【曹操を取り巻く人間関係】
《ライバル1》
曹操のライバルは?
やはり劉備玄徳なのか?
曹操にとってのライバルはその時期によって多少異なる。
最初のライバルは袁紹だろう。
黄巾賊(張角)と董卓という存在もあるが、ライバルというよりも“倒すべき敵”である。
ライバルの定義は同じ目的を持ち、その目的を競い合い、行く手を阻む者、であろう。
そう考えると、曹操が天下統一を目指し皇帝(献帝)を擁して司空(副首相的立場)となったとき、曹操の前に立ち塞がったのが河北地方に強大な勢力を保持している袁紹である。
袁紹は、四世三公(四代に渡って三公の地位を得た)の名門袁家出身。
曹操と比べると、支配する領土が広く、軍勢の数も多く、人材も豊富であった。
急激に勢力を拡大していた曹操であったが、袁紹との力比べでは圧倒的に袁紹有利であった。
曹操にとっては目の上のタンコブで、天下統一を目指すために必ず越えねばならない宿敵であった。
よって曹操にとっての第一のライバルは袁紹である。
曹操は、最初のライバルを官渡の戦いにて撃破して中原に覇を唱えることに成功する。
《ライバル2》
第二のライバルは?
袁紹を破った時点での曹操は、「天下統一を掴んだぞ」という実感をもったことだろう。
最大勢力の袁紹を破って中原を支配したことで曹操の領土、兵数、人材も大幅に増加した。
もはや曹操に立ち向う敵はいなくなった、あとは雑魚だ!
そう思ったに違いない。
袁紹を倒して河北を支配下においた時点での曹操以外の勢力図は、江東の孫権、荊州の劉表、益州(蜀)の劉璋、漢中の張魯であったが、荊州の劉表と漢中の張魯は実質的に曹操の敵ではない。
すると曹操の天下統一に残されたのは江東に地盤を築いていた孫氏である。
おそらく曹操は自身よりずっと年下で未知数の若い孫権を敵とは考えていなかったはずだ。
となると曹操にとっての問題は水上戦だけだったはず。
平原での戦いとはまったく勝手が違う水上戦で勝利することが出来れば天下統一を成し遂げ、自ら皇帝を名乗り漢に代わって新しい王朝を開くつもりだっただろう。
個人的な私見では、それを覆したのは周瑜であろうと考える。
もちろんトップは孫権であるが、曹操の南下勢力を打ち破った功績は周瑜にある。
それと魯粛にも功績がある。(劉備との同盟などで)
『三国志演義』では、諸葛孔明が活躍しているが、劉備陣営には単独で曹操に立ち向う軍勢はない。
南下する曹操を迎え打って撃退したのは呉軍であり、呉軍を指揮したのは周瑜である。
孫権がいても周瑜がいなければ、呉は曹操に敗れていたはず。
だが、おそらく曹操は、周瑜という若い武将をそれほど怖がっていなかったはず。
曹操にとっては思わぬライバルが存在した、という驚きだったことだろう。
まさか! この曹操が敗北するとは!
