『大局を見る人物と小事に囚われる人』
前回は、荊州を巡る交渉戦について話をしました。
今回は、劉備に持ち上がった縁談の話をしてみたいと思います。
【政略結婚】
苦しい言い訳をして荊州を返さない劉備に孫権と周瑜は憤慨します。
そこで、周瑜は一計を思いつきます。
それは夫人を無くしていた劉備に政略結婚の話を持ち掛けて、呉におびき出して亡き者にしようと企むのです。
(陰険だな!)
しかも劉備に嫁がせる相手が孫権の妹なのです。
魯粛から政略結婚の策を聞いた孫権は考えます。
心配なのは劉備陣営が戦を仕掛けてくることです。
その心配は魯粛の言葉で氷解します。
「劉備がこちらにいれば孔明は手が出せないでしょう」
そこで孫権は政略結婚を名目にして劉備をおびき出す策に乗ったのです。
さっそく呂範(字 子衡(しこう))を使者として劉備のもとへ送るのです。
劉備は、縁談の相手が孫権の妹だと聞いて驚くとともに断ります。
このとき劉備は50歳を迎えようとする高齢(?)の身。
孫権の妹はまだ20歳くらいだったといわれていますから、その年齢差は30歳も離れていることになります。
劉備ははじめ歳の差があることを理由に断ろうとしていましたが、孔明から妻とされるにはふさわしい女性である、年齢差など問題にはならないと説得されて結局縁談を承知するのです。
もちろんそこには呉との同盟を強くするという狙いがあってのことでもあります。
この政略結婚について正史「先主伝」には、劉備の勢力が広がることを恐れた孫権が友好関係を固めるために妹との縁談を持ちかけたとあります。
周瑜主導の政略結婚策ではなく、孫権自身の計略であったというのが本当のところのようです。
孫権には勢力を拡大していく劉備陣営を牽制する狙いがあった、ということです。
【部下の反対、主君の決意】
この時期の劉備陣営は、荊州南部を攻略しています。
零陵、桂陽、武陵、長沙の四郡を手中に治めています。
そこで関羽を襄陽太守に、張飛を宜都太守に、趙雲には桂陽太守に命じています。
さらに孔明には、軍師中郎将に任じて、零陵、桂陽、長沙の三郡を治めさせています。
劉備本人はというと、劉キが亡きなった後、自身は荊州牧となり油江口を「公安」と改め政庁(荊州の中心地)としていました。
劉備は、孫権へ礼を伝えるために孫乾(そんけん)を使者として送ります。
しかし、そこで孫乾は耳を疑う話を聞きます。
それは南襄で婚礼をするというのです。
それが意味することは、劉備を婿に迎えるということなのです。
それを聞いた孔明、関羽、張飛は劉備の‟婿入り“に反対します。
通常、政略結婚であれば花嫁を新郎のところへ送って婚礼をあげます。
なのに、呉に来いというのはそこに企みがあると見て取ったのです。
関羽、張飛は強く反対しますが、劉備は呉へ赴くと固い決意を見せます。
孔明は、これが策略であると見抜いたのですが、胸の内では複雑な感情が入り混じっていました。
もし、劉備がこの縁談を断れば、それを口実に呉は戦を仕掛けてくる。
かといって劉備を行かせれば命を奪われる危険もある。
命があってもいつ荊州に戻れるか分からなくなる。
行くも行かぬも難。
孔明の心は大局を見る理性と主君を心配する感情の間で苦しむのでした。
【劉備と孔明の憂い】
劉備も深く考えていました。
自分が呉へ行っている間に荊州で騒動が起きることを恐れてこう言い渡すのです。
「すべての軍権を軍師孔明に預ける。荊州の大事を全て任せる。呉にいるわたし(劉備)からの命令を聞かずともよい。すべては軍師の指示に従え」
劉備は孔明への絶大の信頼を見せるのです。
劉備の心配は孔明の心配と同じものでした。
その心配とは、関羽と張飛のことです。
劉備不在となれば、この二人を押さえることが出来る人物がいなくなるということです。
関羽と張飛の二人と他の武将たちとはまったくその立ち位置が違っているのです。
関羽と張飛にとっては義兄弟の劉備しか本当の意味で信頼していないのです。
劉備への思いが強すぎるのです。
