『荊州を取る者が天下を取る』
あなたは自分のやりたいことの重要ポイントが見えていますか?
今回は、荊州争奪戦の話をしてみたいと思います。
【南郡攻略の火花散る】
赤壁の戦いで曹操軍を打ち破った呉軍は、その勢いに乗って漢口を手に入れようと南郡攻略を開始していきました。
指揮官はもちろん周瑜。
周瑜率いる呉軍は、曹操軍の敗残兵を自軍に吸収して、怒涛の如く侵攻していきました。
周瑜が狙うのは南城。
周瑜に先手を捉えそうになって焦る劉備。
ですが、軍師孔明は余裕の表情を崩さずにこう言います。
「わが軍を油江口に移せば、それだけで南群は手に入るでしょう」と。
劉備は、孔明を信じて軍を動かします。
本当に焦ったのは周瑜の方でした。
劉備陣営の兵力では、歴戦の武将曹仁が守る南城を攻め取ることは出来ないと周瑜は読んでいましたが、劉備には孔明がついていますから、なにか策略があるに違いないと考えて警戒したのです。
そこで自ら劉備陣営に出向いて、敵情を探ることにします。
周瑜は三千騎を率いて陣中見舞いを口実にして油江口にやってきます。
【赤壁の戦いは荊州争奪の前哨戦】
南郡は荊州の要の地。
荊州を攻略するためには、ぜひとも押さえておかなければならない土地なのです。
そもそも荊州を誰が抑えるのかということが、実は大変重要な意味を持つのです。
荊州という土地は、北方へも南方へも出ることができるし、西域(蜀)へも繋がっています。
ですから人体で例えると荊州はヘソのような場所に当たるのです。
この時代、中国一体を支配するためには、荊州がキーポイントなのです。
ですから、曹操も荊州を攻めて実際に攻略したのです。
その荊州を取り戻すために呉軍も劉備軍も赤壁で戦ったのです。
赤壁の戦いの本来の意味は、荊州奪還の前哨戦であったのです。
荊州の地を巡って三つ巴の争いが起きているのです。
曹操は赤壁で大敗しましたが、いぜん中原での勢力は温存したままだし、荊州もいいまだ統治しています。
それを奪還すべく呉軍(周瑜を中心として)が動いたのです。
それは劉備も同じです。
もともと三顧の礼で孔明を迎えたときに「天下三分の計」を授けられていますから、その後の劉備陣営の目的は荊州を取ることであったのです。
【天下三分か、それとも天下二分か?】
孔明と呉の魯粛には多少違いがありますが共通点があります。
この二人の構想は「天下三分」にあります。
つまり、強大な曹操に立ち向うのに、呉と劉備陣営の独立した勢力が協力して当たるということです。
しかし、周瑜は違った考えを持っています。
周瑜は「天下二分」を構想しています。
それは北の曹操に対抗して南方一体を治める呉と二つの勢力が両立する統治構想なのです。
そうです、周瑜の「天下二分」の構想からすれば劉備、孔明は邪魔なだけなのです。
ましてや、自分よりも切れ者の孔明などといいう存在は許すことができないのです。
周瑜は、劉備が油江口に移ったことを、呉軍に抜け駆けして南郡を奪うつもりなのかと、詰め寄ります。
慌てて劉備は言い訳をします。(実は演技)
劉備は、呉軍に加勢するために油江口に進駐したのだというのです。
ここで周瑜は、口を滑らせます。
もし呉軍が南城を攻め落せなかったら劉備軍が遠慮なく取っていいと言ってしまうのです。
周瑜とすれば、劉備の持つ一万五千の兵力では南郡を落すことは不可能だと見ていたのです。
ですが、油江口に劉キが来ていると聞いて驚きます。
なぜなら劉キには夏口に五万の兵があるからです。
劉キの五万と劉備の兵力を合わせれば、十分南郡を攻め取ることができるからです。
【周瑜と曹仁の攻防】
本当に劉キが油江口に来ているのか疑った周瑜は、病気で床に臥せっているという劉キに合わせろとしつこく言い出します。