そう思ったことだろう。
しかし、どう見ても曹操にとって、この時点でのライバルは周瑜だったのだ。
曹操は赤壁の戦いで敗北することによって、袁紹以外にも自分の野望を阻む実力者がいることを思い知ったのだ。
赤壁の戦いで曹操が敗れたことの歴史的意味は非常に大きい。
曹操一代での天下統一が限りなく遠ざかったことは間違いない。
曹操にとって天下統一を阻む第二のライバルが周瑜だったのだ。
《ライバル3》
曹操は、赤壁の戦いで大敗しても体制を立て直し、なお天下統一を目指す。
何度も軍勢を南下させて江東(呉)の孫権を脅かす。
同時に漢中を攻略し、蜀を平定し中国全土の支配を目指そうとした。
だが、そこに赤壁の戦い以後、諸葛孔明の策に従った劉備が蜀を攻略し、曹操の前に立ち塞がる。
ここにきて劉備が第三のライバルとなり得たのだ。
それまで劉備は曹操にとって直接的なライバルとは思っていなかったはずだ。
小説の『三国志演義』では善玉劉備が悪玉曹操の野望と戦う、という設定のもとにストーリーが展開するが、このときの現実の世界では、曹操と劉備の力関係はとても比べられるものではなかった。
ところが、軍師諸葛孔明を迎い入れた劉備は、荊州を取り、益州をも支配する一大勢力を持つライバルと成長していった。
これにより、曹操のライバルは呉の孫家と蜀の劉備陣営ということになったのだ。
曹操は、呉と蜀の二方面作戦に追われるようになる。
そして、漢中の戦いが起きる。
このときの劉備陣営は五虎将軍などの人材が揃っていたこともあり、曹操は漢中攻略を断念することになる。
つまり、潜在的ライバルだった劉備が荊州、益州を得たことで曹操の野望の前に立ち塞がる第三のライバルとして姿を現したということだ。
曹操は、劉備が流浪生活をしていたときには、劉備を自分の支配下(部下)に引き入れようとした。
もちろん劉備からすれば漢王朝を陰で支配する曹操に従うはずがなく、むしろ劉備にとってはずっと以前から曹操を最大のライバルと考えていたはずだ。
たとえ曹操のほうが劉備を相手にしていなくても。
だが、曹操の野望を打ち砕く最大の強敵(ライバル)とは劉備ではなく・・・。
《ライバル4》
小説『三国志演義』の主人公は諸葛亮(孔明)であり、宿敵は曹操として描かれている。
そして、曹操最大のライバルが実は諸葛孔明として描かれている。
この小説の設定は、歴史的意味からいって当たっているといえる。
呉の孫権ありしも、諸葛孔明無かりしば、曹操の天下統一はいずれ適ったであろう。
赤壁の戦いで大敗北はしたが、曹操は必ず再戦し、呉を倒したはずだ。
一度は周瑜という軍事的天才の前に敗れはしたが、兵法に通じていた曹操ならば、いずれ周瑜を打ち破ることは可能だったと考える。
もし、“劉備の蜀政権がなければ”、の話である。
中原の広範囲を支配はしたが、南方に呉、西域に蜀と二つの勢力が並び立ったことで曹操の勢力を以てしても天下統一の覇業が難しくなったのだ。
その第三の勢力が生まれた理由が諸葛孔明の「天下三分の計」なのだ。
諸葛孔明がもし存在しなかったら、劉備政権は誕生することはなく、曹操は西域(蜀)の劉璋と漢中を平定し、呉討伐に全力を傾けることができたはず。
魏の曹操対呉の孫権だけであったら、いずれ呉は魏に飲み込まれていたはずである。
それを崩したのは劉備の軍師諸葛孔明である。
諸葛孔明の示した戦略によって荊州と蜀に第三の勢力が生まれたからだ。
しかも、呉と蜀は同盟を結び、対魏の姿勢を見せたのだ。
これが曹操一代での天下統一を決定的に困難にしたのだ。
そういった意味では、曹操にとって最大のライバルは諸葛孔明と言える。
つまり、曹操が天下統一を一代で成し得なかった理由が、諸葛孔明の存在であったのだ。
曹操は強気な男。
周瑜も孫権も劉備も諸葛孔明も、曹操にとってはライバルというよりも、自らの野望を邪魔する邪魔者という意識であったかもしれない。
曹操は、彼らが自分に対抗できる人物とは思わず、邪魔な存在と認識していたはず。
だが、曹操がどう思おうと、曹操の天下統一を周瑜が挫き、諸葛孔明と劉備のコンビが決定的なほど台無しにしたことは間違いない。
《味方》
曹操は人材を強く求めた。
それによって多くの逸材が曹操旗下のもとに集まった。
曹操の野望を助ける人物たちは、
〈武将たち〉
