『荊州争奪編11 ~吉と出るか? 凶と出るか?(政略結婚)~』
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『吉と出るか? 凶と出るか?(政略結婚)』 

前回は、劉備に持ち上がった縁談について話をしました。
今回は、政略結婚の続きを話してみたいと思います。 

 

【孔明の3つの策、第一の策】

 劉備は護衛の趙雲を伴って船を長江に進めました。
向かうは孫権の待つ南徐

 劉備の身を案じた孔明は趙雲に三つの袋(策)を授けます
そしてこう指示します。

「この三つの袋には策が入っている。赤、黄、白の順に開けるのだ。船が呉に入ったら袋を開けその策に従え。次は年の瀬になっても呉に帰れぬときは二つ目の袋を開けて策に従え。最後の袋はいざというときになったら開けよ」

そういって三つの袋を趙雲に渡すのです。

 余談ですが、孔明が趙雲を護衛につけたのは趙雲への厚い信頼があったからですが、趙雲のほうも孔明を強く信頼しています。
それはこれより少し前に趙雲が嫁を娶ったときの仲人をしたのが孔明だったのです。
それほど二人はお互いに信頼する間柄だったのです。
だから孔明は趙雲を護衛につけたのです。

 船を進めてあと少しで呉の領内に入ろうとするときに、趙雲は孔明から授かった一つ目の袋を開けてみます。
趙雲はその策に従います。

 趙雲は、南徐の手前の盧江鎮で結納の品を揃えてから南徐に行くべきだと主張します。
劉備が承知したので、趙雲は配下の兵たちに、劉公淑が呉公の妹と婚礼をあげることを派手に言いふらしてこいと命じます。
すると、町中に劉備と孫権の妹(孫小妹)との婚礼の噂が広まっていきました。
劉備を呼び寄せるための偽の縁談話を城中の民に知らせることで既成事実にしようとしたのです。

 南徐に着いた劉備は孫権のもとへ行かずに別の人物に会いに行きました。
その人物は、呉の元老喬国老(きょうこくろう)でした。
喬国老とは、美人姉妹の大喬と小喬の父親です。
劉備は、孫権よりも先に喬国老に挨拶に行ったのです。
これが孔明の一つ目の策でした。

 劉備が呉にやってきた理由を聞くと、喬国老はすぐにある人物に会いに行きます。
それは孫権の母親である呉国太(ごこくたい)です。
喬国老は呉国太に劉備と妹の婚礼の話を伝えたのです。

注) 呉国太とは、孫権の実母である呉夫人の妹で孫堅(孫権の父)の後妻となり孫小妹を
   生んだ人物です。孫策と孫権からすれば義理の母親となります。

 呉国太は、大事な娘を50歳近い男に差し出すと聞かされて怒りだします。
孫権がなんとかなだめようとして、政略結婚というのは嘘で本当は騙して亡き者にする計画なのだと打ち明けます。
すると、「劉備を殺せば娘は嫁入り前に後家となり、二度と嫁入り出来なくなる。娘の一生を台無しにするのか」と泣きながら孫権に詰め寄ります。
側にいた喬国老は、計略には反対だと孫権に抗議します。
こうなったからには真の婚礼をあげるべきだと加えて主張します。
それを聞いて呉国太は、劉備という男を自分の目で見極めるから、甘露寺に連れてこいといいだします。
もし、そこで劉備を気に入れば娘を嫁がせると言い出します。
孫権は反論もできず呉国太のいうことに従わざるを得ませんでした。
それでも、兵を配置して密かに劉備を暗殺しようと企むのです。

 一方、周瑜の企てを知った魯粛は密かに劉備のもとへやってきて、甘露寺には行くなと止めに入ります。
行けば命の危険があると伝えるのです。
それを聞いても劉備は行くと言って考えを変えません。
行かねば孫劉同盟が維持できないと固く信じていたからです。

 このときの劉備の強い意志は見事なものだと思います。
劉備は20年に渡って戦場を掛けめぐり、何度も命の危険にあってきました。
「度胸」も英雄の資質なのだと劉備の姿が語っています

