
今回が曹操伝の最終回です。
【曹操が目指した理想の政治とは】
《寛治と猛政》
後漢時代の政治は官僚たちへの刑罰が有名無実化していた。
これを「寛治」という。
寛治とは、緩やかな統治という意味で、要するにあまり重い刑罰を止めましょう、という政治です。
後漢王朝末期には、皇帝に実質的な権力は無く、各地の豪族たちがおのおの統治する地域において実質的な権力を発揮していた。
曹操は漢の実権を握ると法律に基づく徹底的な厳しい統治「猛政」を布きます。
これは曹操が若いときに理想とした人物である橋玄(きょうげん)の影響が大きい。
橋玄(字 公租)は、法に基づく厳格な猛政を行い、豪族の不法を許さず、外威・宦官とのかかわりをもつ者でも罪を犯せば必ず弾劾しました。
曹操は洛陽北部尉(首都洛陽の北部警察長官)になってから犯罪者を捉えると権力者とかかわりがあろうがお構いなしに杖殺する猛政を行っています。
曹操には「寛治」が後漢の国家支配を弛緩させたと認識したからです。
つまり、罪に見合った罰を与えずに刑を軽くすることが社会に害となったと判断したということ。
儒教の刑罰は『尚書』に基づく「五刑」を基本としています。
五刑は、「死刑」「去勢」「足切り」「鼻削ぎ」「入れ墨」と定められています。
しかし、後漢は「文帝の故事」に基づき肉刑である「足切り」と「鼻削ぎ」を廃止します。
代わりに「杖打ち」と「鞭打ち」を刑罰に含めます。
ですが、杖打ちも行われなくなり、鞭打ちは痛くない鞭を使うことがあったため、死刑との間の刑罰が開きすぎてしまったのです。
実質的に罪状に見合った中間刑(罰)が存在しなくなったということです。
要するに権力を利用して極刑を免れれば、軽い罰で済んでしまうのです。
曹操は、こうした中間刑が欠如して歪(いびつ)となった刑罰体系を是正したいという志を持っていたのです。
曹操は橋玄の厳格な正義を理想とすることで乱世を終わらせると志したということ。
《儒教的価値観の破壊》
曹操は漢王朝の基盤である儒教的価値観を破壊し、新たな価値基準を打ち立てようとした。
だが、曹操ほどの実力者であっても約400年に渡って培ってきた儒教的価値観を完全に破壊することはできなかった。
それが見て取れるのが、後継者問題である。
曹操は長男の曹昂が亡くなった後、後継者として期待したのは曹植と曹沖であったが、曹沖は幼くして病死したため、実質的に曹植と年長者の曹丕の後継者争いとなった。
儒教的価値観を持った官僚層たちは当然ながら嫡長子相続を主張する。
結局、曹操は長子である曹丕を後継者に指名し、司馬懿(仲達)らを補佐役に任じた。
曹操をもってしても儒教的価値観を完全に乗り越えることができなかったのだ。
【曹操伝の終わりに】
《三国志を理解するためのキーパーソン》
まず重要なことは、
「三国志を語るには曹操を語らねばならず、曹操を語らずして三国志は語れない」
「三国志の時代を知るためには曹操を知らねばならず、曹操を理解せずして三国志という乱世の意味を知ることは不可能」
「三国志の英雄たちのなかで曹操こそ、最重要人物である」
ということだ。
曹操を知ることで「三国志という題材の1/3は掴んだ」と言えるだろう。
「曹操を抜きにした三国志はあり得ない」
曹操こそ三国志の中心人物であり、重要人物であることは間違いない。
曹操を語ることができれば三国志の1/3は理解出来たと思っていい。
そう思う。
それほど三国志という乱世の時代にとって曹操という人物は絶対的に欠かすことの出来ない人物なのである。
《個人的見解の変化》
私が三国志に出会ったのは20代前半であった。
それが吉川英治著の『三国志』だった。
当時の私は、劉備が漢王朝を再興する夢を追って戦う姿に憧れ、関羽、趙雲らの活躍に胸躍らせたひとりであった。
誰にも真似できない智謀を発揮して快勝する天才軍師孔明にどれほど憧れたことだろう。
その敬愛する孔明の前に立ち塞がる仲達をどれだけ憎んだことだろうか。