曹仁(親族)、曹洪(親族)、夏侯淵(親族)、夏侯惇(親族)、許チョ、徐晃、張ゴウ、張遼、孫礼、李典、于禁、カク昭、郭淮(かくわい)、龐徳など。
〈軍師・参謀たち〉
荀彧、荀攸、郭カ、程昱、カク、司馬懿など。
〈文官たち〉
毛カイ、王朗、呉質、董昭など。
また曹操の家族たちも曹操にとっては、天下統一を助ける同士的存在と呼べる。
《祖父曹騰》
祖父曹騰は少年の頃、宦官として宮中に入って6歳になる皇太子(後の順帝)の学友役をつとめた。
曹騰はこのことで出世を重ねる。
中常時に進み、宦官の最高位である「大長秋(だいちょうしゅう)」(皇后侍従長)となった。
順帝の統治時代に、宦官が養子をとって爵位を世襲することが許された。
これによって曹騰は曹家から出た曹騰が再び曹家の人となることが出来た。
曹騰は三十余年、宮中にあって四帝に仕えた。
曹騰を通さなければならない事項は多く、その謝礼はおびただしいものになった。
そのため曹騰(曹家)は想像を絶する大富豪となった。
この祖父が蓄えた財が、曹操が旗揚げするときに大いに役に立つことになる。
曹騰は順帝の寵臣であり、かつ外威の梁氏一族と結んで政治を壟断した。
つまり、祖父の曹騰の成功がなかったならば、曹操の天下に名乗り出る時期が遅れたかもしれない。
そういった意味では、祖父曹騰の存在は重要である。
《父曹嵩》
夏侯家から曹家の養子に入る。
宦官として最高級に出世した父曹騰の蓄えた一億銭の金で「大尉」の地位を手に入れる。
「大尉」とは、国防担当の最高官であり、司徒(丞相)、司空(副丞相)と並んで「三公」と呼ばれた官僚としての頂点である。
袁紹の袁家ほどではないが、大尉を父に持つ曹操も世間から見れば家柄のいいお坊ちゃまということになる。
曹操は、この父を敬愛していたようだ。
つまり、「三公(大尉)の子」という立場は曹操に相当有利に働いたということ。
だから、父曹嵩の存在も曹操の偉業を生み出した要因である。
《妻》
あまり知られていないが曹操には多くの妻(側室、妾)がいた。
正室丁氏(玉英)、側室卞氏(阿厚)、劉夫人、環夫人、杜夫人、秦夫人、尹夫人、孫姫、周姫、宗姫、趙姫、王詔儀などが記録に残っている。
いったい何人側室、妾がいたのか不明なほどである。
(「夫人」と呼ばれるのはかなり身分の高い女性である。「詔儀」は女官の位できわめて高い地位の人。当時としては「姫」という称号が一般的なものである)
丁氏には子は無く、劉氏が産んだ曹昂(そうこう)が曹操の長男。
劉氏は曹昂を産んですぐに亡くなったため、正妻の丁氏が曹昂を育てた。
丁氏が亡くなってからは卞氏が正室になる。
曹丕、曹彰、曹植は卞氏の子。
余談だが、曹操の女性の好みはズバリ「人妻」である。
曹操は戦に勝つと敵の妻を娶ることが多かった。
曹操を庇った言い方をすれば、戦で夫を失った妻を引き取ったということか?
だが、本当のところは、単純に「人のもの(妻)」が好みだったようだ。
現代人には受け入れがたいことだろう。
《子ども》
〈曹昂〉
曹操の長男。
母は劉氏。
実母の劉氏が早くに亡くなったので、正妻の丁氏が母親として育てた。
曹操の後継者ともくされていた。
父曹操と戦に出たときに、曹操の乗る名馬絶影が負傷(矢を受けて動けなくなった)したのを見て、自分の馬を父(曹操)に与えたため、徒歩で戦い乱戦のなかで命を落とした。
この長男(曹昂)が生きていたら大いに曹操の天下統一の助けになったことだろう。
〈曹丕〉
曹操の次男。
母は卞氏。
曹操の偉業を受け継いで魏王朝初代皇帝となる。
女性に関しては父譲りなところがあり、父親の狙っている女を横からかすめ取るといった可愛げのないことをする。
曹操の子どものなかでは、一番曹操に似ていたと言われている。
〈曹彰〉
曹丕の弟。
母は卞氏。
人並すぐれた体力の持ち主で、書物を嫌い、騎馬撃剣を得意とする。
父曹操は、「武」一辺倒の曹彰を「一夫の用にしかすぎん」と言って低い評価を下している。
だが、行軍の際には曹操の助けとなったことは間違いない。
〈曹植〉
曹丕、曹彰と同じく卞氏の子。
卞氏の子の中では曹操にもっとも可愛がられた。
文学の才に優れた人物。
特に詩作の才は天下一品。
曹操は曹植を跡継ぎと考えていた節があるが、曹植には浮ついたところがあり、誠実さに欠け、酒を飲んで勝手な行いをするので、最終的に後継者から外したものと思われる。
