『英雄帰天編17 ~関羽の死~』
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『関羽の死』 

前回は、関羽対曹操・孫権同盟軍という話をしました。
今回は、義の英雄関羽の死という話をしてみたいと思います。

【呂蒙と陸遜の計略】

 先鋒の龐徳の首を斬られ、大将の于禁を捕らえられ、樊城(はんじょう)が落城寸前になったことで曹操は焦ります。
曹操がどれだけ焦ったかというと、都を移して難を逃れようと言い出すほどに危機感を感じていたのです。
そこで仲達が、孫権を動かし関羽の背後から襲わせる作戦を画策するのです。
孫権としても、この機会に荊州を取り戻す最大のチャンスと見てとったのです。
関羽は豪傑ですが、呉と魏で挟み撃ちする作戦に勝機を得られると思ったのです。

 孫権が荊州攻略の命令を出した人物は魯粛が死んでから呉の大都督となっていた呂蒙でした。
呂蒙(りょもう)という人物は無き大都督周瑜の弟子ともいえる存在です。
ですから、周瑜と同じように反劉備派の筆頭のような人物です。
過去には劉備の暗殺さえ企んだこともあります。
呂蒙とすれば、憎き劉備の義弟関羽を打つことは悲願ともいえるのです。
呂蒙は、関羽を意気にはやる英雄であり、分割した孫呉の荊州領を将来的に侵略する可能性が高いと見立てていたのです。
ですから、呂蒙としてはこの機会に関羽を打ち倒そうと思ったのです。

 ところが、陸口に駐屯した呂蒙は、関羽への敵意をひた隠しにします。
それどころか以前にも増して友好関係の構築に努めるのでした。
関羽が樊城に向かった後も、関羽を油断させるために病気療養と称して都の建業に戻ってしまいます。
呂蒙の狙いは、関羽を安心させ、荊州に残している守備隊を引き上げさせ全兵力を北方の曹操軍に差し向けさせることです。

 呂蒙は、自分の代わりとして陸遜(りくそん)という武将を推挙します。
陸遜はまだ若輩の身でしたが、このとき副都督となっていました。
また、陸遜の家系は代々孫家に仕えた重臣四家の内のひとつなのです。
つまり、呉の名家の出自なのです。
陸遜も呂蒙の路線を継承します。
呂蒙の代わりに陸口に駐屯すると、関羽に手紙を送り「将軍の勲功は末永く語り伝えられるものです」と、関羽を持ち上げます。
気位の高い関羽はそれで気を良くしてしまいます。

 関羽に付き荊州の参謀役をしていた馬良(ばりょう)は、関羽の侵略的な行軍に反対しますが、関羽は言うことを聞きません。
馬良とは、馬謖(ばしょく)の実兄で、孔明が認めた博識、知恵者です。

 呂蒙と陸遜の読み通り、関羽は呂蒙が病気療養に入ったとの報を受けて、荊州の守備隊を北方の戦線に駆り出してしまいます。

 関羽は陸遜を青二才といって馬鹿にしてしまったのです。
正史「陸遜伝」には、関羽が陸遜の手紙を読んで大いに安心し、呉に対する警戒心をまったく棄ててしまった、と記述されています。
関羽が荊州の守備隊を北方戦線の樊城攻略へ差し向けてしまった理由はもう一つあります。
それは、荊州に万が一のことがあれば、狼煙をあげて関羽のもとへ知らせが入る仕組みを用意していたからです。
荊州の危機を狼煙のリレーで遠くへ知らせることを準備していたのです。
(日本の戦国時代の武田信玄が使った狼煙の仕組みと同じ)
荊州に万が一のことがあったときには、狼煙があるはずだと安心していたのです。

 荊州守備隊の兵力が北上戦線に向けられた情報を掴んだ呂蒙は動きます。
まずは関羽が設けた緊急連絡用の狼煙台を次々と奪い取ります。
各地の城を落し、関羽の部下やその家族をすべて捕らえます。
占領した呂蒙は、略奪を禁止し、善政をしきます。
普段よりも手厚い待遇を受けた領民たちは、呂蒙の統治をすんなり受け入れてしまうのでした。