周瑜のあまりのしつこさに劉備と孔明は折れ、劉キに会わせることにします。
そのとき劉キは本当に病で苦しんでいたのです。
(劉キはもともと病弱なのです)
病に侵された体で無理をして夏口からわざわざ劉備の元へやってきたのです。
それはもちろん劉備を応援するためであります。
荊州はもともと劉キの父劉表が治めていた土地です。
劉キは長男でしたが、家督を継ぐことが出来ませんでした。
劉キは自らが荊州を取ることも治めることも出来ないと理解していましたから、劉備に荊州を治めて欲しかったのです。
劉キという人も劉備の人徳に惚れ込んでいたのです。
周瑜は勢いに乗っていますから、曹仁に負けるなんてこれっぽっちも考えていません。
自信満面で南城攻めに攻め入ります。
しかし、そこには曹操が万が一のために曹仁に託した計略があったのです。
曹仁は、籠城戦を主張する部下の進言を退けて城外に打って出ます。
迎え撃つ周瑜軍。
呉軍の勢いに押され、曹操軍は崩れ始めます。
劣勢となった曹操軍は、城内に戻らずに西の方角に逃げていきます。
それを見た周瑜は城内に馬を進めます。
城門の橋を渡り城内に入ろうとしたときです。
周瑜の身体は乗っていた馬ごと突然沈んでいきます。
落とし穴が仕掛けられていたのです。
城門付近で混乱する周瑜たちに、隠れていた兵たちが雨のように矢を降らせます。
そのとき周瑜の胸に矢が刺さりました。
そこへ襲い掛かる曹操軍。
周瑜は間一髪で配下の武将に助けられて引き上げるのでした。
周瑜が受けた矢には毒が塗ってありました。
幸い処置が早かったため周瑜は命を取りとめました。
そのときに周瑜は策略を思いつきます。
それは周瑜が毒矢に射られて死んだという噂を流すことです。
その噂で敵をだまして、逆襲をしようというのです。
さて、この周瑜の作戦は上手くいくでしょうか?
南城を守っていた曹仁は優れた武将です。
曹操の側近中の側近です。
経験豊富で兵法も心得ています。
だからこそ、曹操は自らが離れるときに曹仁に南郡を死守する役割を与えたのです。
その曹仁と周瑜との戦いは見ものです。
【天下統一へのキーポイント=荊州】
赤壁の戦いから荊州争奪戦までに一番活躍したのが周瑜です。
小説の方では孔明が活躍したように描かれていますが、正史の「赤壁の戦い」にはほとんど孔明のことは書かれていません。
実際、赤壁で曹操軍と戦ったのは呉軍です。
小説の三国志に慣れ親しんだ人たちにとっては、周瑜はダークヒーローのイメージがありますが、実際の周瑜像は戦上手の人物です。
三国志全体の物語の中で、この荊州争奪戦というのはあまり印象に残っていない部分だと思います。
それは「赤壁の大戦」があまりにも印象強く記憶に残ってしまったからでしょう。
大きな合戦というのは印象と記憶に残るものです。
日本で言えば、関ヶ原の合戦のように。
しかし、この荊州争奪戦こそ、曹操、劉備、孫権たちの命運を分けることになるターニングポイントなのです。
孔明の「天下三分の計」は荊州があってこその計略なのです。
呉にしても曹操と対抗し、いずれ天下を統一するならば必ず押さえておかねばならぬ場所なのです。
それは曹操も同じなのです。
荊州争奪戦。
一見地味ですが、それは三つの勢力の行方を決める重要ポイントなのです。
ビジネスにおいても人生においても必ず「ここを押さえなければならない」というポイントがあるのです。
その重要地点(重要ポイント)をしっかり見極め、そこを押さえることが大切です。
【今回の教訓】
「重要ポイントを見極めて、そこを抑えろ!」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。