 翌日、劉備は、甘露寺において呉国太をはじめ孫権たちと会うことになりました。
すると呉国太は一目見て劉備を気に入ってしまいます
劉備に英雄の資質を感じ取ったのです。

 慌てたのは孫権と周瑜です。
まさか偽の政略結婚のはずが、本当に小妹(孫権の妹)を嫁がせることに事が運びそうだからです。
呉国太が劉備を気に入らなければ、潜ませた兵たちに命じて劉備の命を奪おうと企てていたことがすべて水の泡となってしまったからです。

 孔明がなぜ、喬国老に会いに行くように指示したのか、呉国太に政略結婚の話が耳に入り、なおかつ劉備の姿をみればきっと気に入るはずだと踏んでいたのです。
見事に孔明の読みが当たったのです。
しかし、綱渡りをしているように危険と隣り合わせでした。

 劉備の気持ちは、なんとかして孫劉同盟を維持したいということだったのでしょう。
それに比べて孫権と周瑜は、目障りとなってきた劉備を取り除こうとしたのです。
あとの問題は花嫁となる孫小妹本人が劉備を気に入るかどうかですね。
孫権と周瑜は、30歳も年齢が上の劉備を気に入るはずがないと思っていたようです。

【三国志は男性の物語?】

 今回の政略結婚の話においてわたしには少し気になる点があります。
それは呉の人たち(孫権や呉国太、孫小妹など)にしても、劉備自身にしても結婚する相手との年の差ということをずいぶん気にしているからです。

 日本の戦国時代と三国志の時代とを比較すると不思議に思えます。
たしかに現代人からすれば50歳近い年齢の男に20歳前後の娘を嫁がせることは驚くことでしょう。
(劉備はこのとき48歳くらいと言われています。孫小妹は20歳の手前だったようです)

 でも、戦乱の時代における政略結婚とはそういうもので日本の戦国時代などでは年齢差など気にしている様子がまったく見られません。
豊臣秀吉が晩年にむかえた側室の淀君は、劉備と小妹に負けないくらい年齢差があったはずです。

 三国志の中でも政略結婚の事実はもっとあったはずなのですが、なぜか表面にはあまり出てきません。
曹操などは数えきれないほど妾を抱えています。

 突然ですが、
孔明の嫁を知っている人がいますか?
そうです。
三国志は男たちの物語なのです。
ですから女性の存在、活躍が薄いのです

 近代においては女性の活躍だ、社会進出だと騒がれていますが、歴史を読み解けば圧倒的に女性が表舞台に出てくることは少ないのです。
けれど、もしかしたら日本人自身が誤解している人も多いですが、古代から日本には女性の活躍が認められてきているのです。
そこが中国をはじめとする大陸に生れた国家と違うところです。
アジアにおいても欧米においても時代が古くなればなるほど女性の影が薄くなります。

 よく日本は男尊女卑だ、などと言いますが、それは日本の歴史を正しく知らないだけです。
例えば、欧米などでは夫が稼いだお金をそのまま妻に渡すことはしないことが多いです。
逆に日本は、財布のひもを妻に握られるなどというように、影に控えているように見せて実はしっかりと夫を操縦しているのが女性(妻)だったりします。

 日本の平安時代には、世界初の小説を書いた紫式部や随筆で知られる清少納言などが活躍しています。
欧米やアジア圏の国家と比べると日本のほうが女性の活躍が認められていたのです。
ただ、戦争などでは女性が活躍できないことが多いという事情があるのです。
世界史とは「戦争の歴史」だと言われています。
それが先の敗戦によって欧米文化が大量に流れ込んできたため、日本の文化が欧米化したのです。
ですから今になって女性の社会進出などと世間では騒ぐのです。

 そもそも日本の最高神は天照大神という女性の神様なのですから。
だからこそ女性の天皇が何人も存在してきたのです。

 さてさて、孫小妹は30歳も年の離れた劉備を気に入るでしょうか?
「禍福は糾える縄の如し」と言いますから、凶と思われていたことが吉をもたらすこともあるかもしれませんね。

【今回の教訓】

「凶が出るか、吉が出るか、分からないときに運を味方につけるのは、その人が持っている人間の魅力である」

『荊州争奪編12 ~甘い誘惑~』

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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