【関羽の最後】

 樊城攻略にあたっていた関羽の元に予想外の知らせが届きます。
それは荊州が呂蒙によって奪われたという耳を疑う情報です。
知らせを受けた関羽は愕然とします。
北方戦線では、曹操が送り出した徐晃の援軍も新たに加わって苦戦しています。
そこへ足場であり関羽の本拠地である荊州を奪われたのですから当然驚きます。
さらにこのタイミングで樊城の曹仁と徐晃が関羽の荊州軍を挟み撃ちにしてきました。
苦境に陥った関羽は敗走するしかありませんでした。
魏軍の追撃に関羽軍は分断され多数の兵士たちが殺されました。
関羽、関平親子はわずかに生き残った兵士たちと命からがら襄陽郊外へ落ち延びました。
進退窮まった関羽は、伊籍と馬良を成都へ向かわせ、援軍の要請を求めたのです。
このとき、関羽は劉備の援軍を待たずに荊州城の奪還に動きます。
しかし、ここで問題が発生します。
荊州を守る兵はもちろん荊州の民、関羽の引き連れている兵士たちも荊州の民。
同じ荊州人が争うことになってしまうのです。
中には家族や友人が相手方にいるという状況となっている者もいます。
親や子、友人に刃は向けられない、ということです。
当然、兵士たちは戦意を喪失して、戦闘放棄してしまったのです。

 そこへ呂蒙が攻めこんできました。
勝ち目のない関羽は麦城へ撤退します。
食糧のない麦城では、援軍の到着を待っている余裕はありません。
打って出て全滅するか、降伏するしか選択肢はない状況になってしまいました。
窮地に陥った関羽は、麦城を捨て、北門から抜け出して蜀の領地にたどり着こうと考えます。
伏兵がいると忠告されますが、伏兵など恐れるに足りずと言い張り、北門から出て行ってしまいます。

 実は北門付近が手薄だったのは呂蒙の作戦だったのです。
わざと麦城の北を手薄にして関羽をおびき出そうとしたのです。
関羽はまんまと呂蒙の作戦に引っ掛かってしまったのです。
わずかな手勢で関羽は奮戦しますが、多勢に無勢、とうとう捕獲されてしまいます。

建安24年(219年)冬10月、豪傑関羽と息子関平は首を斬られました。
関羽58歳でした。

 かくして荊州は孫権によって平定されました。
劉備は、最も頼みとする義弟関羽を失い、荊州を失いました。

 歴史に「もし」を言っても仕方がないのですが、魯粛が生きていたら呉と魏の連携作戦はなかったと思われます。
とすれば、関羽の死もなく、荊州を奪われることもなかったでしょう。
いずれは荊州を巡って呉との争いは起きたでしょうが、しばらく荊州は劉備の支配地のままであったはずです。
そう考えると、魯粛の死が荊州を巡っての争いを呼び寄せたともいえるでしょう。

 関羽の死からまもなく、不思議なことが起きます。
呂蒙の功績を祝う宴の最中に発作、痙攣を起こし、気がふれて倒れ、非業の死を遂げたのです。
三国志の中でも摩訶不思議なことです。
関羽を倒した武将呂蒙のあっけない最後でした。
人々は、関羽の祟りだと噂しました。

『今回の教訓』

 関羽の驕り高ぶり(傲慢さ)が招いた悲劇といっていいでしょう。
関羽は豪傑、英雄です。
一対一で関羽と戦って勝てる武将はいません。
その自信が傲慢となっていたのです。
関羽は強過ぎたゆえに、傲慢な性格を持っていたのです。
だから、孔明、馬良などの忠告を受け入れることが出来ずに死を招いたのです。
馬良の言う通り、荊州の守備を最重要と考え、守備兵を動かさず、南方の孫権と和し、北方の曹操軍と対峙すれば悲劇は避けられたでしょう。
関羽の傲慢さが油断を生んだのです。

 逆に呂蒙、陸遜は兵法の定石通りの戦をしています。
「進みたければ、退くように見せかけ」
「倒そうと思えば、従うように装う」
孫子の兵法のいうところの「戦は騙し合い」を呂蒙と陸遜は実戦したのです。

「驕るものは久しからず」

「勇まし過ぎたるは、災いを呼ぶ」

「敵への敬意が、災いを避けることにつながる」

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

『英雄帰天編18 ~乱世の奸雄、散る!~』

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