【孫堅の個人データ】
生没年・・・155年~192年(生没年不確か)(曹操より1歳下、劉備より5歳年長)
出身地・・・呉郡富春県
字(あざな)・・・「文台(ぶんだい)」
家系・・・春秋時代の兵法家孫武の子孫
父親・・・不明
妻・・・・不明
子供・・・孫策、孫権、孫ヨク、孫匡(そんきょう)、孫子妹(そんしょうめい)
肩書・・・始祖、武烈皇帝
【孫家の家系について】
孫堅の先祖は、春秋時代(前770~前403年)に兵法書『孫子』を書き記した孫武であるとされている。
《孫武(孫子)について》
孫家の先祖孫武(孫子)とは?
孫武とは、春秋時代の武将・軍事思想家で、兵法書『孫子』の作者です。
字(あざな)は「長卿」。
(孫子という呼び方は尊称)
孫武の出身は斉国。
『新唐書』「宰相世系三下」によると、孫一門は田完から五代の子孫である孫武の祖父が軍功によって孫性を賜ったとある。
つまり、孫家はもともと田氏ということになる。
紀元前517年頃、一族内で内紛があり、孫武は一家を連れて江南の呉国へと逃れた。
そこで呉の宰相伍子胥(ごししょ)の知遇を得る。
その後、呉の王都姑蘇郊外の山間に蟄居して『兵法書十三篇』を著作した。
前515年、呉国の王に闔閭(こうりょ)が即位すると、伍子胥は闔閭に「兵法書十三篇」を献上し、七回にわたり兵法書の登用を説いた。
伍子胥の強力なすすめもあって呉王闔閭は孫武を将軍に任じる。
呉の将軍となった孫武は、呉国の宿敵楚国の衛生国を攻め攻略する。
これを手始めとして孫武は次々に手柄を立てる。
孫武には孫馳・孫明・孫敵という三人の息子がいたとされる。
次男の孫明は呉の富春群を賜り、後の富春孫氏の祖となった。
富春孫氏は、富春龍門孫氏と称されている。
『四庫全書』によれば、三国時代の孫堅、孫策、孫権の父子はこの富春龍門孫氏の家系(孫武の次男の)とされている。
『呉書』によれば孫堅の家は呉群で代々役人をしていたという。
【三国志の時代背景(民の意識)】
近代になって中華人民共和国が成立するずっと以前の3世紀の中国では、国全体の連帯感や愛国心が薄かった。そのかわり郷土や出身地に対する愛着心は強烈に持っていた。
中国語(漢語)は、大別すると北京官語、呉語、広東語、福建語、客家語(はっかーご)の5大方言であると言われている。
これらは方言と呼ばれているが、実質的にお互いの言語が相通じず、むしろ外国語といったほうが似つかわしいくらいである。
だから、漠然とした国家意識よりも、同じ言葉を使い、同じ里の人間だという意識の方が強くなるのは無理もないことのように思える。
この中国人の郷土意識は現代にも色濃く残っている。
中国でのビジネスは人間関係が重要だといわれるのは、このことが大きく関係している。
ナショナリズムやイデオロギーよりは次元の低いと見られている郷土意識は、もちろん日本にもある。
さらにいうと、明治維新から戦前までは、軍部における郷土意識が幅を利かせていた。
陸軍では山口県出身者が、海軍の上層部では鹿児島県出身者が多かった。
郷土意識よりも低いものに学閥、門閥がある。
この傾向は官僚と経済界の一部に強く存在している。
医者の世界も学閥、系列がある。
このように三国志の時代では、国家的民族意識よりも、郷土意識のほうが強かった。
そして、三つの国、魏、呉、蜀の中で一番強く郷土意識で結ばれていたのが呉である。
それが呉の他の2国(魏と蜀)にない特徴である。
さらに、呉の孫家が兵法の大家孫武の子孫という名門であることの意味は大きい。
日本で言えば源氏の直系というような武門の名家を意味する。
つまり、孫堅には2つの有利な点があったということ。
それは、武勇と兵法理論で名高い名家の子孫であること。
もうひとつが呉という郷土意識で繋がっている仲間が多くいたこと。
孫堅を語るには、この2つの背景を抜きにしては語ることはできない。
【孫堅の人物評】
《正史『三国志』の評価》
「勇摯(ゆうし)にして剛毅、忠壮の烈あり」
正史『三国志』(孫堅伝)の記述である。
訳は、「勇猛で剛毅な人物。勇壮で忠節の心があった」
孫堅の人柄に関する資料はあまり残っていないため、性格や人柄を知る手掛かりはほとんどない。
だが、あえて孫堅を語るとするならば「戦いの人」と言えるだろう。