〈曹沖〉
母は環夫人。
曹操が最も愛した息子。
幼いころから賢さは抜きんでていた。
曹操は沖の成長を期待したが、夭逝している。
曹丕に暗殺されたという説もある。
〈曹節〉
曹操の娘。
献帝の伏皇后亡きあとの皇后になる。
【エピソードから見る曹操の実像】
エピソードに関しては、本編に譲るとし、ここではいくつか代表的なものだけに絞ります。
エピソードとは、ある現象にたいする固有の人間が、その人が持つ個性によって対処した結果である。
つまり、ある出来事があっても、人によって受け止め方やどう対処するかはさまざまに違ってくるということだ。
違う理由は、その人の性格が大きく反映されているからだ。
人間は似ているようで、百人百様の性格がある。
さらに「性格」プラス「才能」「能力」「環境的要因」「人間関係」などが絡んでくる。
同じ現象(出来事や事件)があってもその反応はさまざまである。
よって、エピソードからその人物の性格、性質などを読み解くことができる。
曹操に関するエピソードも、「曹操だからそうした」「曹操だからそうなった」ということが言えるのだ。
結局、曹操という男を知りたければ、曹操に関するエピソードから曹操がどんな男なのかが分かるということだ。
《エピソード1》
正史『魏書』武帝紀に「法を制して自らこれを犯さば、何を以ってか下を師(ひき)いん」とある。
曹操が軍を率いて行軍中に、たまたま麦畑にさしかかった。
曹操は、部下に厳命した。
「麦を踏みつけてはならん。違反者は殺す」
これは戦乱の世の常であるが、戦をし、統治するためには食料を確保することが必須である。この時代の各地の英雄たちは食料確保に苦しんでいる。
曹操陣営も同じである。
曹操の命で騎馬の将兵は全員馬から下りて麦を手でかばいながら進んだ。
ところが、曹操の馬が暴れて麦畑のなかに駆け込んでしまった。
兵たちは唖然とするしかない。
曹操は、副官を振り返り「わしの罪は、どれほどの罰に相当するか」と訊ねる。
副官は「『春秋』の定めによりますと、罰は最上位の者には加えぬことになっております」と曹操を庇った。
曹操はその言葉を聞いて思案する。
そして、「法を制して自らこれを犯さば、何を以ってか下を師(ひき)いん。然れどもわれは軍の師(すい)たり。自ら殺すべからず。請う、自ら刑せん」と言って、剣を取り、ばっさりと自分の髪を切り落とした。
曹操は、信賞必罰の手本を自ら示したのだ。
このエピソードも曹操という男の特徴がよく表れている。
本音を言えば、自分には罪はない、と思っただろうが、部下の統制をするためにはケジメをつけねばならない。
多少芝居がかっていても自ら手本を示すことで、曹操の命を部下が重んじるように仕組んだのだ。
《エピソード2》
曹操は、官渡の戦いで宿敵袁紹に勝利する。
当時としては漢王朝の名門の家系である袁紹のほうが、曹操より実力があると思われていた。
同時に袁紹が勝利すると思っていたものは多い。
それは袁紹陣営に限らず、曹操陣営も同じだった。
官渡の戦いは曹操自身が言っているが、実に累卵危うき戦であった。
曹操自身も撤退を考えてしまったほど一か八かの勝負であった。
官渡の戦いの時に、内心では曹操軍が負けるのではないかと思って、密かに袁紹と内通するものが出た。
官渡の戦いで勝利を治めた曹操は、袁家の秘庫に収蔵されていた文書類をすべて押収した。
その中から曹操陣営から袁紹に内通していた者の文書(封筒)が出てきた。
曹操は、中を見ずに「すべて火に投ぜよ」と命じた。
内通者はそっと胸を撫でおろしたに違いない。
曹操という男の器の大きさを示すエピソードである。
曹操がなぜ内通者を洗い出して処分しなかったのか?
答えは曹操という男を知れば知るほど理解できる。
疑い深い性格の曹操は、万が一肉親や一族の名があったら二度とその人物を使えなくなる。
才能を強く求めた曹操は、それを惜しんだのだろう。
また、袁紹を倒して中原の覇者となろうとしている自分(曹操)に歯向かう者はいないだろうとの計算もあっただろう。
今後の天下取りを考えると、裏切り者を処分するよりも自分の勢力として使うことが得だと判断したと思われる。
『曹操伝3』に続く
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。