劉備がいなければ、軍師孔明でさえも蔑ろにする可能性があるのです。
ですから、劉備が長く呉から戻らない、または劉備が呉の人物に襲われるなどということがあれば、軍師孔明の命令を聞かずに勝手に兵を動かして呉に攻め入ってしまうかもしれない。
そうなると孫劉同盟は破棄され、呉の孫権と荊州の劉備との間で骨肉の争いが起きてしまう。
北方の曹操がいまだ大勢力を維持しているいま、そのような事態となれば大業が遠ざかってしまう。
それが劉備と孔明の心配事だったのです。
ですから、劉備は関羽と張飛を強く諫めたのです。
【劉備、大局を観る】
それと、一番の心配は劉備暗殺の危機です。
孔明は、劉備の護衛に一番信頼する武将の趙雲を一緒に行かせることにするのです。
それと、周瑜の軍勢が攻めてくることを予想して二万の兵を配備しました。
赤壁の戦いまでは孫劉同盟はそれなりに成り立っていましたが、荊州の支配権を巡って孫権と劉備の間でお互いの思惑がぶつかってしまったのです。
いまや孫劉同盟はひび割れたのも同然の状態となっていたのです。
劉備とすれば、漢王室再興の大業を成すために、孔明の示す天下三分の計を進めていきたい。その実現のためには荊州が必要となる。
呉(孫権)には渡すことが出来ない、というもの。
孫権のほうも、大軍を出し赤壁で曹操軍を破ったのは呉である。
勝利したはずの呉に得るものがなかった。
呉とすれば曹操と対抗するためには、荊州を抑えることが大事となる。
だからこそ、荊州を劉備に奪われることを黙って見ていられない。
取るに足りない勢力の劉備が勢力拡大していくことを、放置するわけにはいかない。
両者の思惑が完全に交差してぶつかりあっているのです。
実は、天下三分の計の難しさがここにあります。
日本の戦国時代のように、複数の勢力が乱立している状態ならば、同盟する相手と敵対する相手を変えることができるかもしれませんが、劉備と孫権が置かれていたこのときの状況は三者並立に近い状況だったのです。
ですから、昨日の味方を今日は敵にする。
逆に、昨日の敵を今日は味方にする、そうした選択が重い意味を持ってくるのです。
劉備は危険が待っているかもしれないと始めから分かっていながら、それでも呉との関係を崩すことは出来ないと考えたのです。
むしろ、いまは呉との同盟を死守しなければならない。
そうすることが20年の流浪の身からようやく抜け出して大業の足場となる領地を守ることだと思ったのです。
つまり、劉備は大局を見ていたのです。
それに比べて孫権と周瑜は大局を見るというよりも、目の前のこと(劉備から荊州を奪うことだけ)に囚われているように思えます。
遠大な道を見ているのではなく、目の前の小さな出来事に囚われてしまっています。
劉備さえ暗殺してしまえばいいと考えるようでは、天下は取れません。
【大局とは戦略】
劉備と同じとは言いませんが、こうした矛盾した状況におかれることは誰の人生でもあることではないでしょうか。
このときに、なにを優先するのか。
なにを大事と見るのか。
失うものと失ってはいけないものを正しく見抜くこと。
例え運命が自分の意に添わなくても従わなければならない時がある。
それを受け入れる度胸と大局を手放さない信念が後に道を拓くことにつながっていくことになるのです。
大事なことは正しい戦略の策定です。
戦略が正しければ、その戦略に添った戦術や作戦を柔軟に生み出して目的を達するべきなのです。
目先の敵や出来事に目を奪われて、大局的な目標を失ってはいけないのです。
政略結婚で敵を亡き者にするなどというのは、小手先だけの小事にしか過ぎないのです。
孫権と周瑜にはもっと大局を見て欲しかったですね。
【今回の教訓】
「目先の敵や出来事に目を奪わずに、大局的な目で物事を見る」
『荊州争奪編11 ~吉と出るか? 凶と出るか?(政略結婚)~』
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。