身体的にも精神的にも武勇の才能に恵まれた漢(おとこ)だったことは間違いない。
平和な世に生まれるよりも、乱世に生まれてこそ、輝きを発揮するタイプの人物である。
正史の記述にあるように、「勇猛」で「剛毅」しかも、「忠節心」を持っていたとなれば、日本人からみればサムライ精神を身にまとった戦神の化身と呼んでもおかしくないだろう。
【孫堅の半生】
孫堅は黄巾の乱のよる混乱を治めるべく立ち上がった英雄たちのひとりである。
孫堅が17歳のころ、ある村で略奪を行う海賊たちと遭遇した。
そのとき孫堅は、見晴らしの良い位置に立ち、あたかも大軍を指揮して海賊を包囲するかのような素振りで海賊たちを驚かせて彼らを逃走させた。
さらに、海賊たちを追いかけ、首を取って戻って来たという。
この出来事が孫堅の名を世に広く知らしめることになり、役所から警察・軍事の役を任されるようになる。
やがて群司馬(軍事を司る職)となり、会稽郡で許昌という宗教指導者が起こした反乱を鎮圧する。
数万人規模の反乱を自ら募った1000人ほどの義勇軍で打ち破ったことから見ると、孫堅には天性の武勇と統率力が備わっていたと思われる。
孫堅の武勇を知り、各地から人々が集まってくるようになったという。
(この時代は各地で騒乱が起こっているので、民衆は平和な土地を求めていたため)
184年、「黄巾の乱」が起きて漢王朝が鎮圧に乗り出すと孫堅は積極的に官軍として参戦した。
(黄巾の乱が起きたとき、孫堅は28歳の青年であった)
このとき孫堅は下ヒ県の副知事であったが、朝廷から右将軍朱儁(しゅしゅん)軍の部隊長に抜擢された。
孫堅が率いる軍は向かうところ敵なしの強さを誇り、苑城の攻略においては、孫堅みずから先頭に立って城壁を登り、味方を奮い立たせ大活躍している。
とくに出身地の江南に近い荊州の鎮圧に功があったことを認められて烏亭侯(うていこう)に封じられた。
その2年後の186年、涼州で辺章と韓遂が起こした反乱の鎮圧を命じられる。
当初、この鎮圧軍を指揮していたのは董卓だった。
しかし、戦況が芳しくなかったため、司空の張温が孫堅を参軍として指揮を取ることになった。
孫堅軍の活躍によって反乱は鎮圧されるが、このとき軍律違反を犯した董卓を処刑するように張温に進言する。
そのことで董卓と孫堅の関係は陰悪なものとなる。
騒乱の中から董卓が政権を掌握して悪政を繰り広げる。
すると、各地の英雄たちが「反董卓連合軍」を結成させる。
(実質的には名前だけの連合軍)
しかし、結成されたのはいいが反董卓連合軍の諸侯は軍議と酒盛りに明け暮れる。
いっこうに動かない諸侯を尻目に曹操と鮑信のみが董卓軍に挑むが、ケイ陽で大敗してしまう。
191年、孫堅はその敗残兵を集め梁県の陽人に布陣するが董卓軍の奇襲にあい敗北。
孫堅は、程普、黄蓋、韓当、祖茂(そも)の四天王を引き連れて戦いに臨んだが、董卓配下では三国時代最強とも言える呂布と並ぶ武勇とうたわれた華雄に一旦は破れる。
孫堅はそれでも諦めず軍勢を再編して反撃に転じ、董卓配下の猛将華雄をみごと討ち取って勝利する。
形勢不利とみた董卓が和睦を申し出るが、孫堅はそれを突っぱねる。
孫堅軍の勢いを恐れた董卓は、洛陽を焼き払って長安に退却(遷都)する。
こうした孫堅の史実上の活躍は小説『三国志演義』では、相当削除されている。
華雄との戦いでは、袁術が兵糧を送らなかったため苦戦して敗退している。
歴史的事実としては、猛将華雄を討ち取ったのは孫堅軍である。
それが三国志演義では、関羽が斬ったことになっている。
董卓を退けた孫堅は漢王朝の都洛陽に一番乗りする。
そこで董卓によって荒らされた歴代皇帝の陵墓を修復し、魯陽に帰還する。
その後、孫堅は袁術の命により荊州の劉表を攻撃する。
劉表配下の黄祖を破って襄陽を包囲するが、その戦いの中で孫堅は不慮の死を遂げる。
敵兵の矢を受けたとか、伏兵がしかけた落石を受けたとも言われているが、真相は不明である。
董卓を恐怖せしめた「江東の虎」のあっけない最期だった。
孫堅の死によって、軍は袁術に吸収合併されて事実上消滅しかけるが、後に長男の孫策が袁術に懇願して、孫堅が残した軍勢を引き継ぐことになる。
『孫堅伝2』に続く。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。