もし、自分が三国志の時代に生まれていたらな、劉備を主君として仕えただろう。
その名君劉備の宿敵であり、越えられない壁として立ち塞がる曹操にどれだけ怒りの炎を燃やしたことだろうか。
そう、若き日の私は劉備「善」、曹操「悪」という『三国志演義』史観で三国志の時代を観ていたのだ。
だが、それは徐々に崩れていく。
そんなはずがない。
劉備と孔明を敬愛する自分のなかで曹操を否定したい潜在意識が働く。
三国志という時代を深く調べれば調べるほど、三国志に登場する人物たちの真実の姿を追い求めれば追い求めるほど、違った三国志が観えてくる。
三国志は「善」と「悪」の戦いではなく、「善」と「善」の戦いだったのだ。
まして、曹操は悪人でもなければ邪悪な存在でもない。
三国志は簡単に知ることが出来るようであるが、実は谷底が見えないほど深い谷を形成している。
さらに三国志という時代の真の意味を知るためには、三国時代の前後の歴史を学ぶことも欠かせない。
曹操が嫌いで悪役と思っていたあの頃の自分はどこにもいない。
個人的な興味は、「曹操が恐れた男は誰か?」ということだが、それは「三国志研究」にて語りたいと思う(いつになるか不明)。
《曹操とは?》
曹操は宦官の入り婿の醜悪な落とし児という出自から、そうとうなコンプレックスを抱えていたと思われる。
それが幼少時の不良ぶりにあらわれている。
曹操という男は世界史でも稀に見る才能と実力を兼ね備えた人物である。
世界史のなかでも、曹操と肩を並べられる人物はそうはいない。
それほどの人物であることは間違いない。
ただ、歪んだ性格と傲慢な性格を除けばだが。
どうして曹操という男が三国志の時代に登場したのか、そこに神の意思を見る者もいるはずだ。
曹操という男は、狡猾で合理主義な男。
残虐な一面を持っていながら、人材を大切にする理想的な上司の一面も持ち合わせている。
古い時代を破壊し新しい時代を切り開く気概に満ちている。
時代を創った漢(おとこ)と呼んでいいだろう。
「歴史的には評価されても、人々(民衆)に愛されない」
「三国志の中心人物にして、最重要人物こそ曹操」
三国志を語る者は、「曹操を語ることなくして三国志は語れない」ということを忘れてはいけない。
【英雄たちに贈る言葉】
《英雄たちに贈る言葉》
裸一貫から志一つでライバルたちと死闘を尽くし、理想実現のために命を燃やした劉備。
劉備の志を援けるため知恵の限りを尽くす軍師諸葛亮。
劉備の宿敵として圧倒的な実力と勢力をもって立ちはだかる最強の漢(おとこ)曹操。
名門の出自を鼻にかけ、分不相応の野心を胸に抱いて地に倒れた袁紹。
一騎当千の実力者でありながら、酒を浴びるほど飲んでは暴れ、兄貴分の劉備に叱られる張飛。
財宝や地位に目もくれず、曹操の誘いさえ断り、劉備への忠義を尽くし抜く関羽。
劉備と曹操の間で、外交術を駆使して領土拡大と生き残りを狙う孫権。
天才軍師孔明の知略を恐れ憎み、対抗意識を燃やす周瑜。
交渉術の権化と化し孫劉同盟を実現させ、呉のために戦う魯粛。
呉存亡の危機に劉備を退け、軍才の花を大きく花開かせた陸遜。
鳳凰の翼を大きく広げることなく散っていった龐統。
老体に鞭打ち、劉備の志を援けるため命をかけた黄忠。
艶やかな鎧を身にまとい向かうところ敵なしの馬超。
野心を隠し持ち、老獪な戦略で孔明の理想を打ち砕く司馬懿(仲達)。
あぁ~、これほどまでに熱い漢(おとこ)たちが勢ぞろいした時代があっただろうか。
平和な時代には、英雄は埋もれて姿を見せることはない。
だが、風雲急を告げると、光と共に現れ、そして時代を駆け抜けていく。
時代を切り開くのはいつも英雄(漢)たちなのだ。
乱世は必ず英雄を呼ぶ。
いまこの時代の中で、三国志に現れた英雄たちに出会いたい。
そう思う。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。