたことのコンプレックスを持ち、屈折した感情を抱いていた。
ただ、グレていたことが後の曹操に恩恵をもたらした点もある。
それは、社会の底辺の人々、屈折した無頼の人たちの感情を肌で感じ取ることができたからだ。
それは多くの人を率いるリーダーシップを形成する上で大いに役に立ったことだろう。
現代日本の政治家が見習う点がここにある。
現代日本の国会議員には、世襲議員が多くいる。
議員の家に生まれることの弊害は、「大衆の感覚を学ばずに育つ」ことだろう。
多くの民と同じ“肌感覚”がなければ、真に民のための政治はできないのだ。

 もし、曹操が名門の家系に生まれ、籠の鳥よろしくお坊ちゃまとして育っていたら、果たして中原の覇者となり得たかどうかは分からない。
曹操はグレていたことで、頭が良いだけの秀才とは違い、「人間としての魅力」を身につけたともいえる。
つまり、若き日の曹操は「任侠の徒」だったのである。

 おもしろいことにグレていたころに一緒につるんでいたのが名門の御曹司であり、後の宿敵となる袁紹なのだ。
曹操は、袁紹とつるんで街に繰り出しては放蕩の限りを尽くしていた。

 『世説新語』という人を騙す狡知を集めた話の書物がある。
その中に若き日の曹操と袁紹の結婚式荒らしをする逸話がある。
曹操は袁紹などの不良仲間たちと街をぶらつき、婚礼の最中の家をみかけると、その家の庭に忍び込む。
暗くなるのをまって「泥棒だー!」と叫ぶ。
式場にいた人たちが、おっとり刀で外へ出てくると、その隙に室内へ入り、花嫁を刀で脅して強奪する。
そんなことをやっていたのである。
史実であるかどうかは不明だが、花嫁強奪未遂の話が後世に残るほど、曹操の若いころの放蕩無頼ぶりは相当なものだったということだ。

 ちなみに私見だが、若いときの花嫁強奪は壮年期になっても治らなかったようだ。
曹操には、側室や妾が非常に多いが、ほとんどが“他人の嫁”だった女性である。
つまり、人妻だった女性を自分のものとしているのだ。
余談でした。

【まとめ】

 宦官の孫という生まれた家柄にコンプレックスを持ち、漢王朝の大尉(権力者)になった父を持つことで優越感を合わせ持った。
(「大尉」は現代で言えば、大臣級の地位にあたる)
グレて放蕩し放題の不良少年(曹操)は、李膺、橋玄という理想像を見つけ出し、英雄へと駆け上がる志を抱く。
少年期に理想の人物を見つけられるか、ということは人にとってその生涯の方向付けをし、運命を切り開く鍵となる。

 曹操という人物を理解する上で、李膺と橋玄の存在を抜きにしては彼を語れない。
曹操という漢(おとこ)の人生は、李膺と橋玄を超えたのかそれとも劣ったのか?
曹操の中で理想の人物像が変化したのか?
そうした観点は、後世の人間にとっての学びとなる。

そして時代は乱世の渦が巻き起こる。
乱世は英雄を欲する
舞台は整ったのだ。

『曹操伝2』へ続く

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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